第二十四話
今日はお兄様が退院する日だ。セラノに車を出してもらって向かった病室では、バロットがお兄様の荷物を整理していた。
「お兄様はどこ? まさかおひとりで行かせたの?」
「ハイ。セデュイールならさっきここを出て行きました」
「私が迎えに行くって言ったのに! お兄様ったら、せっかちなんだから。じゃあ、行き違いになったってことね。お屋敷に向かったんでしょう?」
「あー…」
バロットは宙を睨みながら言葉を探しているようだ。手元のボストンバッグには私がお兄様のために持ってきたパジャマや下着なんかが詰め込まれている。
「それを持って貴方もついてきて頂戴。途中でお兄様に会えるかもしれないわ! お支払いはもう済んでるのよね? さあ行きましょ!」
私はバロットを急かして病室を駆け出す。ところがバロットときたら、わざとのようにゆっくりボストンバッグを抱えて廊下をのろのろ進むのだ。まるで私をお兄様から引き離しておきたいとでもいうみたい!
「早くしないと、お兄様に追いつけないわ! もう、私先に行くわね!」
足踏みしているのももどかしくて、私は足早にエレベーターホールに向かう。もしかしたらお兄様は病院前に止めたセラノの車に気付いて、乗り込んで待っているかもしれない。私は逸る気持ちでお兄様の後を追った。
お兄様がどこに向かったのか、なにひとつ疑いもせずに。
エレベーターが階下に降りるのも待ちきれず、螺旋階段を駆け上がる。ルーの部屋は3階にある。パリ1区の、繁華街にある簡素なホテルだ。
赤い絨毯の布かれた階段を越え廊下を進み、マチウに教わった扉の前で立ち止まる。ベルを鳴らすが応答はない。マチウから預かった合鍵を鍵穴に差し込みガチャリと回す。扉は苦も無く開く。そして、カーテンが引かれたままの薄暗い一間にルーはいた。
ぼんやりと寝台に腰かけて、膝を抱えて蹲っていた。
「ルー!」
扉が閉まるのも待たずに寝台に駆け寄る。跪いて見上げれば、ルーは焦点のあわない目でぼんやりと虚空を見つめていた。
「迎えに来た。家に帰ろう。外に車を待たせている、…」
「……」
ぱちぱちと瞬いたルーが私を見る。その金の睫毛は朝露のように濡れ、茫洋とした海の色の瞳は頼りなげに彷徨う。
「…セ、デュ? …どうして…」
「退院したんだ、待たせてすまなかった。ひとりにして、すまなかった…」
「ひとりじゃないよ。ぼくはずっとセデュといたもん。…」
「ルー、…」
投げ出された掌を捕まえて頬を寄せる。そこに口づけを落とそうとした途端、火傷したようにルーが手を振り解き、飛び退いた。
「やめて、さわらないで。ぼくのビョーキが…」
「大丈夫だ、ルー、陰性だったのだろう? マチウから聞いているよ」
「ちがう、だめだ、きみがいると…ぼくはセデュといられなくなっちゃう…」
「ルー?」
「きみが来たらだめなんだ、すぐに帰って。ぼくはセデュといるんだ、もう一生離れないんだ。だから帰って…」
「……」
どんと壁に背を押し付けて、ルーはうろうろ部屋中を見回す。何かを探しているような瞳だ。何かに、救いを求めているような。
「ルー、こちらを見てくれ。私を見て…私はここにいるよ。お前の傍にいる」
「だめ、だめ、セデュの声が聞こえない。きみがいるとぼくのセデュがどっかに行っちゃうんだ。もう離れないって約束、したのに…」
「ルー、私はここだよ。ここにいるんだ…」
「帰って、出て行って。きみは、きみはもうぼくのものじゃない。きみはみんなのものだから、ぼくとはいられないんだ。ねえ、セデュ、ぼくからは腐ったにおいがするでしょう? 精液のにおいだよ。もうずっと、離れないんだ。洗っても洗っても、落ちないんだよ」
