八月一六日⑤
「わざと受験失敗する馬鹿がいるわけ無いだろ? 頭が悪かったから落ちたんだよ」
「本人は、そう言ってるけど?」
東原がヒロの方を見ると、ヒロはグラスを丁寧に拭きあげながら、「公式発表ではね」とウインクした。そして、グラスを頭上のグラスハンガーに掛けると、流れるような手つきでナッツを皿に盛り、本橋の前に置いた。
「本当は私のママに迷惑をかけたくなくて、わざと落ちたんだもんね」
「なんでヒロ君のお母さんが出てくるの?」
「あら、エイジは話したことなかったの? 二人は仲良しだと思っていたのに、意外と他人行儀なのね」
「普通、職場の同僚と就職する前の身の上話なんてしないだろ?」
本橋がマティーニのグラスを空けて差し出すと、ヒロはスマートにそれをシンクに下げ、何も聞かずにヘンリーマッケンナのボトルを取り出し、ロックグラスにツーフィンガー注いだ。東原が本橋の席の前からナッツを拝借しながら、
「そういえば、そうかもね……。ねえ、私大学受験失敗して二年間浪人したって話したっけ?」
と楽しそうに本橋の背中を軽く叩いた。
「聞いたことなかったな。……なあ、何で勝手に自分の過去を暴露し始めてんだよ。オレは付き合わないぜ」
「えー、教えてくれてもいいじゃない。二浪して大学行くの諦めた私としては、わざと落ちるなんて聞き捨てならないんだから」
「え、じゃあカエデちゃんも高卒なの?」
ヒロが驚いた顔で尋ねた。
「そうよ。ヒロ君も?」
「こう見えて豊島工業高校機械課卒業です」
ヒロは、わざとらしくバリトンボイスで言った。
「ヒロ君って、本当にいい声してるよね。ラジオのアナウンサーできそう」
東原の話はいつも脈略がない。「オンナってそういうものよ」と心得ているヒロは、その流れに自然に乗って、アナウンサー口調で
「続いては東京都にお住まいのカエデさんからのリクエストで、Thelonious MonkのEvidenceです」
と言いながら、軽やかにCDを入れ替え、再生ボタンを押した。ちょうどその時、入り口のドアが開いた。ヒロは、バリトンボイスで「いらっしゃいませ」で客を迎えた。先ほどまでの和やかな雰囲気は一瞬にして霧散し、客に洒落た時間を提供する空間に変わった。そして東原が指摘したとおり、ヒロのバリトンはそれを演出する効果的なエッセンスだった。
「毎日暑いね」
「暑いですね」慣れた手つきでヒロはコースターをセットした。店内に流れるMonkのピアノの音色すら、先ほどと違った響きに聞こえた。手慣れた様子で接客を続けるヒロの姿を東原は感心するように横目で眺めていた。
「ヒロ君って、本当に相手を楽しませるのがうまいわよね。昔から、あんな感じだったの?」
「そうだな。あいつは聞き上手だし、相手との距離の取り方がうまいからな」
「ヒロ君と本橋って、いつからの付き合いなの?」
「赤ん坊の頃からだ。公団住宅の隣同士だったんだ」
「そんなに昔からなんだ。じゃあ、ふたりともお互いのことをよく知っているのね」
「そうだな。おい、いつもの手口でオレから話を引き出そうとしても無理だぜ」
「なによ、いつもの手口って。私が悪い人間みたいじゃない」
東原が本橋の腕をつねった。
「自覚していないかもしれないけどな。みんなお前の調子に合わせているうちに、余計なことまで打ち明けてしまうんだよ」
「酷いわ」東原は両手で顔を覆った。




