第二十三話
その数時間後、私を迎えたムッシュ・リーヴェは見違えるような上機嫌であった。幾分拍子抜けした私がマドモワゼル・ランディの話を切り出しても、どこか上の空でにこにこと頷いている。
「…という訳なので、貴方にはなんの落ち度もなく、また、これといった被害もなかったようで。…本当によかったです」
「ふーん。そうなんだ。よかったね」
「…? あの、ムッシュ・レヴォネのことですが、こちらも順調で、予定通り2日後には退院できるそうです。退院の際には車を手配しますね…」
「てはい? なんの?」
「え、ですから、ムッシュ・レヴォネの付き添いに…」
「行かないよ? ぼくもうセデュとは別れたもん」
「は、…」
ぽかんと口を開けてまじまじと見返す。ムッシュ・リーヴェは至極当然と言った顔でにこにこしている。不自然なくらいに、上機嫌だ。
「別れた、というのは、いつ…」
「セデュが来てくれたとき、話したんだ。ぼくやっと決断できたんだよ。褒めて! セデュと一緒にいると、ぼくだけのセデュとはいられないんだもん。しかたないよね。ね、セデュもそうおもうでしょ?」
「え、あの、…」
「ええ? それはちがうよ。ぼくちゃんとやってるもん。…ほんと? うれしいなア…」
視線を落とし、指先に――指輪に?――向かってにこにこ話しかけてはくすくす笑うムッシュ・リーヴェに唖然としつつ、私は話しかける。
「…どなたと、話をされているので…?」
「え? セデュだよ。ぼくだけのセデュだよ! これでやっと、ずーっと一緒にいられるんだ。誰にも邪魔されたり、イジワル言われたりしない! 最高だなア、ね? セデュもそうおもうよね?」
「……」
「そうかなア。でもぼくやっと、自由になった気がする。きみがいてくれたからだね、ほんとうにそうおもってるよ…」
「あの、ムッシュ・リーヴェ…今から、ムッシュ・レヴォネのお見舞いに行きませんか? ご一緒に…」
「行かないってば。ぼくが行くと、ビョーキをセデュに伝染しちゃうかもしれないだろ?」
「は? いえ、その件はもう、解決したはずでは?」
「そうだっけ? まあどうでもいいや。ぼくはここにセデュといるから、セデュのお見舞いは行けない。元気でねって、伝えてきて! …そうだ、新しい曲ができたの。セデュにはもう見せたんだけど、君にも見せてあげるね。ああ、ここにピアノがあったらなア! やっぱりセデュもそうおもうよねえ? 聴かせてあげたいなア、ぼくの演奏で…」
「……」
ぞっと、冷たいものが背筋を駆け上がる。ムッシュ・リーヴェは幻覚を見ている。当たり前のような顔をして支離滅裂な言動をしている。もともと不安定なところのあった彼だ、度重なる打撃に、精神が耐えられなかったのだろうか。
…これは、医師に診せるべき、だろうか。精神病院に入院させるか? いやしかし、私の一存では…
「ムッシュ・レヴォネに、会いましょう。会わなくては…」
「いやだって言ってるだろ? わからないやつだなア。セデュもなんとか言ってやってよ! きみの元マネージャーだろう! …ええ? ぼくは悪くないよお、ちがうったら…」
私はムッシュ・リーヴェを説得することができず、その日はそのままホテルを後にした。
居ても経ってもいられず、その足でムッシュ・レヴォネの病院を目指す。
伝えなければならない。療養中のムッシュ・レヴォネには酷なことだが、あんな状態のムッシュ・リーヴェを、放置しておくわけにはいかない。
こんなとき、力不足を実感する。ムッシュ・レヴォネならどうしたろうか。バロットなら、抱えてでもムッシュ・リーヴェを病院に連れて行ったろうか。…
