03-19:淡く輝く気泡
冷気が一瞬にして、セナの身を包んだ。
異界に繋がる魔法陣に入った時に似ていた。
けれど、倒れ込んだセナが見えたのは、暗闇ではない。
幻想的な澄みきった水中世界が広がっていた。
太陽の光に煌めく美しい水中を下から眺めているような景色だった。
けれど、普通の水中風景ではない。
赤や白、青、緑、黄色の光を帯びる気泡が上へと流れて行く。
それぞれ大きさはサッカーボール大の物だったり、ついこの間食べた紫林檎と同じ大きさだったり、もっと小さかったり、大きなものもあった。
空間の壁は、まるで岩肌のように見えた。
気泡と同じ色の木の根のようなものが岩肌を這うように飛び出ていて、幾つも絡んでいる。
いくつかは途中で千切れてしまったのか、水の中を漂っていた。
(……なにここ…)
あまりに美しい光景に目を奪われていたが、
脳みそに浮かんだ言葉に、セナはハッとして起き上がった。
水の中にいる感覚だった。
身体を動かせば、緩い水の抵抗を感じる。
それなのに、温度は感じない。
しかも、セナは普通に息をしている。
ごくりと生唾を飲んだ。
右手で首と顎のラインに触れるが、魚のエラはない。
魚人間になってはいないらしい。セナはほっとして胸を撫でおろした。
「ペロ」
そう名前を呼ぼうと口を開いたのに、
気泡が僅かに出て上に昇っていくだけだった。音は出ない。
美しい水中の景色に感動する心は、あまり持続しなかった。
すぐにセナの心を不安の荒波が襲ってくる。
生きていることを確かめようと、セナは左胸に手を置いた。
焦っているせいか、心音が捉えられない。
さっきまでユーインに掴まれて赤くなった手首を左手で掴む。
トクトクと脈が触れている。
とりあえず、今の段階でセナは死んでもいないようだ。
上ばかり見ていたけれど、セナは、ようやく自分が座っている場所が不可思議な場所であることにも気がついた。
まるで、固定された透明の板にでも座っているかのようだった。
見下ろせば、下にも暗い、とても暗い深淵が続いていた。
色とりどりの気泡が上がってはいるけれど、
透明板から飛び降りる勇気は到底出そうにもない。
ひとまず立ち上がり、セナは歩き始めた。
(うわっ!)
二歩先には透明板はなく、危うく落下しそうになる。
セナは、なんとかバランスを取って耐えた。
暗闇に落ちる危機を味わい、早鐘のように心臓が鳴り響く。
(……最悪…。マジ最悪。なんなの、ここ! 魔物の腹の中とか!?)
またも魔物に襲われ、今度は一人で意味不明な空間に閉じ込められている。
セナはイライラし始めた。
へっぴり腰になりながら、手で透明板がある範囲を確かめる。
どうやら一畳分のスペースくらいしかないようだ。
それからセナは、上に泳いで行こうとした。
いくら手で水をかいてみても上には進まず、ジャンプしても地上と変わらない高さしか跳べなかった(座ることができるのだから、重力因果的にも当然だ!)。
思わず体育座りになり、ガックリと肩を落として俯く。
(……どうしろと…?)
奇妙な世界に一人置かれる恐怖。
そこにゆっくりと焦燥が混ざっていく。
(……ペロ…。それに、みんなも大丈夫かな…)
ふと、直前まで一緒にいたペロや騎士たちを思い、また気分が塞がっていく。
何人かは無事だろうか。
きっとペロは飛べるから無事のはずだ。
セナは目を伏せて、息を吐き出そうとした―――次の瞬間、ゾッと怖気が走った。
(なに!?)
顔を上げると、ちょうどセナの目の高さに暗い赤色の塊が落ちて来た。
燃え残りのような、奇妙な形の炭にも見える。
あっという暇もなく、それがセナの手の甲に落ちた瞬間、弾き消える。
(ぅきゃぁあーーッ!! 気、持ち、悪っ!!)
当たった瞬間、セナは身の毛がよだち、瞬時に立ち上がった。
暗い赤色の何かが当たった手を、勢いよく何度も振り払うように振り回り、その場でバタバタと素早く足踏みをする。
まるで毛虫が落ちて来て、触ってしまった気分だった。
おぞましい棘や、ビッシリの毛が生えた虫とは似ても似つかないのに、なぜかセナは嫌悪を感じた。
しかも、それは一つ二つで終わらず、幾つもセナに頭上から降り掛かった。
しばらくセナは声無き悲鳴を上げ、ジタバタと飛び跳ね、狭いスペースを走り回る羽目になった。
どれくらいの時間が経過しただろうか。10分、15分―――
毛虫の如く嫌悪感を感じる暗い色の物体がようやく落ちてこなくなり、セナは長い溜息をついた。
(………もうマジ最あ…最高…)
疲労感が半端なく、未だに鳥肌が立っている。
あぐらをかき、ペッタリと頬を透明板につけると、下に続く暗闇が目に入った。
奥に、大きな黒い影が見えた気がした。
それに、腐食したかのように岩肌を這う木の根は黒みを帯びているところもある。
不気味だな、とセナが見ていると、
ふと、どうしてか、頭の中にフィアの清涼な声が蘇った。
『門をくぐりて辿りし者、北上して内に進み、是を知り得て、知り得ざる』
起き上がり、セナは足の先から急に何か冷たいものが駆け上がってきた。
半信半疑だったそれが、パチンと嵌まった瞬間、ゾワッと再び肌が粟立つ。
(まさか、)
驚きに目を見開き、再び空間を見回す。
深い水の中を思わせる、奇妙で美しい、見たこともない不思議な場所。
色を帯び、淡く輝く気泡。
岩肌のような壁に這う木の根のようなもの。
(ここが、内…?)
星霊が詠んだ託宣。胡散臭そうで、曖昧そうな預言。
その言葉が浮かんだ瞬間、セナの脳みそから不安や心細さが一旦端に置かれ、情報が忙しなく行き交う。
セナはここで、何かを知り、何かは知ることができない。
今、理解したのは、この空間が『内』であるかもしれないことくらいだ。
再びあぐらを組んで座り込み、セナは溜息をつく。
口から出た気泡が、また上へと昇っていった。
(そもそも、ここが内なら、どうやって外に出るのかもわからないんですけど?
知り得ざる…。出方が分からないとか? イジメ?)
気泡を見上げながら、
セナは脱力して再び透明板に寝転ぼうと体重を後ろにかけた。
ガサッと葉擦れの音とともに、固い地面の感触がした。
水の煌めきはなく、ただただ薄暗い紫色の空が見えた。
光源の切れかけた弱々しい太陽の隣に、柔らかな月が輝いている。
「ルフォス様ー!」
誰かが、セナ・ルフォスを呼んでいた。
「セナーー!」
ペロの叫び声までする。
セナは身を起こした。近くに、もたれようとした苔がこびりついた岩がある。
「……ここ…」
声が空気を震わせた。手が震える。
戻って来た。セナは内から外に戻ってくることができたのだ。
「ここにいる!」
声を張り上げると、じわりと視界が滲んだ。
役立たずだったらどうしようと、いつも渦巻いていた不安が消えて行く。
溢れる涙を拭い、セナはこの異界の地に立つ。
預言は成った。




