第九話
開かれた暗闇に僕は押し込まれ、背後で扉が閉まる。
呆然としてからドアノブに縋りつくけれど、扉には鍵が掛けられていてびくともしない。
「ちょっと、何? 開けてよ、リア…」
がちゃがちゃドアノブを必死で回そうとしながら、僕はどんどん扉を叩く。リアからの応答はない。廊下には沈黙が落ちていて、広間の喧騒も届かない。
部屋の中は闇だ。窓にはカーテンが引かれ、灯りはすべて消えている。闇に目が慣れてくると、椅子だのテーブルだのの輪郭がぼんやり浮かび上がる。小さな客間みたいだ。隣の部屋につづくドアがゆっくり開かれ、僕に歩み寄る人影がある。
ひゅっと息を吸い込む。がっちりした体格のその影はバスローブを羽織っている。身長は僕より少し高い。ポマードとスパイシーな香水の匂い、それから煙草の匂いが近づく。
僕は跳ねるように飛び退き、駆ける。カーテンを掻き分け窓に取り付きガタガタと揺らし、また別の壁際に逃げる。手探りで走りながら隣の部屋につづく扉を開けると、むせ返るような花の香りに包まれる。
その部屋にカーテンは引かれておらず、星明りが縦長の窓から射している。真ん中にどでかい天蓋付きのベッドを据えた、そこは寝室だった。ベッドの周りには花びらが散らされている。ベッドサイドに置かれた香炉から絶え間なく艶めかしい香りが漂ってくる。
僕は氷塊に貫かれたみたいになって、ぞっとして固まる。僕の抵抗を嘲笑うみたいに近づいた人影の手が僕の背に伸びて、しゅるりとリボンを外す。ばっと振り返ると、思いのほか近くに、にやけた笑みを浮かべる顔があった。
壮年のウイリアム・テイラー氏の、嗜虐心を露にしたような黒い瞳があった。
力強い手が僕を抱き寄せ唇を押し付けてくる。僕は藻掻いて彼の手を引っ掻く。ばたばたと暴れる僕の下半身にテイラー氏のそれが押し付けられ、その硬さにぞっとまた鳥肌が立つ。
「いやだ、やめて、やだッ…」
「君は以前より美しくなったね。あの頃も可愛らしかったけれど…今は蝶のように艶やかだ」
「離して、や、っ…」
「この10年の間に男を知ったのかな? 男の精を吸い取ることに慣れたような身体つきだ。蠱惑的で、誘惑的だ」
「……」
荒々しい掌が僕の後ろに回されて尻を揉みしだく。そのままの勢いでずるりとスボンを引き摺り下ろされ、僕は男の顎に噛みついた。
一瞬の隙を逃さずに僕は男の腕から逃れ駆けだそうとして、背に垂れたリボンの端を掴まれぐいと引き寄せられる。そのままチョーカーを引っ張られ、ぎゅうと首が絞まってはくはくと呼吸する僕を抱き寄せた男は服に掌を差し込み撫でまわす。苦しさと気持ちの悪さに涙が出てくる。泣いてる場合じゃないって思うのに、止められない。がくがくと足が震える。前を掴まれて立っていられなくなって屈みこむ僕に男が覆いかぶさる。ハアハアと荒い息が首筋にかかる。恐怖と困惑と怯えに身体が思うように動かせなくなって、それでも最後の抵抗にと振り向いて男の鼻に噛みつこうとして、前髪を掴まれた僕はがつんと床に額をぶつけられる。目の前に火花が散る。つづけて、二度、三度、痛みというより熱さがじわじわ額を焼いて、僕は意識を失った。
意識がふわりと浮上する。窓辺からピチュピチュとヒバリの鳴く声が聞こえる。薄青い夜明けだ。僕はひとりでベッドに横になっている。
体中がぎしぎし痛む。額に手を遣るとじんと痺れる。たんこぶとかできてるかもしれない。つづけて顔と髪に手を遣って、乾いた何かがべったりとへばり付いているのに気づく。
乾燥した精液だ。部屋に充満するにおいから、大体想像はついていた。
身体が痛むのも、きっと「そういうこと」なんだろうと思う。
ぱちぱちと瞬いて天蓋の装飾を見上げる。ビロードの布地の端に房がいくつも垂れさがっている。絵画でよく見る、トルコの王族の部屋みたいだ。
ウイリアム・テイラーは、僕のことを忘れていなかった。もしかしたらずっとこの機会を狙っていて、…オービットさんが僕を呼び寄せたのも、偶然じゃなかったのかもしれない。最初からリアもグルで、ただ僕を嵌めるためだけに、僕に近づいたのだろう。
参ったな。お手上げだ。丹念に外堀を埋められて、こんなのさすがに、避けようがない。
あのときこうしてればよかったとか、考えだしても始まらない。起こってしまったことはもう取り返しがつかない。
…帰ったら性病の検査をしよう。ひとまず。もしかしたら僕が意識を失っている間に相手をさせられたのは、一人二人じゃなかったかもだし。
もし性病に罹っていたら、もうセデュとは暮らせないなア。あいつに伝染すわけにはいかないし。
僕がレイプされたって知ったら、セデュはきっと傷つくだろうな。自分のことみたいにショックを受けて、泣いちゃうかもしれない。かわいそうだな。あいつには黙っていよう、うん。ただ僕が、心変わりしたってことにして…テイラーさんに責任取ってもらうってのもありかな。僕はろくでなしだから、レイプされた相手とだってへーきでまた関係を持てる。全然大丈夫だ。もともと汚れ切った身体だからな。女の子と、…主にグロリアと、口に出せないようなプレイも一杯してきたしな。大丈夫大丈夫、いつものことだ。セデュに操を立てるなんて、初めから無理だったんだ。最初からわかってたことだ。いつかは訪れると思ってた破綻が、思いがけない形で襲ってきたってだけのこと。
セデュだって、僕と一緒にいないほうが、幸せになれるってのは、自明のことなわけだし。……。
はあ、なんだか考えてるだけで疲れたな。部屋に帰って、シャワーを浴びよう。それでこの気持ち悪いべたべたしたものを、全部洗い流そう。
むくりと起き上がると引き裂かれたシャツが身体に引っかかっているのが目に入る。うわあすっげえ。ボタンも飛んでるよ。ボロボロだ。追剥に遭ったみたい。下半身は何も身に着けていない。きょろきょろ探すと。10メートルくらい向こうに、くしゃくしゃに脱がされたズボンと下着が落ちていた。その傍の絨毯には血が滲んでいる。無理矢理突っ込まれて出血したのかもしれない。ひでえなあ、やるならやるで、もうちょっと優しくしてくれてもいいのに。
裸足の脚をベッドから下ろす。身体の軸がぶれたみたいにフラフラする。一歩踏み出すとこつんと足が何かにあたる。肌色のものが落ちている。ぼんやりと見下ろして、それがぬるぬるの粘液に塗れた男性器だと気づく。…オモチャも使ったのか。まあいいや。もうどうでもいい。
下着とズボンに足を入れて一気にずり上げて、びっこを引きながら僕は廊下に出る。さすがにもう鍵はかかっていない。
中庭に面した窓から朝日が差し込む。中庭の噴水の水は止まっていて、水盤にきらきら水面が揺れている。水辺にヒバリが降り立ち囀る。心地よい朝だ。ぐちゃぐちゃの僕からしたら、窓枠が額縁の絵画みたいに見える。
部屋に戻るまで誰にも会わなかったのは、不幸中の幸いだった。




