第十七話
「や、ヤア、ひさしぶり。よくここがわかったねえ?」
「マチウに聞いた。合鍵も借りて…遅くなって悪かった。…なぜ屋敷を出た?」
「…あのおしゃべりめ…」
シーツを被ったままで僕は呻る。セデュの靴音が近づいて、すぐ近くまで来て、ベッドに腰かける気配がある。
僕は息を詰めて後退る。ベッドは模様のない白い壁にくっついていて後ろに逃げ場はなく、トンと背中に壁があたる。
「どうしてここにいるんだ? 何かあったのか? ノルマンディーで、何か…」
「何もないよ! 何も! ああそうだ、あの、ぼく、ひさしぶりに一人の夜だったから、ちょおっと寂しくなっちゃってさあ! また女の子と遊んじゃった! 一度に何人も相手したの、久しぶりで、止めらんなくってさア! いやあ、愉しかったなあ! やっぱり女の子はいいよね、柔らかくって、温かくって、良い匂いがして、やさしくて…」
「……」
シーツ越しにうっすらと見えるセデュの影が沈黙する。僕は必死で頭を回転させて、言葉を探す。なるべくセデュを傷つけないように、セデュが呆れてなんだコイツって思ってもらえるように、軽薄な、浅はかな、バカっぽい言葉を探す。
「久しぶりに女の子と寝たら、思い出しちゃってさア。やっぱりぼくは女の子が好きだな、うん! 君といたのは、何かの気の迷いだったんじゃないかな! だってやっぱりしっくりくるよ、面倒なことはなんにもないし! 君もさア、ご家族を安心させないとなんだから、子供とか、真剣に考えてみたらどう? お世継ぎとか、必要でしょお? ぼくと一緒にいたんじゃ、いつまで経っても…」
「ルー、何があった」
「さっきから話してるだろ。特別なことは何もない、ただぼくが、ぼくのきもちが、変わっちゃったってだけ、…」
「顔を見せてくれ」
「え、なに、…わ、やだっ…」
セデュの影が近づいて、シーツを捲られそうになって、僕は慌てて彼の手を跳ねつける。パチンと乾いた音が、夕暮れの部屋に落ちる。
「…ダメだ、触らないで、…きみに触れてほしくないんだ。もうぼくは…」
震える掌を握りしめる。今、手が一瞬触れてしまった。汗は滲んでいなかったろうか。セデュの肌に、僕の汚れが、伝染ってしまわなかったろうか。
「出て言ってよ、もう話すことはないよ。嫌なんだ、もうきみとはいられない…」
「ルー、…」
「他に好きな子ができたんだ! きみじゃない! もうきみはいらないんだよ、ぼくの視界から消えて、どこへなりとも行ってくれ!」
シーツ越しに僕は叫ぶ。セデュの顔は見られない。まだ駄目だ。あの、溶けてるみたいな月色の瞳を見たら、僕は崩壊する。きっと、泣き叫んで、彼に縋ってしまう。
触れたら駄目なんだ、汗も、涙も、一滴も彼に落としてはならない。僕は汚れてるんだ。ずっと前から汚れてたんだ。14歳で、グロリアにレイプされたときから、ずっと汚れ続けてきたんだ、僕はセデュとはちがう。まともな世界の人間じゃない。腐臭のする、夜の闇の中に戻るのが一番いいんだ、わかってる、わかってる、わかってる。
「きみのことなんて、もう、好きじゃない…」
声が掠れる。涙が零れる。僕は顔を覆ってしゃくり上げる。離れたくない、離れたくないよ。どこにも行かないで、僕の傍にいて。
…そんなこと、もう、言えるわけもないのに。
「ルー、そのままでいい、じっとして…」
そう囁く声がして、力強い掌が、僕の二の腕を掴んで引き寄せる。
ばさりとシーツが落ちて、僕はセデュに抱き寄せられている。ひゅうと息を詰めて、僕は瞬間固まって、それからじたばたと藻掻いた。
「いやだ、離せ! 消えろ、消えて、いますぐ…っ」
涙がぽたぽたとセデュのスーツの肩に落ちて染みをつくる。僕は慌てて目元を拭った。セデュは僕を離さない。嫌だって言っているのに。酷い言葉を、たくさん、投げつけたのに。
「会えてよかった。おまえが、自分の気持ちを、伝えてくれて、よかった…」
「……っ、…」
「おまえのことを考えていたよ。ずっと考えていた…おまえが、幸せでいてくれるのが、…それだけが、わたしの望みだ…」
万力で締め付けられるようだった、セデュの腕の力が抜けていく。耳元で引き攣れるような吐息の音がして、ずるりとセデュの身体が傾く。
「…セデュ? どうしたの、セ…」
がくりとセデュの身体がベッドに倒れる。セデュの顔色はひどく青褪めて、息が荒い。両手首には真白い包帯が巻かれていて、そこから血が滲んでいる。
僕は気が動転してベッドから転がり落ちて、電話に縋りついた、病院? マチウ? バロット? セデュのお屋敷? どこに縋ればいいんだろう。セデュはすごく具合が悪そうだ。こんな状態で、僕を探していたのか。僕は何も気づかなかった。何も気づかず、セデュを傷つけた。僕は最低だ、僕は…
『もしもし? ムッシュ・リーヴェですか? どうされました?』
「マチウ! セデュが、倒れて、息が荒くて…すぐに来て、ぼくの涙がついちゃった。セデュに伝染したかもしれない。どうしよう、セデュを助けて、セデュを救って、セデュを…」
『今すぐ向かいます。ホテルですね? そのまま、そこにいてください』
ガチャンと電話が切れる。僕は震えて、セデュを助け起こすこともできずに、ベッドサイドに頽れた。
ガチャリと扉を開けてムッシュ・レヴォネのマネージャー、バロットとともに部屋に駆け込む。
「ムッシュ・リーヴェ、お待たせしました! ムッシュ・レヴォネは…」
泣き腫らした目で呆然と見上げるムッシュ・リーヴェの前で大股に部屋を横切ったバロットはベッドの脇に屈みこむ。そこにはムッシュ・レヴォネが倒れている。両手首の包帯が痛々しい。熱も少しあるようだ。
「おい、セデュイール、しっかりしろ。ルーシュミネさんが心配してるぞ、おーい」
「…ルー、…」
「意識はしっかりしてるな。よし、担ぐぞ。ルーシュミネさんは退いててください。俺らが病院に連れて行きます」
ぐったりとしたムッシュ・レヴォネの身体を軽々と抱え上げてバロットが言う。190センチの長身で、筋骨隆々のバロットは下手な救急隊員よりも安心感がある。ムッシュ・リーヴェは青褪めた顔のままこくりと頷いて、先に立って扉を開けてくれる。
「ムッシュ・リーヴェも、ご一緒しますか? 病院まで…」
振り返って尋ねると彼はぎくりとしたように固まって、それから首を横に振った。