「……」
ルーが大切な何かを、失くしたような顔で笑う。薬指に嵌めた指輪を愛おしそうに撫でながら。
「ぼく、きづいちゃったんだ。きみといると、ぼくはきみにビョーキを伝染させちゃうし、きみをどんどん汚していくんだ。そうすると、みんなが悲しむでしょう? きみをいつか、ぼくは殺してしまうかもしれない」
「他人などどうでもいい、他人の悲しみなどどうでもいい! 私はおまえといたいんだよ、ルー」
「ぼくはいるよ。離れ離れでも、ずーっと一緒だ。だから帰って、二度とここにはこないで。ぼくのセデュはね、ぼくの言うことはなんでも聞いてくれるんだ。ぼくのお願いも、わがままも、みんな聞いてくれて…甘やかしてくれて…優しくて、かっこいいんだよ…」
「ルー、戻ってきてくれ。一緒に帰ろう。ルー」
「ぼくのセデュはね、ぼくの音楽が大好きで…ぼくのピアノが好きで…それでね、それで…」
ぽたりと涙が落ちる。ルーの瞳が濡れている。淡い碧の瞳から、透明な雫が、いくつも、いくつも滴り落ちる。
「どうしよう。セデュの声が聞こえない…聞こえないんだ。愛してるって言ったのに。離れないって言ったのに…」
「離れない、離れないよ。一緒にいる…」
「だめだよ、みんなが…みんながぼくを責めてるんだ。ぼくが娼婦になっちゃったからかなあ? もう何人と寝たかもおぼえてないんだ。何回出されたかも覚えてない…」
「何もなかったんだ、あの夜は…お前は汚れてなんかいない。以前通りのおまえだよ。自分を責める必要なんてない。自分の行いを、嫌悪する必要なんてないんだ」
「でも、じゃあなんで、誰もぼくらをみとめてくれないの? どうしてぼくらをいじめるの? ただきみが好きなだけなのに、なんでいじわるするんだ。なんでぼくらを引き裂こうとするんだ。ぼくは、ぼくは、地位も、名誉も、財産もいらない。なにもいらない。ぼくがほしいのは、セデュだけなんだ。セデュだけいればいいんだ、…なのに、どうしてみんな、ぼくを信じてくれないの? …」
堪らなくなって抱きしめる。ルーの華奢な身体を、折れそうなほど細いその腰を、引き寄せて強く締め付ける。ルーは一瞬だけ呆けて、それから、猛然と暴れ出した。
「やだ、やだ、離せ! ぼくはセデュのものなんだ、ほかの、誰のものにもならないんだ!」
「嫌だ、離さない! 離せるわけがない、…」
片手で指先を探り当て、指を絡める。行為の最中のように、ぎゅっと強く握り締める。ルーの掌は乾いてひどく冷たい。まるで氷像のようだ。
「ルー、愛している、おまえだけを…おまえ以外に、誰も愛せはしない…」
「……」
「わたしを見てくれ、今ここにいる、わたしを感じてくれ。ルー…」
「……」
トクトクとルーの心音が聞こえる。声も上げずに泣き続けていたルーは今は静かに、私の腕の中にいる。
そっと覗き込むと濡れた瞳が何かを求めるように見上げてくる。私はその瞳に私の影がやっと映ったことに安堵して、屈みこんで、唇を合わせる。
触れるだけの口づけを何度か繰り返して、ほうと息を吐いたルーが、受け入れるように唇を開く。瞼は閉じて、普段青褪めて見えるほど白い頬は熱に浮かされたような朱色に染まっている。
再び唇を合わせ舌で触れるとルーの舌が応えるように絡んでくる。しばらくそうして貪り合って、力が完全に抜けたルーはぱたりと寝台に倒れた。
カーテンの隙間から射す光に照らされた金の髪が、艶やかに寝台に広がる。
ギシリと乗り上げてルーの手を取った私は、それから、左手の薬指に永遠の誓いのような口づけを落とした。




