01-4:仁者は憂えず
ペロがやって来てから、早くも2ヶ月と10日が経過していた。
違和感と煩わしさに満ちた数日を乗り越えてしまうと、
ペロがいる生活はすっかり日常になっていた。
「ありえなくない!?」
乱暴にプラスチックコップを白いローテーブルに置くと、グレープジュースが僅かに卓上にこぼれた。
どんな時、どんな場所にも嫌な奴は存在するもので、
せっかくの金曜の夜なのに、セナはカンカンに怒っていた。
「ありえない上に責任逃れだ! おまけにアイツはすぐに逃げて、いつもお前が尻ぬぐいをしてる! オレに実体があれば、160発くらいお見舞いしてやったぞ!
シュッ!シュシュ!」
ペロが効果音を口にしながら、画面内でシャドーボクシングを始める。
ペロのパンチやキックを食らっている男を想像すると、セナは少しだけ怒りが和らぐような気がした。
こうやって、セナが上手くいかずに落ち込んだり理不尽な目に遭うと、ペロはすぐに一緒に悲しんだり怒ったりしてくれた。
デートが散々だった日は、ペロがノリノリのダンスミュージックを流して、一緒にはしゃいだ。
風邪気味の日には、いつもの運動を中止して「寝ろ!」と叫ぶ。
この白いモフモフはいつの間にか、セナのいい友達だった。
始めた運動は習慣になった。
休日のウォーキングは、いつの間にか3分の2がランニングに置き換わっている。
セナは、ペロが作ったステータス値を表示するアプリ『レベル・アップ・デイズ』を見た。
先月との差
体力 +4
俊敏 +2
耐久 +1
ペロは、「3日勇者」とか「継続の卵」、あとは「がんばりマン」なんて謎の称号を付与してくるから、それも少しばかり楽しんでいたりする。
いつものランニングルートである狭い住宅地の細道に入る。
すると前から大柄な男が歩いて来た。
セナは走るのをやめ、ぶつからないように、息を整えて早歩きで端を歩く。
すれ違った瞬間だった。
わざわざ大柄な男はセナの肩に勢いよくぶつかって来た。
反動でコンクリート塀に背中をぶつける。
「イッタ…!」
「邪魔なんだよ、クソが!」
謝られるどころか悪態をつかれ、セナは目を白黒させた。
大柄野郎は更に舌打ちをして、他所様のお宅のコンクリート塀を蹴り付けて歩いて行く。
「おい、セナ! 大丈夫か!?」
イヤホンからペロの声が響く。
我に返ったセナは、恐怖心から早々に細道から出た。
「ヤベー奴だったな!」
ペロが怒ったように声を上げた。
「初めてだよ、あんな人…」
わざわざぶつかりに来た挙句に、悪態をつく人間をセナは初めて見た。
「……マナが変質してた。アイツは人間の皮は被ってるけど、既に魔者になりかけてんな」
「マジャ? なにそれ?」
聞きなれない言葉に、セナはスマホをポケットから出して手に持った。
画面の中のペロが嫌そうな顔をしている。
「ヒトが魔物に変質するんだ。
強すぎる怒りや不安、劣等感、罪悪感なんかで精神が大きく乱れると、マナの循環まで滞り始める。
他人に向くか、自分に向くかは関係ないぞ!
ある限界を超えりゃ、それだけでマナが正常に巡らなくなる。
世界のマナが正常なら人の姿のままだが、世界そのものがマナ異常を起こしてると、身体の形まで引っ張られて変わっちまう。そこまでいった奴が魔者だ!」
「何それ」
セナは混乱しながらも、ペロの言葉を理解しようとした。
人が魔物に変質する?
「ちょっと待って。ペロ、あんたの世界は魔物もいるの?」
「いるぞ。マナ異常で増えるからな。この世界にもモンスターや妖怪やらの記録が残ってるだろ。似たようなのが出る」
ペロは、何でもないことのように言った。
もうすぐペロは、異界へ戻る。
マナ異常のせいで、人間が魔物になってしまう場所。
そこに戻ったら、ペロはどうなってしまうのだろう?
考えただけで、セナの胸は締め付けられるような痛みを覚えた。
顔を見たこともない4億8700万人の人命より、ペロの命が失われる方が悲しい。
もしかしたら、そう思わせること自体がペロの作戦なのかもしれない。
けれど、異界へ連れて行きたいだけなら、妙なアプリを作ったり、おかしな効果音を集めてセナを笑わせたりするより、もっと簡単な方法はいくらでもあったはずだ。
それに、ペロはこうも言っていた。
『帰還は、同日同時刻に同じ場所!』。
それが本当ならば、セナにどんな不利益があるのだろう。
家までもうあと僅かというところで、セナは足を止めた。
「……ペロ、いつ異界に帰るの?」
2ヶ月前にも聞いた問いを再び繰り返す。
「おう。5日後の満月に帰る予定だ! 長らく世話になったな!」
ペロは、いつも通り明るく言った。
もう数日しか残されていない。
セナは、口を結ぶ。
緊張と不安で口の中がカラカラに乾いた。
聞いたら後悔するかもしれない。
けれど、言わなければもっと後悔が大きいような気がした。
「二泊三日の異界温泉旅行って、まだ空きあるの?」




