03-22:急斜の山、寒冷な川
山を歩き続けて三日。
ようやくセナたちは、ファナン共和国側へ繋がる渓谷付近まで歩を進めていた。
魔物の襲撃はなかったものの、倒木や急斜面、岩場。
道なき道に、かなり苦労させられる羽目になった。
セナは、サイモンに馬を預けたにも関わらず、二度も根に躓いた。
おまけに、四度も斜面に足を取られかけた。
その度にレンツや他の騎士に肩や手を掴まれて、セナはなんとか怪我を負うことはなかった。
「……山って恐い。道普請って偉大」
助けてもらう度に謝罪と礼を繰り返し、セナは両手で顔を覆う。
これまで山を歩いていて、こんなふうに誰かの手を借りたことなんてなかった。
踏み固められ、手入れされた道の有難みなど、生きてきた中で感じたこともなかった。
「ルフォス様、気になさることはありません。
私も町育ちで、山には詳しくない。気を抜いたら危ういですよ」
隣を歩くトリスタンが、水色の前髪を払い、額の汗を拭う。
すると、前列のイーモンが鼻で笑った。
「村育ちの間違いだろ、パリッシュ領にゃ田畑しかない」
トリスタンが目を吊り上げた。
「なんだと、貴様」
「やめなよ、二人とも」
後ろを歩くシェイが呆れたように溜息をつく。
両者は、睨みあったままだ。
「お、キャットファイトか?!」
ペロが楽しげに茶化す。
(……違う。…というか、どっか他所でやってほしい)
セナは何も言わずに、トリスタンとイーモンを見た。
ひと睨みで止めてくれそうなエイベルは最前列で、軽口でいい感じの仲裁をしてくれそうなユーインは後列についている。
シェイの隣を歩くレンツは、二人を注視はするものの口は開かない。
なんとなく、彼が出るのは手が出てからのような気がした。
イーモンの隣のカリーナは、予想通り我関せずといった空気である。
険悪な雰囲気に耐えかねて、セナはトリスタンに微笑む。
話題を変えてしまった方がいい。
「……ところで、トリスタン殿。ご領地では何を作ってらっしゃるんですか?」
「……は…」
ようやく睨み合っているイーモンから視線を外したトリスタンは、吊り上げた目のままセナを見た。
「田畑が多いってことは、気候のいい恵まれたご領地なのでしょうか?
ご気分を害されないなら、ぜひ教えていただきたいです」
イーモンの放った言葉が、セナには怒るほどのことなのか分からなかった。
村も田畑も素晴らしい。
それに、「琵琶湖の水を止めたろか」みたいな、最高にイカした反撃ジョークを言えたらいいのに、貴族同士ではそういった文化はないのだろうか。
「……パリッシュ領は、主に小麦と大麦を。
それから、赤林檎もありますよ。北の紫林檎に比べ、ずっと甘いです」
「赤林檎?」
トリスタンの水色の目を見て微笑んだあと、セナは足元に視線を戻した。
流石に、これ以上転びそうになるのは避けたかった。
「ええ。ぜひ、我が領の――」
トリスタンの言葉が止まる。
すると、前方のカリーナと馬の足も止まった。
「はー、やっと着いた」
後ろからシェイがホッとしたように呟く。
谷間へ到着したようだ。
セナの耳にも、流れる水の音が遠くから聞こえてきた。
その日は山中で夜を明かし、翌日の夜明け前。
セナたちは人影がないことを確認してから、山を出た。
岩影と流水の揺らめきだけが、暗がかりでも目立つ。
風は弱く、ザアーっと流れる水音が低く連なって響いていた。
流れは速すぎるとは言えないが、穏やかとも言えない。
川を渡るため、セナは足を川につける。
その瞬間、刺すような冷たい水が一気に靴へと入ってくる。
馬を引きながら渡れる浅瀬とはいえ、セナの足首から脛までは容赦なく冷水に浸かった。
足元から体温が奪われていくようだった。
滑る石の上を歩く危機感が、早く岸へ上がりたい焦りを抑える。
凍るような冷たい川に、転んで、全身水浸しになるのはごめんだ。
なんとか反対側に辿り着いた時には、足の指の感覚が無かった。
ガチガチと寒さで鳴る歯を、セナは噛み締めて音を殺す。
「オイ、大丈夫か?」
ペロの声とともに、足元から温風が吹き抜けた。
冷えた足先の体温は戻らないけれど、濡れていた靴が乾く。
「だいじょぶ。ペ、ペロ、さ、最高…、魔法万歳…」
頭が回らず、喋る余裕もない。
火に当たりたい。それだけが、ずっと頭を占めている。
セナは、もうじっとしていられなかった。
弱まり始めた月明かりを頼りに、落ちている枝を拾い始める。
「暗くて確信はないが、リエズ第二王女殿下をお送りした時に通った覚えがあるな。確か山中に集落があったはずだ」
