第二十話
翌朝はマチウが車を手配してくれて、僕はホテルからセデュの入院している病院に向かった。病院の前で車を降りて、傍で店を開いているパティスリーに立ち寄り、アップルパイを二つ包んでもらう。キャラメルでコーティングした、めちゃくちゃ甘そうなやつだ。セデュはきっと好きだと思う。
お菓子の箱を持って僕は受付に行き、セデュの部屋を訪ねて、面会者の名簿に書き込み、名札をもらう。それを身に着けてエレベーターで最上階にある病室に向かう。昨日あったことは、セデュには黙っていよう。指先に巻かれた包帯は、果物ナイフで切ったってことにして。
僕の部屋で倒れてから二日が経っている。セデュの容態はよくなったろうか。面会謝絶になるほどじゃないってことだから、命に関わるような事態ではないはずだけど。
なんだか少し、緊張する。別れ話について聞かれたら、なんて答えようか。…ただ気持ちが変わっちゃったんだってもう一回話して、セデュは納得してくれるかな? …
エレベーターから降りて、案内表示に従い、清潔で殺風景な、白い廊下を進む。特別室の場所はすぐにわかった。大きな窓のある広い個室だ。カラカラと扉を開くと、ばっと少女が振り返る。
眠るセデュの傍にいたのは、ヴェネツィアで一度だけ会った、彼の妹だった。
「あ、久しぶり、だね。君と会うのは…」
「……」
妹さんはすっと椅子から立ち上がると「こっち、」と一言だけ言って、僕の腕を引いて廊下に出した。
するするとセデュの姿が、扉の奥に消える。
「あ、あの、お見舞いに来たんだ。セデュの具合はどう?」
「あんたに話す気はないわ。帰って頂戴」
「……そんなに、悪いの?」
「……」
ぎっと妹さんは僕を睨みつけ、忌々し気に吐き捨てる。
「あんたを探して、歩き回ったせいでぶり返したの。みんなあんたのせいよ。お兄様を振り回して、苦しめて…あんたさえいなければお兄様はもっと、…」
「……」
「あんたみたいな薄汚い男娼はお兄様に会わせません。とっとと帰って頂戴」
「……」
僕は口を開いて、何を言おうか躊躇って、それから抱えてきたお菓子の箱を妹さんに渡す。
「じゃああの、これ、…セデュと食べてよ。美味しいと思う。毒とかは入っていないから、安心して。さっき買ってきたばかりなんだ、そこのお店で…」
「……」
渋々といったふうに受け取ってくれた妹さんに安堵して、僕は言葉を重ねる。
「セデュとは、もう別れたから、安心してくれていいよ。セデュが起きたら、よろしくって伝えて。…じゃあ、もう行くね。家族水入らずの邪魔しちゃ悪いし。…」
「……」
セデュの妹さんは飴色の瞳で黙って僕を見上げる。セデュとよく似た、睫毛の長い、きりっとした美少女だ。濡れたように見える、黒髪の…
くるりと踵を返して僕は来た道を戻る。…僕はもうセデュに会えないかもしれないって、予感が僕の心臓を冷やす。
…仕方がないことだ。身から出た錆ってやつだ。僕は間違った道ばかり歩いてきた。セデュと一緒にいても、ずっと、間違え続けていたんだ。
会いたいとか、触れたいとか、いまさら言ってももう遅い。僕とセデュとの距離は開いていく。エレベーターが階下に降りる。扉に隠されていったセデュの寝顔が浮かんで、胸がきしきし痛む。
包帯が巻かれた指を無意識に握りしめていた僕は血が滲むのにやっと気づいて、手を離す。
エレベーターホールは大きな窓に面していて、ガラス窓から曇り空が良く見えた。
廊下のゴミ箱にお菓子の箱を放り入れて、私は病室に帰る。朝来た時に私を迎えたお兄様は、碌に眠れていないようだった。ひどく疲れた顔をして、ぼんやりして、窓の外ばかり見ていた。だからお医者様にお願いして、睡眠導入剤を点滴に加えてもらったのだ。
お兄様の体調は回復しているとお医者様は言うけれど、私はまだ安心できない。
点滴を引き抜いて病院から飛び出していくようなことが、ないとは限らないのだ。お兄様はあの男のせいで、どこか狂ってしまっているのだから。
本当に忌々しい。別れたなんて言っていたけれど、どこまで真実かなんてわかったもんじゃない。あいつさえいなければ、お兄様はもっとリヨンで療養していられたのに。歩き回って病状を悪化させることもなかったのに。そもそも、フェリシアお姉様が去ることだって、なかったはずなのに――
病室で眠るお兄様は愁いのない、穏やかな寝顔をしている。きっといい夢を見ているのだわ。私はお兄様を起こさないようにそっと椅子に掛け、その手を握った。
手首に巻かれた包帯に、もう血は滲んでいない。…




