↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/156

八月一六日⑥

 本橋は動じることなく、前を見たままグラスを傾け「酷くない。褒めてるんだよ」と静かに言った。それを聞いた東原は、人差し指と中指の間から目をのぞかせた。

「私からも言っていい?」

「なんだよ」

「本橋は話をはぐらかすのがうまいわね。勿論褒めてるのよ」

 本橋はうんざりしたような表情で、ナッツを口に放り込んだ。東原は、ふと思い出したように急に不機嫌な面持ちになり、

「そういえば、例の白岩っていう人物に電話をしてみたの」

「どうだったんだ?」

「取り付く島なし。自分は社長じゃないし、必要なことは全部社長に報告したし、書類も渡してあるだろうって。最後には、死んだ作業員がたまたま働き始めて一週間だったことがそんなに疑わしいのか、遺族のことを思うのであれば、監督署はさっさと労災保険を支給するべきじゃないかって抗議されちゃったわ」

「感情的になっている様子だったか?」

「そうとも言えない。電話でやり取りした印象では、弁が立つタイプね。言葉の抑揚も意識的に使い分けているのかもしれない」

「白岩は、被災者が働き始めて一週間って言っていたのか?」

「そうよ。確か、雇用契約書の契約期間も八月一日からになっていたわよね。それが何か?」

「実は黒本組の社長から話を聞いた後、新宿駅南口付近で被災者と面識があったホームレスの男を見つけたんだ。その男は、被災者と別れたのは七月二三日だったと言うんだ」

「働き始めた日と一週間のズレがあるわね」

「そうなんだ。おまけにその男によれば、被災者はずっと消息がわからなかった娘のために明日から働くことになっていると話していたらしいんだ」

「そう言いながら、一週間無駄に過ごしたってこと?」

「そういうことになるな」

「怠けグセがついていたってことかしら?」

「その可能性はある。だけど、会社もタダで寮に寝泊まりさせて飯を食わせているわけじゃないからな。寄宿労働者からの家賃や飲食代も重要な収入源だ。見方によっては、法外な家賃を設定することで、合法的に低水準な賃金で人を遣っているとも言えるけどな」

「衣食住を握ってしまえば、好き放題できるってことか」

「だな。無駄かもしれないけど、明日黒本組の寮に行ってみる。被災者が一週間何をしていたのか探ってみるよ。東原の話じゃ、白岩っていう奴に抵抗されそうだけどな」

本橋は席を立つと、澄ました顔でグラスを磨いているヒロに、片手を上げて店から出た。背後から「ありがとうございました」というヒロのバリトンボイスが聞こえた。

 午後一一時を回っていたが、歌舞伎町の夜の空気は暑く淀んでいた。街は色とりどりの原色のネオンサインが溢れかえっており、道行く人々の顔も原色に染まっていた。歓楽街に生産的や建設的という言葉は存在しない。サラリーマン達が職場への不満のはけ口や大した価値もない自己顕示欲を発散する場であり、若者達が夏こそが有り余ったエネルギーと欲望のはけ口であるという幻想に酔う場であり、そんな人々から金を巻き上げようと目論む街の支配者達の下僕として声を枯らす客引き達の戦いの場であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。