「………夜が明け次第、三人で偵察を。スモールードの民によれば、魔物が多いと。
集落は残っていない可能性もある」
ユーインとエイベルが何かを話しているが、セナは構わず焚き火の準備をする。
シェイやレンツ、カリーナ、それから数人の騎士もセナと共に枝を集めてくれた。
「…ペロ、お願い。火…」
準備ができて、かじかむ指先を擦る。
「おう、任せろ!」
ペロが野球ボール大の火球を、集めた枝へと放った。
ゴオッと音を立てて、火柱が上がる。
それも一瞬のことで、やがて炎の大きさが落ち着いた。
炎が揺らめき、パチパチと枝が爆せる音だけが続く。
背に何かが掛けられる気配がする。
ありがとうと伝えたいのに、もう瞼が重くなっている。
水流と炎の音が遠くなっていった。
「おーい、セナ起きろ」
ペロの声が脳内に響き渡る。
「お嬢様」
今度はカリーナの声と共に、身体が優しく揺さぶられた。
セナはゆっくりと目を開き、顔を上げる。
「……ごめん。寝てた」
周囲は、すっかり明るい。
対岸には森が広がり、セナたちが通ってできたはずの痕跡は、跡形もなく片付けられていた。
眼前には、大小様々な岩がいくつも転がって、広い川幅に澄んだ水が流れている。
ザーッと絶えず響く水音は、夜明け前と同じだ。
それなのに、どこかから聞こえる鳥の囀りが混じって、セナにはとても穏やかなものに聞こえた。
立ち上がろうとすると、誰かの外套とスモールードで購入した毛皮が肩を滑り落ちる。
「集落を見つけたそうです。参りましょう」
カリーナが右手の平を焚き火の炎に向けた。
その手を横にスライドさせると、身体を温めてくれた火が一瞬で消えてしまう。
「どれくらい寝たんだろ…」
セナは、肩に手を置いて首を左右に倒した。
体育座りで縮こまるように寝ていたから、すっかり身体が固まっていた。
頭は元気なはずなのに、身体が鉛のようで、とても怠い。
「二時間くらいだろ。さっさと集落とやらに行って、ベッドで寝ろよ」
ペロが指差す方向に目を向けると、騎士たちは既に馬の準備をしている。
セナも外套と毛皮を拾い上げて、鹿毛馬の元へ急いだ。
渓谷沿いの街道は整備され、集落への山道は騎乗できるほどだった。
すぐに森の中に切り開いて作られた小さな集落が見えてくる。
八軒の木造民家に、大きめの宿屋が二つ。
厩舎のような簡素な作りの建物は三つあった。
「こっちだ!」
ユーインが手を振ると、風がびゅうと谷の方へと吹き抜ける。
枯葉が音を立てて通り過ぎ、生臭い死の匂いが漂ってきた。
この場所でも、何かがあったのだろうか。
セナは、ぎゅっと鹿毛馬の手綱を握りしめた。
集落の生活空間に足を踏み入れる。
無人を思わせるような不気味な静けさがあった。
通りや家屋には、黒く乾いた血の跡がいくつも残っている。
薪が散らばり、片方だけの靴が転がっていた。
「…………」
何かを引きずったような黒い筋が、這うように大地に残っていた。
ゴクリとセナの喉が鳴る。
「ある程度は片付けた。ほとんど魔物が食ってたけどな」
ユーインが、下馬するエイベルに報告している声が耳に入ってきた。
そこらで、ブンと空気を揺らす不愉快な羽音が響いている。
耳の横に飛んで来た羽虫を右手で払い、セナも馬を降りた。
「……宿周囲に見張りを三人立てる」
エイベルが短くユーインに言うと、セナへと振り返った。
ざりざりと土を踏む音が近くなる。
エイベルの顔は、いつもと変わらず気難しそうだった。
「ルフォス様、幌馬車をいつまで待つか決めねばなりません」
彼にとっては、この異様な光景も見慣れたことなのかもしれない。
「幌馬車隊の人員を考えても、遅くとも、二日以内には合流できるはずです」
隣にカリーナがやって来て、まるでナビのように言った。
いつもならカリーナとエイベルの表情を読んで、最も無難そうな答えを選ぶのに、その過程を踏む余裕がセナにはなかった。
脳内にいくつもの関係のない場面が流れて行く。
怒りに満ちた獣人の顔、剣を振るうエイベルたち、黒い魔物。
不思議な水中の世界、垂れ下がった耳と尻尾の亜人の子。
それから、アデラインが見せてくれた美しい魔法。
「……余裕を見て一日伸ばし、三日待つのはどうでしょう?
合流できなければ、出発でどうでしょうか」
勝手に口をついて台詞が飛び出す。
「では、四日目の朝には出発を」
エイベルは特に意見なく頷いた。
しかし、二日が過ぎても幌馬車隊どころか、
街道を通る者は、誰一人としていなかった。




