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≪第十部≫ウンディーネは宵闇に惑う ーモデル編ー  作者: 咲佐きさ


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第一話

「ムッシュ・リーヴェ、新しい仕事の話ですが…」

 珍しく事務所に顔を出した僕を見るなり開口一番、マチウがそう言った。

 ちなみに僕がセデュの事務所に移籍するって話は、まだ交渉中だ。

 事務所の社長さん(50代くらいの恰幅のいいおじさま)とセデュとの間でいろいろ話し合っているらしく、セデュの主演映画に事務所の俳優をバーターとしてしばらく付けるってことで恙なく纏まりそうだって、この間セデュが話していた。

 ついでに、僕のマネージャーとして(かつてはセデュのマネージャーとして)務めてくれたマチウも、僕の事務所移籍と同時に引き抜くって段取りになっているらしい。

 ちょっと頼りないけど、いろいろな修羅場をともに潜り抜けてきた戦友だから、まったく新しいマネージャーを雇うより、安心感がある。

 けっこう不安定な僕の精神的な負担も考えて、セデュはそう決めたのだろう。

 ともあれ、移籍問題が落ち着くまでは新しい仕事は受けないように、マチウとも話し合ったばかりなんだけども…?

「この間の会議、もしかして寝てた? 君…」

「いいえ、移籍問題の件ですよね! それは重々承知しております!」

「じゃあなんで…」

 訝る僕にコホンと咳払いして、マチウは眼鏡の奥の目をきらりと光らせた。

「今度のお仕事は、音楽家としてのものではありません」

「…また役者仕事? 僕もうそういうのは…」

「いいえ! そうではなくですね…」

 ポケットから黒革の手帳を取り出したマチウがそれをぱらぱらと捲る。あるページに行き着いた彼はペン先をとんとそのページに落とし、重々しい声で言う。

「オービット・ランディ氏を覚えておいでで?」

「…ああ、カラーマゾフのときのデザイナーさん? そのひとがどうしたの?」

「はい。なんでもムッシュ・ランディはムッシュ・リーヴェの驚異のスタイルをひどくお気に召したとのことで…今月末にある春夏の新作コレクションで、ぜひ舞台に立ってほしいとのご依頼が…」

「………はい?」

「なんでも、ムッシュ・ランディは既にムッシュ・リーヴェの体形に合わせて衣装を作成されたとのことで、これを着こなせる人間は他にはいないとのことで…」

「………」

 まただ。退路を塞いでオファーを受けるしかないって状況に追い込む。もういい加減、芸能界のこういう卑怯な…もとい、なりふり構わないやり口にも慣れてきた。

 今月末っていうと…あと数週間しかない。僕はモデルさんの経験なんて、あたりまえだけど、まったくない。またド素人が畑違いの場所に放り込まれるのか…。プロの人たちに嘲笑されながら…。

「…ぼく、モデルさんの歩き方とか、知らないんだけども…」

「ええ、ええ、そうでしょうとも! ムッシュ・ランディより直々のご指導があるそうですので、ムッシュ・リーヴェは彼の事務所に通うようにとのご連絡で!」

「……もーそれ完全に逃げられない流れじゃないかよー。やだよー。また無茶ぶりかよお。いー加減にしてくれよなあー」

 ソファにぐたりとなってジタバタする僕を冷静に眺め、マチウは眼鏡をくいっと直す。

「ムッシュ・リーヴェは可能性の塊なのです。あなたの値打ちを高める仕事は受けるべきです。音楽一本で勝負するのもいいですが、潰しが効くように様々な分野に進出しておくのも今後のために…」

「はいはい、わかったよ…やればいいんだろ、やれば…」

「おわかりいただけましたか!」

 今の事務所の意向なのかマチウ本人の希望なのかわかんないけど、セデュの管理下にない僕は言われるがまま仕事をするだけだ。もう、マチウを引き抜くのが正解なのかもわかんなくなってきた。

 …はやくセデュの事務所に移りたい!


「姿勢はいいし、立ち姿も問題ないわね。あとは歩き方よ。上半身をブレさせず、脚を交差するように歩くの。最初は難しいでしょうけど、大丈夫、だんだん慣れるから…」

「ムッシュ・オービットが実演して見せますので、どうぞよくご覧になって、学んでください」

 翌日から僕のモデル修行? が始まった。

 パリ6区にあるオービットさんの事務所に通って、朝から夕方までご指導を受ける。頭の上に本なんか載せてすいすい歩ける訓練とか、手早く衣装替えする訓練とか。

 音楽とはまったく何の関係もないスキルだ。正直場違い感が半端じゃない。

 片側だけのボブカットに刈り上げのオービットさんの頭は前回は真緑だったけど、今回は鮮やかな深紅だ。頭が小さくてすらりと痩せていて、自分がモデルになったほうがいいような感じの男の人である。そんな人が、僕の歩き方なんかを鋳型に嵌めるように、修正していく。

 秘書のパトリシアはいつものように小柄な身体をオービットさんの隣にぴったりくっつけて、脱線しがちな彼の言葉を軌道修正する。これも見慣れたやりとりだ。

 モデル修行は窮屈だし退屈だし全然面白くないけど、これも仕事だから、仕方ない。

 せめてセデュが見に来てくれたらいいな、なんて思いながら、僕は落ちた本をもういちど、頭に載せた。



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