03-7:薄くも正しい祈り
周囲からは、忙しない足音と怒号。
それに、呻き声、肉を裂くような音、炎が上がる音、馬の嘶きが次々と響いている。
セナは、ユーインに木を背にして立つように言われた。
その通りに木に凭れかかる。
ユーインは、セナを守るように背を向けて立ってくれているのに、心臓は壊れるほどに脈打ち、手足の震えが止まらなかった。
ユーインの背中の向こうでは、筋肉饅コンビの片割れサイモンが、巨大な黒イノシシと対峙していた。
騎士の中でも大きい彼ですら、魔物の前では小さく見える。
「ぅおらぁッ」
向かい来る黒いイノシシに向かって、サイモンが迷いなく斧を振り下ろす。
それは、イノシシの首にめり込んで、黒い液体が吹き出て宙に舞った。
「グギャアアーーッ!」
つんざくような高い悲鳴とともに、その巨体が勢いよく首を振った。
「うお!」
サイモンは、器用に前方のイノシシの攻撃を避けた。
すると、イノシシがそのままユーインに狙いを定めたのか、こちらに赤い目を向けて突進してくる。
「ひっ」
セナは悲鳴が上がりそうになり、唇をぎゅっと結んで耐えた。
口の中で、ガチガチと歯が鳴る音までし始めた。
まだ冷静な自分が何処かにいて、悲鳴を上げるな!と叱責する。
逃げろ!と頭の中で叫んでいるのに、セナの足はまったく言う事を聞かない。
ズルズルと崩れ落ちて、座り込んでしまう。
ユーインが前に飛び出た。
イノシシとぶつかる!
セナが息を飲んだ瞬間、ユーインは身体を僅かにずらし、既に斧で傷ついたイノシシの首に剣を突き立てて抜く。
再び黒い血が大地に散らばり、巨体は勢いのままに直進していった。
背後で、ズシャと大地に倒れた音がした。
セナは安堵したかったのに、息がし辛い。
浅い呼吸音ばかりが、いやに大きく耳に響く。
周囲の音が遠くなり、視界が霞んでいく。
苦しい。
右手で拳を作り、胸をドンドンと叩く。
魔物にのしかかられている訳ではない。叩いた痛みを感じるから死んでもいない。
だから、落ち着かないといけない。それなのに。
(……息ができない!)
セナは、右手で口に蓋をして少し息を止める。
「ルフォス様!」
ユーインが血相を変え、慌てて走り来た。
セナは構うなと言いたくて首を横に振った。
「…へい、き。……平気、だから」
頭は動くのに、心と身体がついていかない。
いっそのこと気絶した方が楽なのに、そこまで都合良くもいかない。
段々と周囲の音が減っていく中で、セナは目を伏せて数秒息を止め、長く息を吐き出すことだけに集中する。
繰り返している間に、普通に呼吸ができるようになってきた。
そして、聞き覚えのある呑気な鼻歌が耳に届く。
「うおおぉ!? なんだコリャ!」
魔物の包囲がなくなった西側から、ボーイソプラノの驚きの声が響く。
青い風呂敷を持って浮かぶペロを見つけた瞬間、口から叫び声が出た。
「ペロ!! どこ行っ…ごほっ、」
呼吸はまだ本調子ではないらしい。
立ち上がりながらセナはゲホゲホと咳込んだ。
ペロは、スイーッとセナの前まで飛んで来る。
「お前が朝から、物憂げな感じで溜息ついてるから、林檎を取りに行ってやったんだよ!
