第十六話
パリへと向かう車中、お兄様はぐったりとシートに凭れ掛かり、苦し気な荒い息を吐いていた。やはりまだ本調子ではないのだ。顔色はひどく青褪め、瞼は地獄の門のように硬く閉じている。
パリに着いたら、そこの医師に診せて、やはりしばらく休んでもらおう。ヨランダたちハウスメイドは私の言葉に従うはずだ。どう見ても、お兄様は働けるような状態じゃないのだもの。屋敷にあの男娼が居座っているようなら、追い出してやる。手切れ金を弾めばきっとやつも納得するはずだ。私のお小遣いだけじゃ足りないなら、お母様の名前で小切手を切ろう。お母様だって、お兄様があの男娼と別れることを望んでおられるのだし。
けれど屋敷に、やつの姿はなかった。
ノルマンディーに仕事に行ったきり、まだ戻っていないのだという。
拍子抜けしたけれど、それならそれで好都合。二度とあいつにこの屋敷の敷居を踏ませてなるもんですか。私は改めてそう決意し、得意満面だった。
少し目を離した隙に、お兄様が失踪するまで。
クリニックを訪れた日から1週間が経ち、2週間が経ち、…マチウの入れてくれた予約の日になったけれど、僕はでかけられなかった。
マチウが車を回して待機してくれていたのだけど、ちょっと具合が悪いと断って、予約を先延ばししてもらった。
結果を聞くのが怖いんだ。だってもし陽性だったら、僕は二度とセデュに会えなくなってしまう。
キスもセックスも当然できないし、事情を説明するのもしんどいし、同じ空間に存在するのだって、つらくてできなくなってしまう。
…レイプされて性病を伝染されたなんて、セデュには絶対に言えない。あいつを傷つけるのも嫌だし、自分でも、まだよく、…実感がもてないんだ。だから。
セデュの屋敷に寄らなかったのは正解だった。見知った顔に会ったら僕はよわよわになっちゃって、別れ難くなるばっかりだったろうし。
このままフェイドアウトも、できないわけじゃないと思う。ノルマンディーで出会った女の子と駆け落ちしたってことにでもしてさ。そうしたらセデュは諦めるかな? ハリウッドで会った、ティーナのときみたいに。女の子には敵わないって、あいつは思っているみたいだし。
そうだ、そうしよう。セデュときっぱり別れた後なら、結果を聞きに行くのも、怖くなくなる。でも、もし陰性だったら、…それでも僕がレイプされたって事実は変わんないわけで、相手したのが、何人かもわかんなくて、…だらしない、自堕落な、ロクデナシな僕は、やっぱりセデュのところには帰れないやって思う。
セデュはもう、リヨンから帰って来ただろうか。僕を探していたりするのだろうか。
パリの街を駆けずり回って、あのイタリアのときみたいに、失踪した僕を探し求めて、ドロドロのぐちゃぐちゃになって、それで、それで…。…
やっぱり黙っていなくなるのは、誠実じゃないな。マチウに頼んで、きっぱり伝えてもらおう。ちゃんと会って話すのはまだできそうにないから、マチウには悪いけど…。
「僕は君とはもう暮らせない、」
声に出して言ってみる。予想に反してすらすらと言葉は口に出せる。これなら面と向かっても大丈夫そうかな。…いや、でもな、実物のセデュを前にしたら、こうはいかないかも…
「他に好きな子ができたんだ」
わざとらしいかな? 誰だって話になる? えーとえーと、じゃああの、リアとか? 僕を嵌めた子だけど。あれ以来一度も会ってないけど。
「君のことはもう、好きじゃない…」
駄目だな。勝手に涙が出てきた。やっぱりまだ会うのは駄目だ。もうちょと、取り繕えるようになってからじゃないと。ダメだな僕は。決めたのに。セデュにとっても、僕がいないほうがいいんだ。前からずっと思ってた。それでも別れられなかったのは、僕がセデュに執着していたせいで、彼の愛情に甘えていたせいで、別れたくないって、思っていたせい、で…
いい機会だったんだって思おう。こんなことでもなけりゃ、自分からセデュのもとを去ることなんてもうできなくなっちゃったんだから。以前の僕だったら、へーきな顔して別れを告げられたのに。取り繕うことだってもっと上手だった。強がることなんて、当たり前だった。…弱くなっちゃったんだ。セデュに愛されて、溶かされて、身体のカタチがなくなるくらい、でろでろに、甘やかされて。…
「ルー!」
ガチャリと扉が開いて、バタバタと人影が駆け込んでくる。僕は思わず飛び退いて、ガバリとシーツを頭から被った。混乱している。目の前にセデュがいる。見つかっちゃった。こんなに早く。まだ心の準備ができてないのに。うまく別れ話を、切りだせそうにもないのに。




