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≪第十部≫ウンディーネは宵闇に惑う ーモデル編ー  作者: 咲佐きさ


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第十五話

 それから医師のもとに行く時間まで、マチウに調達してもらった五線譜に屈みこんで、ひたすら作曲に打ち込んだ。何も考えたくないというのもあったし、このどん底みたいな経験も作品に昇華してやるんだってやけくその気分もあった。ピアノはないけど五線譜を前にすると旋律があふれ出す。僕はそれを写しとるだけだ。びっくりするくらい陰惨な曲ができあがっていく。僕の心境ってこんな感じなのかな? ちょっと被害者意識が強すぎじゃないか?

 食事は3回マチウに差し入れてもらって(こんなことまでマネージャーの仕事の範疇なのかはわからない)、24時間はあっという間に過ぎる。

 マチウに迎えにきてもらって、車に乗り込み、モンマルトルの丘を下る。

 瀟洒な街並みを越えてサクレクール寺院を横目にぐるりと曲がり、しばらく走ってたどり着いたのは、看板も出していない小洒落たアパルトマンだった。

「……ここ?」

「芸能人がお忍びで訪れるクリニックです。堂々と国立病院で性病の検査などさせられませんからね」

「闇医者ってこと? それって、大丈夫なの? 医師免許とか…」

「腕は確かです。ムッシュ・レヴォネもここで検査を受けられたことがありますし、他に事務所の人間も何人かここを利用しています」

「……」

 セデュの名前を思いがけず出されて僕はびくりとなる。なるべく意識から追いやろうとしていたからだ。…でもセデュが利用してるってことは、大丈夫なところ、なのかな。

 マチウがベルを鳴らし、不愛想な声が応える。

「14時に予約したマチウ・ミレーです。本日は患者も連れてまいりました」

「入れ」

 応諾が降りて、扉を開けたマチウは薄暗いホールに踏み出す。廊下に灯りはなくて、遥か上方にひとつ北向きの小さな窓があるきりだ。目の前には鉄の柵で囲われたエレベーターがあって、その脇には螺旋階段が上階へ繋がっている。

「ここの4階です、参りましょう」

 マチウは手慣れた様子で柵を開けちょうど止まっていたエレベーターの扉もガラガラ開ける。

 扉が透かし彫りになったエレベーターに乗り込むとするすると音もたてずに上がっていく。

 北向きの窓(鳩が窓辺に留まっていた)を越え、無人の廊下を越えて、4階にゆっくり辿りつく。チン、と甲高い音が鳴ってマチウがまた扉を開けてくれた。

 赤い絨毯が敷き詰められた廊下を歩く。クリニックは突き当りの部屋らしい。表札も出ていない扉をノックすると、ガチャリと中から鍵が外される音がした。

「どうぞ、奥の部屋へ」

 扉を開けて現れたのは白髭につるつる頭のお爺さんだ。白衣を着ているけど、お医者さんというより、科学者とか研究者といった雰囲気だ。

「よろしくお願いします…」

 カチカチと時計の秒針の音が聞こえるくらい静かな部屋の敷居を跨ぎ、僕は小声で挨拶する。

 通された奥の部屋にはペイズリー模様のグレーのカーテンが引かれていて、部屋の四隅に置かれたランプがオレンジの光を放っている。

 その部屋の中央には分娩台みたいな、脚を開いて座る椅子が据え付けられていて、僕はひゅっと冷たい息を吸い込んだ。

「ここに掛けて、局部を見せてもらいます。…お名前と生年月日をどうぞ」

 あくまで事務的に、淡々と聞かれて、僕は場違いな笑顔を顔に貼り付けたまま椅子に座った。

 …どんな顔をしていたらいいかわからなくて、完全にパニックだったのだ。

 セデュもこんなふうなことを、経験したのだろうか。縋るように思い出してしまって、僕はぶんぶんと頭を振って、脳みその中枢からセデュを追い出す。

 マチウはいつの間にか部屋を出ていて、部屋には先生と僕のふたりきりになっていた。



 ぐったりと僕は、タクシーの背凭れに寄りかかる。なんか、すごく疲れた。恥ずかしいカッコしてお爺さん先生にあそこを見られて、なんか器具を入れられて、あと血とかも抜かれて、もうさんざんだ。

