第十四話
「お姉様、お姉様、いないの? 開けてくださらない、ナタリーです、お姉様!」
トントンと扉を叩く。返答はない。鍵も掛かっている。お姉様は外出なさっているのかしら。出直したほうが良いかしら。
そっと扉から身を離そうとしたとき、部屋の中から何かが落ちる音が響いた。ガランガラン、と、プラスチックか琺瑯でできた何かが床に落ちたような音だ。
「…ノルベール、扉を開けて」
「は、」
執事であるノルベールは屋敷中の合鍵を肌身離さず持ち歩いている。鍵穴に錆びた鍵を差し込みカチリと回す。ギイ、と開かれた部屋の中は闇だった。カーテンが引かれ、灯りも灯ってはいない。ツンと鼻を刺すような嫌なにおいがする。アンモニア臭かしら。おそるおそるお姉様の部屋に踏み入れた私は、そこでベッドに拘束された、お兄様を見つけた。
「お兄様!」
わっと叫んでお兄様に駆け寄る。声を塞ぐように縛り付けられていたお兄様の口元のタオルを捥ぎ取り、傷ついた身体を抱き寄せる。
床にはお兄様が蹴り落としたらしい、琺瑯の洗面器が落ちていた。
「これは、どういうことですか、セデュイール様…」
ノルベールがわなわなと震えながらお兄様の手首を調べ、そこにがっちりと嵌められた手錠に青褪める。手錠が擦れて手首は痣になり、少し膿んでいる。痛々しいその姿に胸が締め付けられる。一体誰が、お兄様をこんな姿に? …
きゃあ、と喉の詰まったような悲鳴が扉口に聞こえて私は振り返る。
そこにはミレーユお姉様がいた。盆の上に湯気の立つ粥を載せた、青褪めた頬のお姉様が。
「…どういうことなの。お姉様がやったの。お兄様を、こんなふうに…」
「……」
お姉様は黙り込む。その身体がガタガタ震えている。いつも優しかったお姉様が、しっかり者で、私の暴走を穏やかに窘めていたお姉様が、…この世の終わりのような顔で、私を見る。
「鍵はどこです。セデュイール様をすぐに解放なさってください。オスカー様にも、お話ししなくては…」
叱責するようなノルベールの声でびくりとなったお姉様はその場に頽れ、手から落ちた盆が床に粥をぶちまける。
「ああ、ああ、ああああ」
顔を覆ってお姉様は泣いていた。幾粒も涙の雫で眼鏡を濡らした。
私に愛はまだわからない。わからないけれど、こんなものは愛じゃない。
こんな、自分の欲求を一方的に押し付けて、相手を苦しめるだけのものは、断じて、愛などではない。それだけはわかる。
私は泣き咽ぶお姉様を冷めた気持ちで見ていた。ノルベールがベッドサイドの引出しを漁って、手錠の鍵を探り当てるまで。
荷物を纏めたスーツケースを持ち上げる。体調が悪いとマチウに断ってもらって、オービットさんやテイラー氏への挨拶は別れ際の、形式的なものだけにして車に乗り込む。
ここからパリまで数時間の旅だ。隣に掛けたマチウは心配そうに僕を見ている。
性病って空気感染とかはしないはずだけど、汗とか涎とか体液が付くとマズそうなので、僕は少し彼から離れる。
がたごとと車はパリ目指して走る。オリーブの低木が窓の外を駆け去っていく。僕は車の中で、パリのセデュの屋敷には戻らないことを決めていた。
お昼ごろパリに着いた僕はマチウに宿をとってもらって、18区のモンマルトルにあるホテルに荷物を運びこむ。旅支度をしていたからちょうどよかった。セデュの屋敷には取りに行きたいものもあるけど、ひとまず僕の身体の状態がわかってからでないと、迂闊に外も歩けない。
当日飛び込みのお客なものだから、空いているのが狭い使用人部屋みたいな部屋しかなかったみたいだけど、洗面所がついてれば生活するには十分だ。
マチウはマルシェに買出しに行って果物とかお惣菜とか、あと果物ナイフとかを買ってきてくれて、狭いホテルの小さなテーブルで膝つき合わせてランチを食べた。
「必要なものは随時申し出てください。できる限りのことをしてご用意いたします。…医師の予約は、明日の14時です。場所はここで…当日はお送りいたしますね」
「ん。ありがと…」
マチウが剥いてくれたリンゴに齧りつきながら僕は頷く。なまぬるいリンゴはシャキシャキしていて歯応えがあって、噛むとじゅわりと果肉が滲んで、とても美味しい。
「じゃあ五線譜、買ってきてくれる? ストックがもう終わっちゃって」
「かしこまりました」
マチウは胸元から黒革の手帳を開いてぱらぱら捲り、そこに万年筆でさらさら書き込む。
「…ムッシュ・レヴォネには、本当にご連絡はよろしいので?」
「うん。黙っておいてくれるとありがたい。あいつだってわざわざ僕がウワキしたことなんて知りたくないだろうしさー」
「……」
マチウは難しい顔をして僕をじっと見る。おそるおそる、といったふうに唇を開く。マルシェで買ってきたワインで湿った唇は毒々しい赤色だ。
「本当に、浮気、なのですか?」
「……」
「テイラー氏に、何かされたということは…」
「合意か非合意かってこと? どっちでも同じことだよ。起きたことはもう取り返しがつかない。あ、そのリンゴもらっていい?」
「…どうぞ」
マチウが皿をこちらに押して寄越す。ひょいと摘まんで口に入れたリンゴは、先ほどと打って変わって味が全くしなかった。




