第二十六話
青褪めた顔のルーを寝室までつれていく。幾度も指輪に手を伸ばし外そうとするルーを、その都度引き止め、首を横に振る。
未だ不安定なルーが、いつまた自分の殻に閉じこもってしまうかわからない。不安を抱えながら寝台に掛けさせると、ルーは縋るような緑の瞳を私に向けた。
「…よかったの? 妹さん…お世話になったんでしょう?」
「感謝はしている。礼は尽くしたつもりだ」
「そうは見えなかったけど…」
「私は、家族よりもお前が大事なんだ。お前を傷つける者を、ここに置いてはおけない」
「……」
ルーは唇を噛んで俯く。隣に掛けて、その頭をそっと肩に凭せ掛けてやる。指通りの良いしなやかなブロンドが、掌に触れてするりと滑り落ちる。
「…別れ話を、妹にもしていたのか。電話で?」
「ううん。会いに行ったんだ…病院に。聞いていない?」
「…初耳だ。来てくれていたのか」
「うん。病院の傍のパティスリーでアップルパイを詰めてもらって…キャラメルが絡んだやつだよ。あれぼくの差し入れだったんだぜ。美味しかった?」
「……。今度は、お前と食べたいな」
「うん、行こうね。約束…」
私の肩に鼻先を擦りつけながらルーが言う。
入院中はナタリーかバロットが入れ替わりで常に傍にいた。バロットがルーの差し入れを紛失するのは考えられないので、きっとナタリーが仕組んだことなのだろう。
…もう少しきつく灸を据えてやるべきだったな。看病のことを差し引いても、あまりに悪質だ。受け入れられるとは初めから思っていないが、ルーへの悪意ある振る舞いが目に余る。今後はこの屋敷の敷居を跨がせることもやめておこう。彼女が反省するまでは…。
「…ね、セデュ、…」
「ん?」
「…しないの? つづき…」
「……」
穏やかな時間が物足りないとでもいうようにルーが乞い、久々の接触に高鳴っていた心臓が再び強く脈打つ。
「…からだは、平気か」
「きみがだいじょうぶなら。…ほかのひとに、使われちゃった穴でもよければ…」
自嘲するように言うルーが痛々しく、私は彼を強く抱き寄せる。
「何もなかったんだ。大丈夫だ。もう思い出さなくていい。忘れていいんだ」
「…されたかどうか、わからないぼくじゃないよ。初めてじゃないんだし…体液は、残ってなかったから、ゴムはしてくれてたみたいだけど…珍しいよね、あんなことしといて、そこだけ殊勝なんてさ。おかしいね…」
「話さなくていい。自分から傷を抉るような真似はよせ」
「でも…きみにも伝えなきゃ。フェアじゃない、だろ? 起きたら、顔面に精液がひっついててさ。顔に射精されたんだ。髪なんかもう、べとべとで…」
「ルー、…」
「…セデュ、ぼく、臭くないかな? 匂わない? 精液のにおいがしてさ、そばにディルドが落ちてて、血も…あれ、でも、股からは出血してなかったな、殴られた時、出た鼻血だったのかな」
「…殴られたのか」
「うん。プレイ中にコーフンして殴る人って案外いるよ。女の子でも」
淡々と話すルーに、胸が塞ぐ。同時に、ルーをそんな目に遭わせた男への憤りが湧きたって、炙られるようだ。
「…挿れられたの、ディルドだけ、だったのかな。だったらいいな…そうだったらまだ…」
「ルー、もういいんだ。お前は汚れてなんかいないよ。お前の魂は、清らかなままだ。お前はなにも悪くない。もう自分を、許してあげてくれ」
「……」
ルーの肩先に額を擦りつけて伝えると、華奢な身体がびくりと震える。
虚ろになったその心を、愛で一杯に満たしてやりたい。叶うなら…。
「花のような香りがするよ。おまえはいつも…清廉で、甘やかで、心を熔かすような…」
「……」
「健気で、可憐な花だ。ピンと背筋を伸ばして、太陽を仰ぎ見る…愛おしい、私の白い花…」
「なつかしいな、きみの口説き文句…やっぱりほんものはちがうね。妄想より、もっと…」
「もっと?」
「…刺激的で、情熱的」
