↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
≪第十部≫ウンディーネは宵闇に惑う ーモデル編ー  作者: 咲佐きさ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/31

第十一話

「久しぶりに会ったのに、お兄様ったら、冷たいんだから。もっと私に優しくしてくれてもいいのに! ねえお姉様、そう思わない?」

 リヨンの丘の上、クロワルッス地区のカフェでフランボワーズのタルトにフォークを刺しながら、ナタリーが愚痴る。リヨンに到着したばかりのセデュイールを誘って断られたことを、根に持っているのだろう。

「セデュイールにだって、都合があるのでしょう。お兄様に我儘ばかり言っては駄目ですよ、ナタリー」

「はあい。でもお姉様、お兄様ったらちっとも帰ってきてくれないのよ。仕事が忙しいのかなんなのか知らないけど…フェリシアお姉様がいた頃は、もう少し頻繁に顔を出してくれていたのに!」

 腹立ちまぎれにナタリーはカップをぐいと煽って、コーヒーの熱さに飛び上がる。直情的で愛らしい。天真爛漫で、自分の思うがまま突き進むナタリーを、私は羨ましく思う。

「セデュイールが離婚して、もう2年になるのねえ…」

「あーあ、どうして離婚なんてしたんだろう! お兄様とフェリシアお姉様はとってもお似合いだったのに! アメリカのハリウッド女優なんか嫌よ、生意気でワガママな高飛車女に決まってるもの!」

「あの例のスキャンダルね…」

 タブロイド紙がつい先日まで騒ぎ立てていた、セデュイールとハリウッド女優とメイドとの三角関係を思い出す。何から何まで芝居じみていて、現実感がない。あの真面目なセデュイールが結婚当初から不倫していたというのも、女たちを侍らせて口にできないような乱痴気騒ぎを演じているというのも。…おそらくは記者の妄想なのだろう。

 そんな事実無根のスキャンダルを仕立て上げられたセデュイールは、しかし親戚一同に釈明するためにこそ、ここリヨンに来たのだ。このスキャンダル騒ぎがなければ、私はまた何年も彼に会えないままだったろう。

 それを思えば、記者の妄想に感謝したい気持ちにもなってくる。

「おそらく全部、嘘でしょうね。セデュイールは不倫なんてできる人じゃないもの」

「私もそう思いたいけど。もう、学校でも同級生に泣きつかれちゃったわよ。お兄様に憧れてたのに、ショックだなんて。泣きたいのはコッチの方だって言うのに!」

 17歳の多感な少女の失恋を思って微笑ましい気持ちになっていた私に、ナタリーは爆弾を落とす。何の気なしに、煙草の燃え滓を落とすように、呆気なく。

「…まあでも、相手が女性になったのなら、喜ばしいこと、なのかな? あいつとはもう切れたってこと、だもんね」

「…あいつ?」

 予感があった。フェリシア嬢との結婚式で、ひどく寂しげなセデュイールを見ていた時から。まるで他人事のように、祝福を受け入れている彼の虚ろな横顔を見ていた時から。

「お兄様は薄汚い男娼に誑かされたのよ。それでお姉様を棄てる羽目になったの。そういう境遇に、陥らされたの。嵌められたのよ! 脅迫されたの! お金目当てで近づいた男に…お父様が調べたことだから、間違いないわ。私見たの。お父様の書斎で、お兄様とあいつが並んでる写真を、何枚も…ああ汚らわしい、口にするのも嫌だわ!」

 ナタリーは苛立たし気に吐き捨てて、最後にぽつりと、「内緒にしてね、お姉様」と付け加えた。

 …男娼、不倫、セデュイールの寂しげな横顔、誰に対しても分け隔てなく鷹揚で優しくて、…誰一人特別には扱ってこなかったセデュイールの、愛する人。

 私はもぞもぞと胸の底で黒いものが蠢くのを感じる。押さえつけてきた恋慕が、セデュイールへの思いが、純粋で美しかったはずの想いが、どろどろと暗い沼に沈む。

 私のセデュイールが、あの美しかった彼が、汚泥に塗れて溺れているのを私は見下ろす。

 崇高な理想は地に落ちて汚れた。落ちた純白の食器はばらばらに壊れて、鋭い破片をこの手に突き刺す。

 花は枯れ萎れ泉は尽きた。残されたのは渇望だけだ。飢えた乾き、彼を求める心、彼への恋の残骸、ばらばらになった破片に彼が映る。私に微笑んでくれたただひとりのひと、私にその手を差し伸べてくれた、唯一のひと――

