第四話
「ほんとにおひとりで、大丈夫ですかあ? 私たちも同行しますよ? 坊ちゃんにもルーシュミネ様から目を離さないようにって、言われてますし!」
「大丈夫大丈夫。マチウも一緒だし、他のモデルさんたちも一杯いるから! 僕だけ使用人付きなんてことになったら、嫌な目立ち方しちゃうしね!」
荷造りを手伝ってくれたルージュに僕は笑いかける。今日はいよいよショーの会場に旅立つ日だ。テイラー氏の、ノルマンディーの別荘に。ショーの本番は明日。それで、晩にはその流れでパーティーが開かれる、とか。テイラー氏の別荘は昔の貴族の居城だったとかで、広大で部屋がたくさんあって、ゴージャスなホテルみたい、らしい。これらは昨日オービットさんの事務所で打ち合わせがあった時にリアから聞いた話だ。
モデルもお針子もみんなテイラー氏の館に滞在して、お客様を迎えるんだとか。こういうショーの経験がないのでこれが普通なのかはわからないけど、パトロンってのはずいぶん太っ腹なんだなア、と思う。ショーの場所の提供に、宿泊所の提供、パーティー会場も同じ場所でってことだし。
それだけオービットさんの才能に惚れ込んでるってことなんだろうな、うん。
…私は芸術を愛している、って低い声がどこかで聞こえる。薄暗いホテルの部屋だ。15歳の、僕の肩を抱き寄せた、ねばついた掌を思い出す。
僕はぶんぶんと頭を振って思い出を蹴散らす。もう10年以上も前のことだ。きっと彼だって忘れてるに違いない。今は彼は、オービットさんのパトロンなわけだし。
そう、ただの偶然だ。
身体を要求されて、僕が拒絶した資本家、僕の凋落のきっかけを作ったウイリアム・テイラー氏と、今回仕事で関わることになったのは。
リヨンに到着してすぐ、父の元を訪れる。数百年の歴史のある古びたレヴォネ家の屋敷で、父は鷹揚に私を迎えた。
「ヤア、来たね。君がこの集まりに顔を出すのは、そうだね、5年ぶりくらいじゃないか?」
「…先日はお世話になりました。お陰様で身辺もようやく落ち着いて参りました」
他人行儀に口上を述べる私に構わず、父は口元だけで微笑んで座るよう促す。赤を基調とした応接間の肘掛椅子には母の趣味の朱子織のクッションが置かれている。鮮やかな花模様がある種毒々しく目を射る。
「君の恋人の、可愛らしい妖精さんは元気にしているかね? 今回のことでは、大変な目に遭っていたようだが」
「…元気にしています。監禁中のことはあまり話してくれませんが…今は新しい仕事に邁進しています」
「そうかい。それは何よりだ」
父は何度も頷いて、肘掛に肘を載せ、組み合わせた指先で口元を隠す。大事なことを話すときの父の癖だ。私は改めて背筋を正して父に向き合う。やがて父が薄い唇を開く。…
「君の恋人のことは、彼らには伏せておいた方がいいだろうね。うすうす勘づいている者もいるだろうが…何も、自ら彼らに餌を与えることもない」
「私は恥じるべきことなど何もしていません。隠す必要性も感じない。スキャンダルの件は殆どが偽りです。女優と不倫関係にあったというのも――」
「それはわかっているよ。君がそんなに器用な人間ではないのはよく理解しているからね。…ただね、否定するのはいいが、男の恋人がいるということを、わざわざ明らかにする必要はあるのかな? それは君の恋人をも、憶測と疑惑の厄介な渦の中に巻き込むことにならないかね」
「……」
「彼らとの円満な関係を築いておくのは君の将来にとっても良いことだ。今回のようなことがいつまた起こるかわからない。確たる人脈を保持しておくのは君の為になる。彼らとて、家名を守るためならばいくらでも君の力になってくれるだろう。人は一人では生きていけないものだからね。…彼らには、彼らの望むようなストーリーを披露すれば良い。真実の恋人のことは伏せて、…そうだね、赤毛のメイドとの一時の火遊びだったとでも主張すると良い。清廉潔白である必要も、公明正大である必要もない。わかるね? 君はレヴォネ家の一員らしく、正々堂々と、彼らを偽るのだ」
父はそう言って、口元だけで笑って、ちっとも笑っていない目で、私を睨み据えた。
狡猾な、獣のような瞳で。
「お兄様!」
応接を出て母へ挨拶するため私室へ向かおうとする私に、妹のナタリーが声をかける。
ぱたぱたと子犬のように駆けてきて私の前でぴたりと止まり、何かを期待するような上目遣いで見上げる。
「お兄様、お久しぶりです! あのね、ミレーユお姉様と街に出ようって話していたの。お兄様もご一緒しません?」
妹と話すのはルーの一件で電話で叱責して以来だが、まったく堪えていないようでため息が出る。他人の痛みに鈍感な妹ではないと思っていたのだが、買い被りだったようだ。
「…私はいい。これから母に挨拶して、宿に戻る」
「ええ? うちに泊まらないの? どうして? これから叔父様や伯母様たちも来るのよ。お兄様のお部屋も準備していたのに…」
「私は親族とは距離を置きたいんだ」
「でも…」
「ナタリー、お兄様のご意思です。尊重して差し上げないと…」
膨れるナタリーを宥めるように顰めた声が掛かる。従姉のミレーユである。縁なしの眼鏡の奥からつぶらな瞳がこちらを窺い、すぐに伏せられる。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
「ええ、はい、あの…貴方も」
「お陰様で」
私より1つ年上のミレーユは幼い頃から妹の世話をよく焼いてくれ、妹にとっては姉のような存在だ。
通り一遍の挨拶を交わし、ナタリーにミレーユを困らせないよう忠告を与え、ミレーユに謝意を示してから私は母の元へ向かった。




