02-16:跳び箱を跳ぶ前に
異界4日目の朝がやって来た。
新しい環境というのは、いつだってドキドキの不安とワクワクする期待が何重にも折り重なる。
けれど、思った以上に事は複雑で、
セナは右も左も分からないままに、人事も決定してしまった。
いよいよ本格的に、『マナ異常の正常化』という大仕事が始まる。
小学生の時、初めて跳び箱を前にしたような不安が渦巻いた。
案外、あの時のようにやってみたら簡単に飛び越えてしまえるかもしれない。
セナは自らの意思で、跳ぶと決めて列に並んだ。
今は順番が来て、笛が吹かれたらやるしかなかった。
ペロの「スピー、スピー」という穏やかで間抜けな寝息が聞こえ始めた。
セナは脱力して、仕方なく起き上がる。
ベッドカーテンを開けて、用意された赤いワンピース風ドレスを着る。
異界へ来た日に着用したカッターシャツに触れたところで、ピロンとスマホの通知音が鳴った。
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今週の目標設定!
・クッキーを食べて、ご機嫌になる
・気づかれない親切をする
・エベレストか富士山に登る
・その他(入力)
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(…相変わらず目標の高低差がすごい)
ペロは、スマートホルダーに入れた『レベル・アップ・デイズ』アプリを、まだ異界用にアップデートしていないようだった。
唐突に「今週、エベレストに行くか」とはならないはずなのに、このペロらしい無茶振り目標設定は、たまにやって来る。
(……『マナ感知の練習をする』にしようかな)
乳白色の筋が入った画面をタップして手入力していく。
右も左も分からない以上、まずは知ること、できることを増やすこと。それしか、つきまとう不安を減らす方法をセナは知らない。
けれどこれは地球だろうと、この異界だろうときっと同じことだ。
支度をしていると、この2日と変わらず、女官が顔を洗う水を持って来てくれた。
顔を洗う水音で、ペロが起きたらしい。「ふあーあ」と欠伸が聞こえてくる。
年嵩の女官がこちらへ向き直った。
「勇者様、国王陛下が朝食の席を用意してお待ちです」
「あ、ハイ」
セナが頷き、そのまま女官に着いて行くと、ペロもノロノロと宙に浮いたままついて来る。
まるで、首根っこを掴まれた獲物のようにダランと両手両足を垂れ下げて、ゾンビのようだ。
城の扉を守る衛兵が、ギョッとしてペロを見た。
ペロは全く気にした様子はなく、セナの方が恥ずかしい。
「ちょっと、どうしたの?」
「うーん、寝違えた…」
ペロは、首の辺りをさする。
「冷やすものもらう?」
「いらん。そのうち治るだろ」
ペロはその体勢のまま広い食堂に入ると、そこに座るのは、王と宰相ラッセル、軍務長官アクロイドのみであった。
フィアたちもいない。
何があるのだろうか。セナは身構えた。
ただ、フィアから、『奥方から邸を追い出されてしまう』預言を受けた軍務長官が、かなりやつれて哀愁が漂っている。
ただの一日で老けてしまったようにさえセナには見えた。
宰相ラッセルと軍務長官アクロイドが立ち上がり、セナに軽く頭を下げる。
「おはよう、勇者殿」
王が笑った。
「おはようございます」
警戒しつつも王へ微笑み、宰相ラッセルと軍務長官アクロイドにも軽く会釈する。
絶妙なタイミングで、使用人が椅子を引き、セナは用意された椅子に座った。
ペロもペタンと長テーブルに腰を下ろす。
「それにしても、精霊ペロ。いかがしたのだ?」
王が友達に聞くように気さくに聞いた。
「寝違えたんだ。……首が痛い!」
「…そ、そうか。侍医をやろうか」
「いい。枕の材料の方がほしい」
王とペロが、仲良くやり取りをしだす。
ペロは、ちゃっかり枕製作に必要な道具をもらう約束をつけていた。
人間は、可愛いモフモフに何かを差し出さずにはいられないのか。或いは、この王が優しすぎるのかもしれない。
「陛下、精霊ペロとの話は後にされた方がよろしいのでは」
宰相ラッセルが、硬くて淡々とした口調で待ったをかける。
「ああ、そうだな。勇者殿、まずは朝食にしよう」
王は、素直に宰相ラッセルへと頷いた。
ペロは俯き加減のまま、白い大きなパンに手を伸ばして豪快にかじりついた。
食事が開始されてから少し経つ。
ルミア王は緊張したような面持ちで、珍しく咳払いをした。
「勇者殿。旅の準備が整いつつあるわけだが…。