「結果が出るのは1,2週間後だそうです。また予約を入れておきますね」

「うん。おねがい…」

 事務的に告げるマチウに応え、窓の外を滑る景色を眺める。プラタナスの並木が夕暮れの光をちらちら覆って、オレンジの木漏れ日が石畳にまだらな影を作っていた。

 


 監禁から解放されたお兄様はホテルを引き払い、屋敷で1日床に就いていたのだけれど、翌日には起き出して身支度を始め、私はお兄様のスーツケースを隠して叫んだ。

「お兄様、まだ駄目よ、そんなお身体で、どこに行こうって言うの!?」

「パリに帰る。帰らなくては…」

「まだ傷も癒えていないのよ。お医者さまも、数日は休んでいないと駄目だって仰っていたわ」

 あれから、すぐに医師を呼んでお兄様を診せ、怪我の手当てを行った。手首の傷は長らく放置されたせいで膿になってしまっていて、痛々しい包帯が、今はその傷を隠している。

 事件が公になることを恐れた叔父様たちはミレーユお姉様を連れて屋敷から去っていった。お兄様の弁明騒ぎは、一応の納得をもって迎えられ、幕を閉じることとなったのだ。家族内のことだから、訴えるとか、縁を切るとか私が決められないのがもどかしい。お父様は二度とミレーユお姉様にお兄様と会わないことを誓わせて、それで許してしまったのだ。甘すぎると思う。どれだけ身内に激甘なんだろう。お父様ったら。

 お父様がそんな調子で、お母様は相変わらず家族内のごたごたに興味がなくふわふわしているものだから、この私がお兄様の看護を申し出、こうして監視しているというわけなのだ。

「まだ熱も高いし、顔色もお悪いわ。仕事なんてとても無理よ。事務所には私から連絡しておくわ。こんな非常事態ですもの、わかってくれるはずよ」

「…仕事のこと、だけじゃない。ルーを迎えに行かないと…」

「……」

 ルーというのは、あの、汚らしい男娼の名前だ。お兄様はまだあいつと切れていなかったのだろうか。それとも熱で、譫言を言っているだけ?

「そんなやつ、どうでもいいじゃない。お兄様は自分のことをもっと考えて、」

「駄目だ、あいつはひとりにしておけない…俺が傍にいてやらないと…」

「ご自分の健康を犠牲にしてまで? どこまで人が良いの、お兄様は。そんな、お金目当てで近づいてきた、男娼なんかに…」

「ルーは男娼じゃない、俺の、伴侶だ…」

「はん、…」

 私は愕然とお兄様を見上げる。熱を帯びて潤んだ瞳を見つめる。何かに焦がれるような、その黄金色の奥にある、癒されない乾きを見つめる。

「お兄様は気が狂ってしまったの。伴侶だなんて…あの男娼が? お金をもらえれば誰とでも寝るような、卑しい身分の男が?」

「…荷物を渡してくれ。もうお前と話すことは何もない」

「嫌よ、絶対に渡さないわ。お兄様は騙されてるのよ。あいつに言い包められたんでしょう。下賤なやつらのよく使う手よ。お兄様が、あまりに純真だから、だから…」

「それ以上ルーを侮辱するのはやめろ。聞けないようならお前とも縁を切る」

 お兄様の声が怒気に震える。ああ、このひとは、完全に、あの男の虜になってしまっているのだ。肉体的な束縛よりなお悪い、心の牢獄に、お兄様は閉じ込められてしまっているのだ。

 私の中で怒りが燃えている。許せないと思う。優しかったお兄様を変えてしまった男が、悪魔みたいな手管で、お兄様を惑わせた男が。

「どうしても行くと言うのなら、私も一緒に行くわ。お兄様の伴侶とやらを、私にも紹介して」

 怒りに任せて、私は言っていた。全部ぶち壊してやるって気持ちで。私は輝かしい使命に燃え、決意したのだ。ミレーユお姉様から救い出したように、あの汚い男娼の手からも、私がお兄様を救うのだと。


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