なに勝手に魔物とドンパチしてんだ!」
無茶苦茶な逆ギレとともに、ほれ!と風呂敷を渡された。
思わず受け取ったが、まだ手の震えが止まらなくて、落としてしまう。
コロコロと風呂敷から出て転がる紫色の林檎を目で追いかけた先には、巨大イノシシが何体も大地に倒れ込んでいた。
視線の先には、ちょうどシェイがイノシシの頭上で脳天に剣を突き立てている。
「ふぅー!一丁上がり!」
額の汗を拭いながら、まるで軽くジョギングを済ませたようにシェイが言った。
「ハハハ!雑魚だったなぁ!」
先程斧を振るっていた、筋肉饅コンビの肉まんことサイモンが笑い、
「お前は殺してないだろ」
ユーインが紫の長髪を払って溜息をつく。
セナは周囲を見回し、気が抜けてペッタリと座り込んだ。
「ルフォス様、お加減が?」
エイベルが、汗一つかかずにセナの方へ歩きながら言う。
雑魚なら雑魚と一言言っといてほしい。
一人でビビり散らかして馬鹿みたいだ。
「…………寿命が縮まりました」
「……………」
セナの恐怖の訴えに対し、
エイベルは、視線を下げて左右に動かした後、律儀に生真面目な返事をした。
「………万命草を探します」
「それ、ただのビタミンCたっぷりのハーブだぞ?」
ペロが突っ込んだ。
少し落ち着くと、セナはようやく周りが見えて来た。
2メートル近い黒イノシシが、大地を埋め尽くすように横たわっている。
腐った生魚のような臭いが立ち込めていて、思わず鼻を抑えなければならないほどだ。
騎士たちは早々にテントを片付け、出発準備を始めている。
カリーナが、何かを探すようにウロウロしていた。
セナも手伝おうと足を前に出すと、レンツがやって来て報告する。
「エイベル、怪我人はいませんが、馬が二頭やられました」
セナは思わず顔を上げる。
いつもセナを乗せてくれていた賢い鹿毛馬が頭に浮かんだ。
嫌な予感に、またドクドクと心音が乱れる。
「魔消痕に目ぼしいものはありませんでした。
13体もいたのに、銅貨が2枚だけです」
更に背後からカリーナが歩いて来る。
「お嬢様、どうぞ」
カリーナの手の中には、彼女が言った通り、ほとんど溶けかけた銅貨が2枚だけあった。
あまり持つのも気が進まなかったが、嫌だとも言えずに、セナは受け取る。
無言で先日の魔消痕の銀貨と同じ袋に入れた。
出発の準備が整う頃、
黒いイノシシの身体が萎んだように、少し小さくなっているような気がした。
それに、血だろうか?
黒く濁った水溜まりのようなものができている。
カリーナの魔法攻撃は跡形も残らなかったのに、
魔法攻撃以外では、消え方がゆっくりなのかもしれない。
「ああ、クソ。俺の馬が…!」
少し向こうで、灰色の髪を乱したサイモンの悪態が聞こえた。
「ペロ、林檎4つもらっていい?」
セナは、ペロが採って来た紫色の林檎が入った風呂敷を見ながら聞いた。
「ん? お前のためのもんだぞ。好きにしろよ」
「ありがと」
セナは紫色の林檎を4つ抱える。
周囲を見回すが花はなく、そのままサイモンのもとへ向かった。
もう一頭が誰の馬かは分からない。
人が無事である事には安心したけれど、セナはどの馬が死んでしまったのか、確かめるのも怖かった。
「ルフォス様!」
レンツに呼ばれる。
セナは一拍遅れて、自分の名前を呼ばれたことに気づいて足を止めた。
今まで思いもしなかったのに、
セナは自分がルフォスではなく、七瀬なのだと叫び出したくなった。
「あまり近づかない方が良いかと。馬は損傷が酷く…」
レンツは首を左右に振る。
その目に嘲りはなく、ただ真っ直ぐとセナを見つめている。
「………供えたくて…」
セナは、自分の左目から涙が流れ落ちたことに気づいた。
慌てて林檎を左手で抱え直し、右手の甲で拭う。
なぜ、涙が出たのかはセナ自身にもわからない。
それほど、悲しいわけでは無かった。それに、恐怖はもう過ぎ去っている。
「お嬢様、ベッツを偲んでくれるのか」
気落ちした表情のサイモンがセナを見下ろした。
サイモンの馬を偲ぶ気持ちが、セナにあるのかは分からなかった。
ただ、そうすべきだと身体が動いただけだ。
そうすることが正解だから。
けれど、一方でこの奇妙な紫色の林檎。
たかだか4つではあるけど、残しておいた方が後々困らないのではないかと頭で計算している自分もいる。
名も知らない銀貨の持ち主と、二頭の馬。せめて一緒に弔おうと思った。
溶けた銀貨と銅貨を1枚ずつ出し、林檎とともに地に置いて目を伏せる。
この硬貨の持ち主が、セナは誰かも知らないし、
それほど思い入れのない動物でも、命を失ったものの安らぎくらいは祈るものだ。
けれど自らの行為が、とても薄っぺらくて異質のように感じた。
ブルルと後ろから何かに軽く背を押された。
振り返ると、鹿毛馬が慰めるようにセナを伺い見る。
セナはただ息を飲んだ。
いつも背に乗せてくれる賢い馬を失わなかった安堵と、
広がる喜びを出さないように目を伏せる。
なぜだろう。
どうして、セナが此処にいるのだろう。
問いの答えは、もう既に出ている。
身体とマナの型が、この異界と一致した。
そして、セナ自身が来ることに同意した。これに尽きる。
なのに、この疑問がいつもいつも浮かぶ。
実は、その問いの本質こそ答えだと、狡いセナは知っている。
逃げだしたい。何かをきっかけにして、逃げだす正当な言い訳を探している。




