第十九話
外に出ると、既に夕暮れが石畳を赤く染めている。黄色いプラタナスの落ち葉を踏みしめて僕は家路につく。明日はセデュのお見舞いに行こう。別れたからって、お見舞いにいっちゃいけないってことはないはずだ。今度はもうちょっと落ち着いて、話せるはずだし。セデュの具合が悪いことなんて滅多にないから、やっぱり、心配だし。
結果が陰性だったとしてもセデュと別れるんだって決意は変わらないけど、セデュのことはずっと好きだし、あいつには幸せになってもらいたい。
僕とは、…そうだな、昔みたいな、幼馴染の友人みたいな関係に戻れたら、…戻れるなら、それが一番いい。
よく話し合おう。あの夜のことはまだ話せないけど、それ以外のことは率直に。やっと決意できたんだ、僕は最善の道を選んでるんだって、言い聞かせる。
考え事をしながら歩き続けていたらいつの間にかホテルに着いていて、ドアマンが扉を開けてくれ、僕は滑るようにエレベーターホールに向かう。つやつやに磨かれた文字盤に映るぼんやりした顔を眺めながらボタンを押して、降りてくるエレベーターを待つ。
僕はずっとぼんやりしていて、まわりに注意を向けられていなくて、だから、医師のところからホテルに着くまでずっと後をつけられていたことに気付かなかった。
ホテルの部屋に帰ってしばらくしてから、やつが僕を訪ねてくるまで、気づかなかったんだ。
部屋に帰り着いた僕はすぐにマチウに電話をかける。検査結果を知らせるためだ。事務所に掛けたコール音がしばらく鳴り響き、僕は受話器のコードを指で弄びながら待つ。
やがて受付の女の子が応答して、マチウの名前を出すとすぐに繋いでくれる。
『はい、マチウ・ミレーです』
「僕だよ、ルーシュミネだよ。…セデュの具合はどうだった?」
『発熱していて、体力も落ちているとのことで。1週間ほどは絶対安静だそうです。病院の場所を申し上げますね。14区のサン・ジョセフ病院です。住所は――』
「待って、メモする…はい、いいよ」
マチウの淀みない声が病院の住所と電話番号を教えてくれる。
「ありがとう。明日、お見舞いに行ってみるよ。…会えるかな?」
『大丈夫だと思いますよ。面会謝絶ではありませんし…ムッシュ・レヴォネは特別室にいます。きっとムッシュ・リーヴェを待ちかねておられますよ』
「ん…あ、あと、検査結果のことだけど…」
『はい』
マチウに告げようとしたときに、部屋のベルが鳴る。なんだろう、ハウスメイドがベッドメイクに来たのだろうか。
「陰性だった。ちょっと一回切るね。詳しい話はまた後で」
『は。…よろしかったですねえ。本当に…』
「ありがとう、それじゃ、」
チン、と受話器を置いて、僕は席を立つ。ここを知っているのはマチウとバロットとセデュだけだからと思って、僕は完全に油断していた。ガチャリと鍵を回して扉を開いた瞬間、ぬっと身体を滑り込ませた人影が部屋に侵入し、僕の前に立つ。
ポマードで撫でつけられた黒髪と、煙草とスパイスみたいな、きつい香水のにおい。僕はヒッと息を吸い込み、身体が硬直していくのを感じる。
そこに立っていたのはあいつだった。あの晩僕をレイプした、ウイリアム・テイラーその人だった。
やつはにやけた顔で僕を見て、ばさりと手に持っていた花束を僕に向ける。
「やあ、ずいぶん探したよ。君が引っ越したとは知らなくてね。これは我々の再会の記念に。受け取ってほしい。前回は祝う暇もなかったからね…」
「な、ど、して、ここが…」
じりじりと後退りながら僕は必死で、声を絞り出す。叫びたいのに喉が絞められたように乾いた声しか出ない。逞しいやつの腕に捕まったら最後だ。僕の貧弱な身体ではやつに対抗できない。…また、やつにいいようにされてしまう。ここには二人しかいない。もしかしたら、一晩じゃ離してもらえないかもしれない。