そなたは、どうだろうか? 出発の心積もりなど」
とてつもなくオブラートに、「いつ出発できる?」と問われてしまった。
セナは食事の手を止める。
「はい、いつでも出発できます」
王が明らかに安堵したように息をついた。
「そ、そうか。……では、四日後を出立としよう。商隊に必要なものも手配をしているゆえ、一度確認して不足があれば、そこの宮廷長官モーリスに伝えてくれ。モーリス、勇者殿へ」
初日に謁見の間へと案内してくれた老紳士が、銀の盆を持ってセナの隣へやって来た。
彼は、束になった羊皮紙と、金の指輪、木製の半円の何か(一般的な分度器と同じくらいの大きさ)をセナに差し出す。
受け取って、さっそく一枚目の羊皮紙を斜め読みした。
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大陸横断特例認可証
大陸交易同盟の名において、
ミラガイア商隊(代表:セナ・ルフォス)に対し、大陸横断の特例認可を与える。
本認可は臨時準加盟とし、
下記条項を遵守すること。
供託金条項
供託金 80ゴルドを預かる。
契約違反、商道妨害、信用毀損、
その他同盟に損害を与えし場合、没収とする。
発行日:キロン暦754年1月13日
有効期限:キロン暦756年1月12日
大陸交易同盟
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相変わらず、奇妙な字で書かれている。
でも読もうと視線を動かせば、まるで普通の日本語のように言葉が変わっている。
奇妙な感覚にまったく慣れないが、セナは字ではないところに引っかかって、首を傾げた。
ルミア側には名乗った覚えがないし、苗字が変更されている。
「おお!やっぱいい名だな、ミラガイア商隊!こいつが通行証だな」
セナの疑念はおかまいなしなペロが羊皮紙を覗き込む。
おまけに、半円の木製通行証(分度器くらいの大きさだ!)を持ち上げて、ご満悦そうに声を上げた。
「ミラガイアとは、首の長い竜とやらだったな、精霊ペロよ」
朗らかに王が笑い、ペロが「そうだ!」と胸を張った。
商隊の名が、まさかの恐竜名だった。
そういえば昨日、人員数について話し合っている横で、ペロと王が恐竜について話をしていた。その時、既に商隊名が決定されていたらしい。
そこでペロが、セナの名前も告げたに違いない。
「名の『ルフォス』は失礼ながら、ルフォス男爵家の了承を得て、家系にあなたの名を加えております」
今度は、宰相ラッセルが硬質な声で説明する。
その声は、真面目に聞かねばならないと思わせるような重みがあった。
セナは宰相ラッセルに目を向けて頷くと、彼は続けた。
「ルフォス男爵家は、半年前からマナ異常による土地の枯渇が進み、領地を手放す危機にある。
唯一の嫡子である貴女は、男爵夫人の生家『海の馬商会』を頼り、商隊を立ち上げた、という筋書きです」
つまり没落貴族の嫡子としての戸籍を用意し、商隊を興した。
セナは、とりあえず状況を飲み込んだ。
自分の苗字が変わる。
少しの違和感が心に広がることに今は目を背けることにした。
こういった没落貴族が商うといった背景は、確か地球上の歴史でも実際にあったはずだ。
この設定なら、異界でも特に怪しまれないということなのかもしれない。
「ルミア王国や、友好国でのあなたの身分は騎士らが証明いたしますが、
万一に備えて指輪をお渡しします」
「お、高く売れそうだな!」
ペロが茶々を入れると、宰相ラッセルがペロを軽く睨んだ。
「ルミア王国が、身を保証するという印証です」
「ふーん。見る奴が見ないと分からんやつだろ。なら、いらないな」
ペロの無礼すぎる率直な意見に、
宰相ラッセルは特に表情を変えなかったが、視線をセナに向けた。
その目は「お前が決めろ」と言っているようだ。
(……ええー。男爵嫡子以上に、王国が直接身元を保証する印。いる?)
持つことで得もあるかもしれないが、
何か余計な物を持って面倒な目に遭いたくはなかった。
商隊として身分を隠して入る以上、そこでルミア王国の印証を持っていると知られたら、逆にルミア王国の関係者だと状況が不利になる可能性もあるかもしれない。
「国王陛下、宰相様、大切な印証をお預かりするわけにはいきません。……ですが、そのお気遣い、とても嬉しく感謝の念に堪えません」
セナは申し訳なさそうな表情をしつつ、なるべく耳障りの良い言葉を選ぶ。
テーブル上には、金の指輪だけを残した。




