第十話
シャワーを浴びていたら、マチウが僕を訪ねてきた。
「ムッシュ・リーヴェ、昨夜はどちらに行かれていたので!? リア嬢のところではお会いしませんでしたが…」
マチウは一晩中ぐったりしたリアに付き添って介抱していたらしい。リアが眠りに就いてから屋敷中を探し回ったけど、僕を見つけられなかったと語った。
「お陰様で私は徹夜でございますよ…まあムッシュ・リーヴェがご無事ならそれでよいのですが…」
浴槽のカーテン越しにマチウに言われて僕は苦笑する。
お湯に浸かりすぎて身体はすっかりふやけていて、ぶよぶよした皮膚を擦りながら僕は口を開く。
「帰ったら、性病の検査するから。手配してくれる?」
「せ、性病? ムッシュ・リーヴェ、それは…」
「ちょーっと羽目を外しすぎちゃったんだよねえ。セデュがいないからって調子に乗っちゃったなア。セデュには内緒でたのむよ」
「……」
マチウはどこか釈然としないふうに、ハア、とかハイ、とかもごもご言って、浴室を出て行った。
僕はまたぱしゃんと顔を洗う。洗っても洗っても精液のにおいが落ちないみたいに感じて、僕はぶくぶくと湯船に沈んだ。
ぱちりと瞼を開く。痺れていた両腕にはもはや感覚がない。死骸のように横たわっていた寝台から室内に視線を投げる。ギシリと寝台を軋ませ「彼女」が私に近づく。
「起きたのね、愛しいひと。私の恋人、私の夫、セディー、私の可愛い従兄弟さん」
その指先が躊躇いなく私に触れる。狂気を含んだその眼差しを見返して、私は乾いた唇を開いた。
「君の望みはなんだ。なぜこんなことを…」
「無粋な言葉はよして。私は貴方が愛しいの、それだけなのよ…」
「彼女」の指は私の腕をなぞり、両手に嵌められた手錠に触れる。それぞれ寝台の桟に繋がれた手錠を愛おし気に撫でて、「彼女」は私の上に跨った。
13歳の私は泣いている。年下の従弟たちに眼鏡を隠されたためだ。幼い頃からひどい近視の私は眼鏡がないとろくに物が見えない。従兄弟たちはそんな私を面白がって、度々こういった悪戯をやらかした。私が、レヴォネ家に相応しくない醜い容姿であることも、彼らの悪ふざけに拍車をかけていた。
母がレヴォネ家に嫁いだのは父が死んでひと月も経たないうちだった。
パリ・オペラ座のプリマドンナだった母は美しい社交界の花形で、演出家の父と結ばれてからも浮いた噂の絶えない人だった。おそらくレヴォネ氏とも、父の存命中から関係があったのだろう。
父が卒中で倒れてからは母の男漁りは激しくなり、父の見舞いはおろか、家に戻ってくることも稀になっていた。そして父が死ぬとまるで待ちかねていたかのように由緒正しい名門のレヴォネ家の後妻――3人目の妻――として迎え入れられた。
当時はまだレヴォネ家の当主としてお祖父様が存命で、セデュイールの父、オスカー様は次期当主として控えていた。私の新しい義父はオスカー様の2つ下の弟だ。次男坊ながら政財界で成功し広大な領地と屋敷を持ち、屋敷の中では専制君主のように振舞う男。
そして父譲りの醜い容姿の私は母にも、新しい義父にも、従兄弟たちにも見下され、無視されていた。
この家で私に優しくしてくれたのはオスカー様と、その子供たち――セデュイールと、この3年後に生まれてくるナタリーの兄妹――だけであったのだ。
「泣かないで、ミレーユ、眼鏡を取り返してきたよ。きつく叱っておいたから、もう大丈夫だ」
屈みこんだセデュイールが私に囁く。バラ色の頬、艶やかな黒髪に、きらきら輝く黄金色のふたつの瞳。12歳のセデュイールは、ヴェネツィア派の巨匠が描く天使のように瑞々しく、麗しい美少年だった。私は初めて会ったときから1歳年下の彼に憧れ、胸をときめかせていたのだ。たとえ彼が私を特別に見てくれることがなかったとしてもかまわない。醜い私には、そんなことは望むべくもないことだ。ただ夜空に輝く星のように煌めいていてほしい。優しくて、誠実で、生真面目で、曲がったことが許せない、正義感の強い少年だった貴方のままで、いてくれればよかったのだ。
セデュイールの結婚が決まった日の晩は枕が湿るほど泣いたけれど、式の日には笑顔で彼を祝福することができた。彼が大切な何かを失ってしまったばかりのような、寂しそうな目をしていたからかもしれない。
セデュイールのことをずっと見つめてきたからわかる。彼はこの結婚に、望みを抱いてはいないのだ。彼らの関係は、いずれ破綻するだろう。それは予感だった。私の願望じゃない。セデュイールは耐えられなくなるに決まっている。彼の妻となる人は美しく、聡明な女性だったけれど、寄り添った二人は絵のように見えていたけれど。フランス中が、彼の結婚を祝っていたけれど。
そして予感は的中し、私はひとりほくそ笑んだのだ。今や世界に名の知られた映画俳優となったセデュイールの、破局の記事の載った新聞を手にして。




