第二十五話
しばらくそのまま抱きしめあって、互いの心音と吐息の音を聞いて、…やがてルーが、私の名を呼んだ。
「…ごめんね、セデュ、…」
「どうして謝る?」
「…ぼく、きみから離れられないみたい…」
「……」
「きみのこと、また、苦しめるね…」
「…お前とともにいられる喜びに比べたら、苦しみなんてなんでもないさ」
「指輪も…外さなきゃ」
透明なまなざしを指先に注ぎ、そこに嵌められた指輪を外そうとするルーを引き留める。
「そのままでいい。私ももう外さない。私たちの愛の証だ」
「きみは…だめだろ、お仕事の時とか…」
「辞めてもいいんだ、私にとっては、おまえの方が大事だから」
寝台の上で見下ろしたルーはくしゃりと顔を歪めて、泣き腫らした目を潤ませて、私の手を取り掌に口づける。
「…だめ、だよ。だってきみ…ぼくの夢、まだ、叶えてくれてない…おぼえてる?」
「…ああ」
ハリウッドで交わした約束のことだろう。いつの日か、ルーの作った曲を、私が劇場で歌うという。きらきらした目で私に夢を語った、いつかのルーを思い出す。あの日から、ずいぶん遠くに来てしまったように思う。
「…かなえてね、きっと…」
「…うん」
震えながら微笑む唇に再び口づけて、その体温を感じながら甘い香りを胸に吸い込む。
躊躇いながら、震えながら、私のもとに戻ってきてくれたルーは、もう私を拒まなかった。
ガラガラと門扉の開く音がして、私は顔を上げる。
お兄様が帰って来たのだ、やっと。あの後、私がお屋敷に着いて、十数分遅れてバロットが到着して、それでも帰ってこなかったお兄様が――時計を見ると、もう1時間は経過している。どこで何をしていたのだろう。お兄様はまだお身体が十全ではないというのに。
心配になって私は応接間のソファから立ち上がり、玄関ホールに向かう。今しも扉が開いて、お兄様が邸内に入ってきたところだった。
「お兄様、お帰りなさい! 病院に行ったのよ、ひどいじゃない、何も言わずに退院するなんて…」
私はぴたりと足を止める。玄関ホールでスーツケースと、脱いだコートをメイド長のヨランダに渡しているお兄様の隣には、あの、憎たらしい男娼が立っていた。
「お、兄様、そいつは…」
はっと顔色を変えたそいつが、お兄様の胸元に顔を伏せる。ぎゅうとお兄様のジャケットを握りしめて、その手が微かに震えているのが見える。
左手薬指に、お兄様と揃いの指輪なんか嵌めて。見せつけているつもりなのだろうか。図々しいにも程がある。
「ナタリー、改めて紹介しよう。彼はルーシュミネ・リーヴェ、音楽家だ。私の伴侶だよ」
「……はん、」
胸元に顔を伏せたままこちらを見ない男娼を腕に抱えたままのお兄様が言う。
私は口をぱかりと開けてまじまじと二人を見つめ、――むらむらと、燃え上がるような苛立ちが湧き上がるのを感じる。
「…お兄様、正気なの? 男の伴侶だなんて、異常だわ。レヴォネ家にそいつを入れるつもりなの? お父様には話したの?」
「ああ。父も認めてくれている」
「そんな、…そんなの、嘘よ。絶対に嘘…」
お兄様がそいつの耳元に唇を寄せて何事か囁き、その男娼はおそるおそるといったふうに私に振り向いた。
「あ、…あの、よろしくね、ナタリーさん…」
恐々差し出される掌を、青白い肌をしたそれを、私はしかし撥ねつけた。
パン、と乾いた音が玄関ホールに響き渡る。
「…あ、」
バカみたいに呆けた顔でこちらを見つめるその男娼を睨みつけ、私は大声で吐き捨てた。
「お兄様とは別れたって、あんた言ったわよね!? 嘘つき。どこまで私をバカにすれば気が済むって言うの!?」
「……」
面前の男娼の顔が歪む。引き攣った笑顔を貼り付けようとしているみたいだが、完全に失敗している。おそらくは舌先三寸で優しいお兄様を騙したように、私が言いなりにならないのが不本意なのだろう。本当に腹が立つ。
お兄様はこの男に騙されているのだ。誑かされてしまったのだ。童話に出てくる狡賢い狐みたいに、この男は、お兄様に取り入って、誘惑して、それで、いやらしい手管で、お兄様を堕落させて、…
「男娼風情が、お兄様に近づかないで、汚らわしい! お兄様はレヴォネ家の後継者なのよ。男の伴侶なんて、持てるわけがないでしょう!? 図々しいったらないわ。あんたみたいな淫売が――」
「ナタリー!」
お兄様の怒声に私はびくりと固まる。ぐいと男娼を後ろに隠したお兄様がツカツカと私の前に立ち塞がり、荒れた冷たい視線で見下ろす。
お兄様に、こんな目で見られたのは初めてだ。お兄様が、ここまで怒るのも。
凍った背筋に汗が一筋流れるのを感じる。あの優しかったお兄様が、穏やかで、大声など上げることのなかったお兄様が、…私の大好きなお兄様が、ガラガラと崩れていく。
「…お前の献身には感謝している。看病してくれたことも、付き添ってくれたことも、お前の時間を割いて、見舞に来てくれたことも…だが、ルーをそれ以上侮辱するようなら、お前をここに置いてはおけない。荷物を纏めて、リヨンに帰れ」
「な、…お兄様は、そいつを選ぶって、言うの? 家族である、私じゃなくて…」
「私はレヴォネの家を継ぐ気はない。後継の座は従弟殿に譲るつもりだ。…ルーは私の愛する人だ。お前に理解してもらえないのは残念だ」
「……」
正気ではない。お兄様の言っていることは、何から何まで、絵空事だ。そんなに簡単なものじゃない、私にだってわかる。後継の座を譲るなんて、そんな無責任なことが許される訳はないのだ。お祖父様がご存命だったら、何と言ったかしら!
お兄様は狂ってしまったのだ。この、憎たらしい、嘘つきの、淫売のせいで…。
「…今の発言、お父様に報告します。よろしくて?」
「構わない。父にでも母にでも伝えると良い。私の気持ちは変わらない」
断固たる調子で言い切るお兄様にくるりと背を向けて、私は自分に割り当てられた部屋に向かう。荷物を纏めるためだ。悔しいけれど、今の私ではお兄様を説得できない。説得する材料なんていくらでもあるのだけれど、お兄様が聞き入れるとは思えない。
恋に…いいえ、肉欲に狂って、正気を喪ったお兄様には。
「セラノ、車を準備してくれ。リヨンまでナタリーを送ってほしい」
運転手に指示するお兄様の声が、後ろでしている。
私は唇を噛み締めて階段を上がった。振り向くことは、もうしなかった。