「ナタリー、そのことは、絶対に話しては駄目ですよ。特に他の従兄弟たちには…」

「勿論よ。お姉様だから話したのだもの。お兄様の名誉にも、関わることだし」

 カタリとカップをソーサーに置いて、ナタリーは私を見上げる。黄金色の瞳は彼女の兄とよく似ている。強い意志を秘めた、凛とした表情も。夕暮れに輝くように美しい、その相貌も。

「お姉様、どうして笑っているの? 変ね、いつもと違うみたい…」

「どうしてかしら。…きっとセデュイールのことを考えているせいね。あのひとの今の思い人は、誰なのかしら…」

「知らないわ。アメリカ女か、メイドのどっちかじゃない? …どっちでも最悪。もうみんな最低。お兄様の周りから、女も男も、みんないなくなればいいのに!」

 ナタリーは叫んで天を仰ぐ。バタバタと羽音を慣らして、塒に帰る数羽の鳩がその頭上を飛び去って行った。



 レヴォネ家の話し合いは、穏便に幕を下ろしたらしい。セデュイールは、ハリウッド女優との付き合いも、メイドへの恋慕も、すべて否定したと従兄弟たちが話しているのを聞いた。個人としての喜びよりも家としての対面や名誉を重んじる面々はそれで納得したようだ。そして今晩は、彼も交えてのパーティーが開かれる。

 お祖父様の実弟であるオーギュスト様の発案だ。レヴォネ家の人間は全員、出席が義務付けられている。これを終えれば、晴れてセデュイールは解放される。逆に言えば、この会合を恙なく終えられなければ、彼は親族から侮られたままだろう。

 今晩は、セデュイールに新しい結婚相手をあてがう心積もりもあるのだと思う。偶然か予め謀られたことなのか、リヨンに滞在していた高級官僚の娘や、政治家の娘などが多数参加している。

 胸元のダイヤモンドを煌めかせた令嬢が華やかな笑い声を挙げてタフタの衣擦れの音をさせながらセデュイールに群がり、彼は仮面のような笑顔を貼り付けて彼女らに対する。

 私は部屋の隅に置かれた椅子に腰かけて、困ったように笑うセデュイールの横顔を見ていた。

 楽団がモーツァルトを奏でている。オスカー様は奥様と腕を組んで広間の中央におり、客人である高級官僚に挨拶している。手を取って踊るのは従弟のミシェルと、その奥様だ。背の高い奥様がエメラルドのイヤリングを輝かせてミシェルに何か囁き、くすくすと二人で笑いあう。

 シャンパングラスの載った盆を片手にした下男が舞うように人々の間を縫い、マントルピースの上に置かれた螺鈿細工の時計が神秘的な光を放つ。

 使用人にも無視されている私はひとりでグラスを傾ける。先ほどまでナタリーが傍にいてくれたのだが、輝くように美しい彼女を社交界の若者たちが放っておくわけもなく、芸術家を称する男が彼女の手をとって踊りに連れだして行った。

 白の、裾のふわりと広がったドレスを着たナタリーは溌剌として自身から発光しているかのようだ。レヴォネ家の人間は皆美しい。神様が心を籠めて、大切に創ったかのように。

「失礼、」

 談笑していた紳士がどんと私にぶつかり、手にしたグラスからシャンパンが零れてドレスを濡らす。生成りのロングドレスは母から譲られたものだ。透かし彫りのレースで袖口が覆われていて、少し時代遅れだけれど大切にしていたものだ。

 紳士は醜い私を一瞥した後、何もなかったかのように談笑しながら向こうへ行ってしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。