怖い。やつに会ったら脅迫してやろうなんて思っていたのに、震えが止まらない。コツコツとやつが近づいてくる。汗で、椅子に掛けた掌がぬるりと滑った。
「あのクリニックは私も常用していてね。今日たまたま君を見かけて、驚いたよ。その場で声を掛けてもよかったんだが、君を驚かせたくてねえ。サプライズだよ、若い子はそういうのが好きだろう?」
「……」
やつが一歩ずつ歩を進めるたびに後辞さって、僕は壁際まで来ていた。洗い場に果物ナイフがある。その位置を、ちらりと確かめる。
「あの晩の君が忘れられなくてね、なにしろ途中で中断させられてしまったものだから。あの続きをしようじゃないか、君と僕とで…」
「それ以上、近づかないで」
「どうしたんだい? 怖い顔だね、あの晩はあんなに弱弱しくて、可憐だったのに…」
「近づくな!」
僕はぐるりと振り返って果物ナイフを引っ掴み、両手でやつに向けて構える。
ガタガタ震えは止まらないけど、僕は決意していた。やつが近づいてきたら刺してやる。僕は本気だ。
「手を下ろしたまえよ、君には似合わないな。そんな物騒なものは…」
途端に目に鋭い光を灯して、テイラーは僕を睥睨する。僕にはできないと、確信しているかのようだ。僕は唇を噛んで、手の震えを抑えようと必死になりながら叫ぶ。
「来たら、殺してやる。こいつを心臓に突き立ててやる! 出て行ってくれ、出ていけ!」
「そんな華奢な凶器で、人か殺せるとでも? …」
じりじりと近づいたテイラーが次の瞬間、僕に花束を投げつける。振り払う一瞬の隙にやつはナイフを捥ぎ取ろうと僕の手に掴みかかる。
じたばたと揉みあううちにガタンと背中がテーブルにあたり、重い身体がのしかかってくる。ナイフは奪われカチンと床に落とされる。僕は背後を漁って、リンゴだの皿だの、手当たり次第に投げつける。床に落ちた皿がガチャンと嫌な音を立てて割れる。僕はやつに引き摺り倒される。乱暴な手が僕のシャツを引っ掴み、力任せに引き裂く。びりびりと布を裂く音がして、割れた皿の隣に切れた布が落ちる。僕は這って逃げながら電話のコードを掴み、それを引き摺り落とす。ガチャンと大きな音がして落ちてきたそれを引っ掴み、のしかかる男に振りかぶる。がっちりと腕が捕まえられ、ぐいぐいと床に押し付けられ、男の蔑むような瞳が甚振るように、面白がるように、僕を嘗め回し、唇が近づいて、…
ドンドンと扉が外から強く叩かれる。
「お客様、大丈夫ですか、何かあったのですか?」
物凄い音を立てて大立ち回りをしていたせいで、ホテルマンが気づいて駆けつけてくれたのだ。男が僕の口を塞ごうと咄嗟に伸ばした手に噛みついて、僕は声を限りに叫んだ。
「助けて! 暴漢に襲われてる! 警察を呼んで!」
ばっと僕から飛び退いた男は扉に駆け寄り、そこを開けたホテルマンを突き飛ばすようにしながら駆け去った。
ホテルマンは室内の惨状とボロボロになった僕に目を白黒させて、一瞬の後、男を追って駆けだして行った。
ひとり取り残された僕は押さえつけられ続けたせいで痛む腕を摩りながら起き上がる。
床には皿の残骸や布の切れ端、壊れたかもしれない電話が転がっている。それから、打ち捨てられたマーガレットの花束も。
屈みこんでぼんやりしながら皿の破片を集めていたら、ちりりと痛みが走り、僕は指を切っていた。
セデュが知ったらきっと真っ青になって心配するだろうな、なんて思って、僕はまたぶるりと震える。
よかった。僕は今回は凌辱されずに済んだ。自分の身を守ることができた。暴力から、暴行から、逃れることができた。
…この部屋はあいつにばれちゃったから、また新しい部屋を探さなきゃ。
僕は受話器を持ち上げてダイヤルを回す。ひとまずマチウに現状を報告しないといけないから。ダイヤルを回す間じゅう、ツーツーと単調な音が、耳元でずっと鳴っていた。




