第十八話
病院では簡単な検査と治療を行い、ムッシュ・レヴォネは医師により絶対安静を申し付けられた。
傷口から炎症が広がり、そこに細菌が入って彼の体力を奪っているらしい。健康的で頑強なムッシュ・レヴォネには珍しく、ひどく衰弱した様子だ。おそらくはリヨンにいた頃から、同様の症状は出ていたのかもしれない。
念のためムッシュ・レヴォネの屋敷に電話を掛けると、彼の妹だという利発そうな少女が応答した。すぐに駆けつけると病院の住所を聞き出す少女に病院の場所と電話番号を伝え、電話を切る。時刻は今、夜の10時だ。少女がひとりで外出することはないだろうが、僅かな不安が心に兆す。電話は、明日の朝にした方が良かったろうか。
病室に戻ると、灯りの少ない病室でバロットに助け起こされたムッシュ・レヴォネは寝台の上に起き上がっていた。
「寝ていなくてよろしいのですか」
「マチウ、ルーのことが聞きたい。…一体何があった。ノルマンディーで…」
「……」
バロットに目を遣ると、彼はひとつ頷いて病室を出ていく。私はベッドサイドの椅子に掛けて、ムッシュ・レヴォネに向き合った。いずれは話さなければならないことだ。ムッシュ・リーヴェには口留めされていたが、いつまでも隠し通せるものでもない。第一、共に暮らす伴侶に――それもこんな重大なことを――隠したままでは、誠実とは言えない。
私は己の判断で、口火を切る。ムッシュ・リーヴェには悪いが、ムッシュ・レヴォネの気持ちを考えると、そうせずにはいられなかった。
「ノルマンディーの屋敷の持ち主、ムッシュ・テイラーは、ムッシュ・リーヴェと過去に何らかの関係があったらしいのです。それもおそらく、望ましくない方向性の…」
「……」
ムッシュ・レヴォネは居住まいを正して耳を傾ける。窓の外には漆黒の闇が広がっている。ブラインドを下ろしたほうが良いかもしれない。
「ムッシュ・リーヴェは不安がっておられましたが、ショー自体は恙なく終えることができました。ですがその後の、パーティーの際に…ムッシュ・リーヴェは一晩、行方不明になったのです。翌朝私に事情を話してくれましたが、…とても信じられるようなものではなく…」
「何があったんだ」
「…正確にはわかりません。ただ…」
「ただ?」
「性病の検査をしたいと、彼が申し出たのです」
「せい、…」
ムッシュ・レヴォネが息を飲む。私は彼から目を逸らして、部屋の隅に目を向ける。灯りの届かないそこには、叢で息をひそめる獣のような闇が蟠っていた。
セデュたちが出て行った扉をぱたんと閉めて、僕は部屋中をうろうろと歩き回る。記憶を反芻して、セデュに接触した回数を数える。2回だ。伸ばされた彼の手を跳ねつけた時と、抱き寄せられたとき。汗は滲んでいなかったと思う。涙が落ちたのは服越しだった。だから、きっと大丈夫、セデュに伝染したりはしていないと思う。大丈夫だ、大丈夫、…。
そう思うのにガタガタと身体の震えは止まらない。僕の吐く息を吸っただけで、伝染したりはしないはずって、わかってるのに、不安は消えない。
それにセデュはすごく顔色が悪かった。抵抗力が落ちているんだ。体調不良を押して、僕を探して、それで、きっとそのせいで、倒れてしまって…。
がくりとベッドに屈みこむ。セデュが倒れていた場所に頭を擦りつけて、彼の温もりを探して、シーツを掻き合わせる。息を吸うと、セデュのにおいがするように感じて、ぼろぼろと涙が零れる。
僕は背を丸めて、息を詰めて、セデュのいた場所に、いつまでも蹲っていた。
翌日、僕はひとりで闇医者のところに向かった。検査結果を聞きに行くためだ。セデュに感染させたかもしれない疑惑がある以上、このまま宙ぶらりんのままじゃあいけないって決心がついたのだ。
サクレクール寺院のあたりまでは迷わず行けたけど、その後は記憶が曖昧で、ふらふらそこらをうろつき回って、ようやっとたどり着いたときは午後もだいぶ時間が過ぎていた。
予約もなしの飛び込みで先生が会ってくれるのかどうかもわからないけど、とりあえずマチウに倣ってベルを鳴らす。
以前と同じ、不愛想な声が応答する。
「ルーシュミネ・リーヴェです。18日前に診察を受けて、予約はないんですけど…検査結果を、聞きに来ました」
「入れ」
応諾の声を聞いてほっとして、僕は扉を押して玄関ホールの敷居を跨ぐ。エレベーターに乗り込み4階を目指す。透かし彫りのドアからは各階の廊下が見えるけれど、どこにもやはり人影はなかった。
目当ての扉の前に立ちノックすると、ガチャリと鍵を外す音がして扉が開かれる。
「どうぞ、奥の部屋へ」
皺の奥から鋭い眼光を光らせて先生は僕を招き入れる。イギリスの田園を描いたらしい額が掛かった廊下を通り抜け奥へ進むと、カーテンの引かれた例の診療室がある。
今度は中央の椅子ではなく部屋の片隅の肘掛椅子に掛けさせられ、僕は診療デスクから回転椅子を引っ張ってくる先生を見つめる。
先生は紙の束を手にしていて、それをぱらぱら捲りながら僕のほうを見る。
「お名前と生年月日をどうぞ」
「ルーシュミネ・リ―ヴェ、19××年1月31日です」
「では、検査結果から申し上げます」
先生は唇を舐めてから紙の束をこちらに向け、ドイツ語で書かれたそれを指さしながらつづけた。
「貴方は陰性でした。体内、血液、それから舌、肌、局部の状態、いずれにもその兆候は見られません」
「……」
すうっと、憑き物が落ちたようになって、僕はがくりと脱力する。
陰性。ってことは、僕は何も心配しなくていいってことか。セデュに伝染す心配もないし、死ぬかもしれないって、もう考えなくてもいいってことだ。
「ありがとう、ございます…」
僕はじわじわ嬉しさが込み上げて、それと同時にまた涙が湧いてきて、顔を覆ってそう伝える。
先生はその後、僕の身体には特別な異常ないけれど少し血圧が低いとか、貧血気味だとか言って、検査結果である紙の束の一部を僕に渡して、僕を丁重に送り出した。




