第二十一話
ざぶざぶと、私の前をルーが歩く。胸元まで川の水で濡らして、振り向かずに、私の手を引いて、ルーは進んでいく。流れる水の音が常に耳元で鳴っていて、ルーの息遣いもよく聞こえない。
「どこに行くんだ」
私が尋ねると、ルーがぴたりと足を止める。
手を握ったままの彼が振り向く。貼り付けたような笑みが、その顔には浮かんでいる。
「どこか遠くに」
「まだかかるのか」
「たぶん永遠に」
ぽつりぽつりと質問に答えながら、長い前髪の間の上目遣いが私を見る。
「ついてきてくれる? セデュ」
「どこまでも行くよ」
「ほんとうに?」
「ああ」
途端にルーは苦しいように眉を顰めて手を離す。手を伸ばして掴もうとしても、ふるふると首を横に振って背中に手を隠してしまう。
「うそつき」
「ルー、そこは危ない、手を…」
「ぼくはもうきみはいらないや」
みるみるうちに涙がルーの瞳を濡らし、ぽろぽろと零れ落ちる。
「ぼくはもうきみは好きじゃない」
「ルー、」
「どこかに行ってよ。ぼくの前から消えて」
「どうして泣いているんだ。どうして震えているんだ、教えてくれ、何があったんだ」
「おしえない、ぼくは女の子がすきなんだ。きみはいらない、いなくなってほしい、もう二度と、ふれてほしくない」
ざあざあと水が呻る。少しずつ後退るルーが離れていく。
手を伸ばしてももう届かない。
「お前は心変わりしたのか? 違う、何かがあったんだ、離れている間に、そうだろう、ルー、応えてくれ、ルー!」
「ぼくは行くよ、もう行く…」
ざぶんとルーの姿が波間に消える。濁流に飲まれて、流されてしまったのだ。私は叫んで水に潜る。ごぼごぼと呼吸の音がしている。濁った水の中は前もよく見えない。水草やごみが目の前を通り過ぎる。私は泳いで水中を探す。流されてしまったルーの姿を求める。ベローナの川辺で、ヴェネツィアの運河で、ドナウの河畔で、遠ざかっていく肢体に手を伸ばす。
手首に巻いた包帯が解けて流れ去る。自身の内側から発光しているような、青白く華奢な身体が見えてくる。沈む身体に私は縋りつき、水面を目指して水を蹴る。
水から顔を出し呼吸して、川辺へと泳ぎルーを引き摺って行く。川辺へたどり着きずりずりと引き上げた身体は常になく重く、脱力している。濡れた衣服が身体にぴたりと貼りついて、輪郭を露にしている。
冷えた頬に私は手を当て、ルーの名を呼び、幾度も幾度も、彼を眠りの淵から、揺り起こそうとする。
ルーは目を開けない。糸の切れた人形のように横たわったまま、動かない。その唇は青褪め、白い歯が微かに覗いている。
「ルー、行くな、行かないでくれ、俺を置いて、ひとりで…どこにも、行かないで、…」
ルーは応えない。その身体は冷え切り、脱力し、鼓動の音も、呼吸の音もさせてはいない。
私は、…俺は、声を限りに叫ぶ。死んでしまいたいと思った。そのとき、ルーのいる場所へ行きたいと、そう心から願っていた。
瞼を開く。ここは病室だ。青白い壁と、ブラインドの下ろされた窓と、ぽつぽつと滴る点滴が見える。顔を輝かせて私を見つめる、ナタリーが見える。
「お兄様、よく眠っていらしたわね。でも途中から、とてもお苦しそうで…起こしてしまったの。悪かったかしら?」
「…いや、いい…誰か来なかったか、寝ている間に…」
「誰も。…先生は来たわ。一度だけ、様子を見に」
「……」
立ち上がったナタリーが窓辺に寄り、ブラインドを上げる。薄曇りの空が見え、ごうごうと風が呻っているのが聞こえる。
「ひどい天気ね、雨が降りそう…」
独り言のように言う声を聞きながら、私は拳を握りしめる。確かにあの日掴んだはずのルーの温もりを、掌に閉じ込めるかのように。
その日の午後に僕は引っ越した。今度の住まいはパリ1区のルーブルの傍のホテルだ。観光地だけあって日中は人の出入りが多い場所だけれど、隠れ住むには却ってこういう場所のほうが人目に付きにくい、らしい。これはマチウの弁だ。
新しい部屋に荷物を運びこむと――スーツケースひとつだけだから簡単な引っ越しだ――僕はマチウに礼を言って帰ってもらい、ひとりになる。
スーツケースを開けて衣類をクローゼットにしまい、スコアの類もまとめてチェストの引出しに入れる。
スーツケースの奥には僕が肌身離さず持ち歩いている片側だけのピアス2個と、指輪が入っている。
紫紺のケースを開けてそれらを摘まみだして、僕は部屋の鏡の前でそれらを身に着ける。
もうセデュとは別れたんだから、一緒にいないんだから、僕が堂々とこれを付けていたところでヒソヒソされたり邪推されたりする心配もないのだ。皮肉なことだけど。
イエローダイヤモンドの嵌められた指輪を左手の薬指に通して、それに口づけする。
僕は一生結婚はしない。僕の心はセデュのものだから、ずーっとひとりでいる。
指輪ももう外さない。隠さなくてもいいんだ。僕はセデュが好きなんだ。別れたからこそ、堂々と胸張って生きていける。
「もう離れないからね、ずーっと一緒だよ」
僕はセデュの瞳の色の宝石に囁く。イエローダイヤモンドがちかちか光って、僕に応えてくれたみたいに感じる。
バカみたいだけど、僕は幸せなんだって言い聞かせる。もういちど冷たい石にキスして、頬を寄せる。指輪はセデュの唇みたいに暖かくないし、弾力もないし、いいにおいもしないけど、熱っぽい性急さも、慈しむような優しさもないけれど、それでも僕にとっては唯一の、セデュを感じられるものだ。
だから大丈夫だ。これさえあれば、この先セデュと会えなくなっても、諦められる。
セデュの幸せをきちんと祝ってあげられる。
鏡に向かって僕は微笑む。僕の恋は終わったわけじゃない。この先も、ずっとつづくんだ。
――きっと、僕が死ぬときまで。




