第十二話
裾を持ち上げて、私は広間を後にする。汚れはすぐに落とさないと、染みになってしまう。母が私にくれた唯一のものなのに。ドレスはこれ一着しか持っていないのに。…
中庭に面した列柱に縋りついて、私はすすり泣く。この世界で美しさは正義だ、美しければ何をしても許される。醜い私は、見下され、無視され、踏みつけられても、文句を言うことすら許されていないのだ。
ただ醜く生まれたという、それだけのことで。
「ミレーユ、…」
不意に後ろから声を掛けられて私は振り向く。広間から駆けつけたのだろう、セデュイールがそこに立っている。心配そうに私を見下ろし、手を差し伸べる。私が何を考えているかなど知りもしないで。美しい貴方は、惜しげもなく慈愛を振りまく。虫けらのような私にすら。慣れない愛を注がれた虫けらが、恋慕に身を焦がすようになることなぞ、気づかないままで。
「行こう、部屋まで送る」
「…よかったの? お嬢さんたちが貴方を待っているでしょうに…」
「広間は息が詰まる。口実がほしかったんだ」
私に気を遣わせないように、貴方は軽く笑って私の手を引く。柱廊に等間隔に置かれた燭台の火が、あなたの美貌を浮かび上がらせる。堂々たる体躯、長い脚、背が伸びた貴方は少年の頃の貴方とは違う。しっかりと一人で立つ大人の男だ。誰かを愛することもできるようになった、大人の男だ。
「セデュイール、貴方…」
「ん?」
「…愛する人がいるのね。そうでしょう…」
「……」
セデュイールは足を止めない。私を振り向くこともない。灯りの乏しい柱廊をただまっすぐ前を見て進む。
「…結婚は、しないの?」
「しない。一生…」
階段ホールを越えて、別館に出る。私に宛がわれたのは使用人部屋からも遠い、別館の外れにある小さな部屋だ。
「聞かせてくれない? 貴方の話を…」
「あまり愉快な話ではないな。人に聞かせるようなものでも…」
「それでもいいの。久しぶりに会ったのだもの」
扉を開けて、セデュイールを招き入れる。カーテンの引かれていない窓から月明かりが差し込んでいる。無防備な貴方は私を疑わない。幼い頃から知っているのだ。今でも私は貴方にとっては、気弱で臆病な少女のままなのだろう。
灯りを付けて、ベッドの傍のソファにセデュイールを座らせる。
「何か、飲む? 水でいい?」
「気を遣わなくていい」
「貴方、お酒弱いものね。水にするわ…」
グラスをふたつ用意して、水差しから水を灌ぐ。身体で手元を隠すようにして、ひとつには粒上の睡眠薬を入れる。シュワシュワと泡立って、薬が溶けていく。もう何か月か前に、母の常備しているものを拝借していたのだ。いつか必要になるときが来ると思って…こんな用途に使うことになるとは、当時は思いもしなかったけれど。
「お待たせ。どうぞ」
「ありがとう」
グラスを二つ、色鮮やかな花刺繍模様のテーブルクロスの上に置いて、向かい合って腰かける。
「話し合いでは、ハリウッド女優との熱愛は、否定したんですって…?」
「ああ」
「メイドとのことも?」
「……」
「あなたたちが抱き合った写真、見たわ。タブロイド紙の…元モデルですって?」
「……メイドに関する情報は、嘘ばかりだ。信じないでくれ」
「貴方が、使用人に手を出すような人じゃないのは、知ってるけど…」
戸惑ったように視線を揺らし、セデュイールは水を一口飲む。私は彼のシャンパンのような魅惑的な黄金色の瞳を見守る。彼は躊躇って、視線を手元に注いだまま、口を開く。…
「私の愛する人は、ハウスメイドではない。…モデルでも、女優でもない」
「何をしている人、なの、…?」
「それは言えない。申し訳ないが」
「…隠しておかないといけないような人? …人妻とか?」
「違うよ」
「じゃあ、じゃあ…未成年?」
「違う」
「女の人じゃない、とか?」
「……」
セデュイールは口を噤む。黄金色の瞳が憧れを宿したように潤んでいく。待ち望んだものが目の前に顕れたかのように。そしてそれは、私ではない。
醜い私は、セデュイールの視界には、入っていないのだ。
「これ以上は言えない」
「男の人なのね…」
「…君にもいつか紹介したいが、…家族を納得させるには、まだまだ時間がかかりそうだ」
「オスカー様はお許しになったの? 偏見とかは、なさそうな方だけれど…」
「父には認めさせた。無理矢理だが」
「無理矢理?」
「認めてもらえないなら死ぬと言って脅したのさ。ひどい愁嘆場だった。あの場に君がいなくて良かったよ」
「…私は、見てみたかったけれど」
「見て楽しいものじゃない。それに、他人の色恋沙汰には距離を置いた方がいい。どんなふうに飛び火するかわからないから」
「他人、なの? 貴方と私は…」
「…親愛なる従姉殿、私を虐めるのはもうやめにしてくれないか」
「いじめるなんて…」
濡らした布巾でトントンとシャンパンの汚れを拭き取る私をぼんやり眺めて、セデュイールは腰を浮かせる。
「もう戻るよ。久々に、君と話せて良かった」
「待って、まだ行かないで、…もう少し、傍にいて、くれない? 駄目かしら…」
「…今夜はどうしたんだ。君らしくもない」
「私らしいって、どんなかしら…」
「芯の強い、尊敬すべき女性だ。親族の冷遇にも耐えて、家族を気丈に支えている…」
「……」
碌な仕事にもついていない、貰い手もない、落ちこぼれの私を、貴方はまっすぐにそう評す。誠実で生真面目で、正義感が強くて、曲がったことが許せない貴方は、まだここにいる。たとえ濁流に流され、汚れてしまっても。見知らぬ男の人が、あなたを汚していたとしても。
「羨ましいわ、その男の人が…」
「え?」
「貴方を独り占めできるなんて、なんて…」
私は彼に縋りつく。ぐらりと身体が揺れて、セデュイールが呻く。
「ミレーユ、…離してくれ、戻らないと…」
「行かないで、傍にいて…昔みたいに。私が泣いていたら、いつも貴方が来てくれた。慰めて、私に前を向かせてくれた。いつも、いつだって…」
「過去のことだ、今じゃない…」
「貴方は私が嫌い? 私が醜いから? 貴方の愛する人は美しい人なのね。そうでしょう。誰もが美しい人を愛するの。そう決まっているのよ。聖書の昔から…」
「自分を卑下するんじゃない。そんなことは…君は…」
セデュイールはふらふらとソファに頽れ、背凭れにぐったりと身を寄せる。気怠い吐息がその唇を濡らし、額に当てた掌がもどかしげに震える。
「ミレーユ、きみは…なにを…」
「おやすみなさい。疲れているのね。ここで休んでいいの。私の傍で、安心して、目を閉じていいのよ。私は貴方の従姉です。貴方に危害は加えません。ねえ、セデュイール…」
やがてセデュイールは瞼を下ろす。私は彼の美しい顔を見つめる。糸巻に指を刺した姫君のように、いとけなく、眠りに落ちていく貴方を。