回復期にあるムッシュ・レヴォネの顔を曇らせることを不甲斐なく感じながら、私は彼の病室に向かった。
病室にはムッシュ・レヴォネの妹のナタリー嬢がいて、甲斐甲斐しく兄に付き添っている。僅かに癖のあるムッシュ・レヴォネの髪質と違ってさらさらと流れるストレートのボブカットの艶やかな黒髪と、長い睫毛――これは兄によく似ている――の凛とした表情の美少女だ。私がスカウトマンを兼任していたら芸能界にスカウトしたいくらいの美貌である。
「ナタリー、部屋を出ていなさい」
「嫌よ。私もご一緒するわ」
私が話しやすいようにとムッシュ・レヴォネが声を掛けるのに、強情に反抗する。気の強いところも芸能界に向いている。彼女は溌剌とした魅力あふれる女優になれる素地がある…。
「ナタリー?」
麗しい兄君にじっと見つめられ、彼女はしぶしぶ部屋を出ていく。病院の特別室にはムッシュ・レヴォネと、私と、先ほどから壁に凭れ掛かって無言で腕を組んだままのバロットが残された。私は咳払いをひとつして、マドモワゼル・ランディの告白を、彼らに伝える。…
「…以上が、あの夜にあったことのあらましです。ムッシュ・リーヴェをひとりにしてしまったのは私の落ち度でもあります。ご処分も覚悟しております…」
重厚な沈黙を破ったのはムッシュ・レヴォネだった。淡々とした、低い声で聞く。
「ウイリアム・テイラーというのは、W…製薬会社のCEOだったな」
「そいつをどうするよ、セデュイール。殺すか?」
「ヒッ」
凭れていた壁から身を起こしたバロットが地の底から響くような声で言うのに震えあがる。GOサインが出れば敵の喉笛に噛みつくために、飛び出していきそうな迫力だ。
「いや、死などは生温い。…私に考えがある。やつには社会的制裁を受けてもらおう」
「あの、穏便にお願いいたしますよ…貴方も、有名人なんですからね…」
「そいつあ無理だぜ、マチウさんよ。あんただってわかんだろ?」
「……」
不敵に笑うバロットに視線をちらりとやってから、私はまた、咳払いをする。今日はまだ、話さなければならないことがあるのだ。…ムッシュ・リーヴェのことだ。
「…ムッシュ・リーヴェにも、同様のことを伝えに行って参りました。貴方にはなんの落ち度もなく、未遂で済んだのだと…ですが、そのう、ムッシュ・リーヴェの反応は、その、他人事のようだったと申しますか…」
「そんだけショックだったってことじゃねえのか」
「は。その可能性もありますが、それだけではなく…」
気遣うようなバロットの声に応じて頷き、私は視線を彷徨わせる。ムッシュ・レヴォネは黙ったままじっと私の目を見ている。先を促すような黄金色の瞳で。
「…ムッシュ・リーヴェは、もう限界です。ホテルの部屋に閉じこもって、…指輪に話しかけているのです。幻聴が聞こえているかのように…」
遂に言ってしまった私の言葉にムッシュ・レヴォネは目を見開き、腰を浮かせる。咄嗟にバロットが寝台に駆け寄り、ムッシュ・レヴォネを押さえつける。
「まだ駄目だ、あと2日ある。また倒れたくはねえだろう、大人しくしとけ」
「……バロット、ルーを…」
「俺とマチウで交代で見張るよ。いいな? マチウさんよ」
「…は、それはもちろん…」
「退院したら、すぐに向かう。それまで、…ルーを、頼む」
寝台に俯き、シーツを握りしめて血を吐くように言うムッシュ・レヴォネに私は頷く。ホテルの部屋で朗らかに笑っていたムッシュ・リーヴェの姿が浮かぶ。狂気と正気の境で綱渡りしているような彼の笑顔が。
「おまかせください、ムッシュ・レヴォネ…」
掠れた声は虚ろに響く。私は今更ながら、ムッシュ・リーヴェを一人置いてここに来たことに後悔と、同時に恐怖のようなものを感じていた。




