七十六話 逃げれば
「私とここで––––えっち、しよ?」
ふんわりと微笑んで、彼女は僕の首に手を回した。
「…………な、なにを」
「ねえ、だめ?」
「そ、そりゃダメに決まって」
「なんで?女の子が誘ってるんだよ?」
甘い吐息を耳に吹きかけられ、囁かれる。
「ダメな理由なんてどこにもないよね?」
「い、いや、普通に考えてこんなところじゃ」
「ここじゃなかったらいいんだ?」
相模川さんはポケットからスマホを取り出し、その画面を僕に見せた。
「ここ、どう?」
映っていたのは、ラブホテルのサイト。
「いい雰囲気じゃない?」
「そ、そういう問題じゃないでしょ」
「なら、なんで?」
「だ」
「だって––––友達だから、とでも続くの?それとも、まどかがいるから?小鳥遊さんがいるから?」
相模川さんは、僕の言葉を奪うように被せた。
「ねえ、答えて?」
でも、答えられなかった。自分でも不思議なくらい、言葉に詰まった。どれだけ考えても、頭の中が整理できなかった。言葉にならなかった。ダメな理由があるのか?言葉にできないならそれはなんなんだ?と。
「ふぅん、答えられないんだ。じゃ、しちゃおうよ」
彼女は立ち上がり、なんの躊躇いも無くシャツを脱ごうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ‼︎」
「なあに?いいじゃん、ダメな理由がないならそれは良いってことだよ?」
「ち、違う…………ダメな理由がないなら良いだなんて、そんなわけ」
「なら、なんで良くないの?」
「––––––––ッ」
その質問に、僕はまたも返せなかった。口から出たのは、ただ一言。
「……わからない」
なにがどうなってるのかわからない。なにをどうしたいのかもわからない。わからないものが何なのかすらも。
「…………そう」
一言呟いた相模川さんはシャツをつかんでいた手を離し、ボタンを閉めてパンパンと服を払った。
「そうやって、自分の心が分からなくなったら、怖くなったら、逃げるんですね、一ノ瀬君は」
そう言った彼女の目には、翔太とは違って怒りがこもっていて。その全てが、僕に注がれていて。
「まあ…………逃げたいなら逃げれば良いんじゃないですか?周りの人のことを考えずに」
小さくため息を吐き、彼女は再び椅子に座った。
「…………どういう意味?」
僕は藁にすがりつくような気持ちで、短く聞いた。自分の"わからない"を知りたかったから。
「さあ?どういう意味でしょう?少なくとも自分の力で知ろうとしない限りはあなたは逃げ続けているだけでしょうけど」
観覧車の終わりが近づいてきた。地面が近くなり、心も気分も落ちていく。夕陽に照らされる景色は国語なんかで学ぶ印象とは違って、ひどく憎かった。