顔を上げると一瞬だけ目が合って、ルーは泣き笑いのような顔で瞼を下ろす。口づけを乞うときのルーの仕草だ。誘われるように私はキスをして、その柔らかな唇を味わう。
「おいしくない、でしょう? …っは、おんなのこ、みたいに、やわらかくない、し…」
口づけの合間にまた自分を卑下する、悲しいくらいに愛らしい恋人の言葉を、私は否定する。
「柔らかくておいしいよ、その唇も、頬も、髪も、…うしろも」
「ナカのこと言ってる?」
「ちがう。ここのこと」
回した手で腰の下あたりに触れるとルーは高い声で歓声をあげ、くすくす笑い出す。
よかった。ルーはやっと笑えるようになった。虚ろな、仮面のような笑顔ではなく、溢れ出す喜びのような、軽やかな妖精のような笑顔だ。
「脱がせて、ね、セデュ」
「シャワーに行こう。このまま」
「濡れながら脱ぐの? それも楽しそう…」
ルーの軽い身体を抱え上げ浴室に運ぶ間、私にしがみついたルーはくんくん鼻を鳴らして、子犬のように懐いていた。
荷物を纏め、最後にお兄様に挨拶しようと、私は部屋を探す。お兄様の私室はきちんと片付いて、ホテルの部屋のように清潔だ。几帳面なお兄様は、頭が若干狂ってしまっていたとしても、ものを出しっぱなしにしたり、ゴミを放置したりはしないのだ。それがわかって、少しだけ、安心する。まだお兄様は、引き返せるはず。あの悪魔みたいな男娼の手から、捥ぎ離せるはずだ。
そうでなきゃおかしい。だって私は、こんなにもお兄様を愛しているんだから。
お兄様の部屋の近くの部屋には中央に大きなベッドが据えられている。ベッドの主張が激しすぎて、他の家具類――テーブルとか、椅子とか、チェストとか――が隅に追いやられている感じだ。広い部屋なので実際はそんなことはないのだけれど、なんというか…そういう印象なのだ。
ここでお兄様は、あいつと…なんて考えだすと、怒りで頬が熱くなってくる。はあ、性行為ってそんなにいいものなのかしら。真面目なお兄様を狂わせるほど? お兄様はフェリシアお姉様と結婚して、お幸せそうに見えていたのに…。お兄様は本来、異性愛者であるはずなのに…。
その隣の部屋は空き部屋で、廊下をずっと行くとグランドピアノが2台据えられた防音の部屋がある。あと、何かわからない機材がたくさんあって、コードが床を這っている。
ピアノの傍にあるテーブルには楽譜がたくさん散らばっている。一枚の楽譜にはインクを零して慌てて拭き取ったような跡もある。あまりにお兄様らしくない。ここはきっと、あの男娼のテリトリーなのね。粗忽者そうだものね、あいつ。
次の部屋に向かった私は敷居の上でぴたりと足を止める。けらけらと途切れがちな籠った笑い声が近くでしている。ベッドとテーブルと椅子、肘掛け椅子、チェストにランプが置かれた標準的な部屋にはお兄様の私室のように浴室が付属していて、閉められた扉の向こうからサアサアと霧雨のような水音がしている。
おそらくはお兄様の低い声が何か言って――扉越しなので意味は聞き取れない――また女のように甲高い嬌声が上がる。ちゃぷちゃぷと水を跳ね飛ばす音、ぺちぺちと肌がぶつかりあうような音もしている。
私はかっと目の前が真っ赤になって、ふらふらと廊下に戻る。
し、信じられない。信じられない、信じられない!
私はまだこのお屋敷にいるのに、お兄様にお別れの挨拶もしていないのに! お兄様はもう私を忘れて、あの男娼と、一緒に、お、お、お風呂に入っているって言うの!? しかも中で何をしているの!? あの音はなんなの!?
よっぽど浴室に怒鳴り込んでやろうかと思ったけれど、そこで目にするもののことを考えたら足元がガラガラ崩れそうで、私は恥ずかしさに真っ赤になって駆け去るしかなかった。
覚えていなさい、あの、ひ弱そうな皮を被った狐。男女。悪魔。私がいつの日か、あいつの皮を剝いでやる。醜い本性を曝け出させて、お兄様の目を覚まさせてやるんだから!




