第九話 負傷者を救う順番
第九話 負傷者を救う順番
人の叫び声が聞こえたのは、昼を少し過ぎたころだった。
続いて、走る足音が土を蹴り、何か重いものを引きずる音がした。治療に使う布を畳んでいた景継は、顔を上げた。
障子の向こうで、女が息を切らしている。
「先生、人が倒れております」
「どこだ」
「村外れの道です。荷を運んでいた者が、争いに巻き込まれたとかで」
「何人いる」
「二人は見ました。もう一人、後ろにいたようですが……」
女の言葉が途切れた。恐怖と困惑が、その顔に浮かんでいた。
「案内してくれ」
景継は布と水、傷を覆うための清潔な布をまとめた。使える薬も道具も限られている。それでも、何も持たずに駆けつけるわけにはいかなかった。
部屋を出ようとしたとき、背後から声がした。
「私も行く」
綾だった。寝床から起き上がり、壁に手を添えている。昨日より顔色はよく見えたが、長く動ける状態ではない。
「駄目だ」
「記録ならできる。何人来たか、どこを傷めていたか、何をしたか。戻ったら私が書く」
景継は一瞬、言葉を止めた。
現場では、負傷者の状態によっては一刻を争う。綾を連れていけば、その分だけ手が取られる。
「現場がどうなっているか分からん。ここで休んでいろ」
「……分かった。戻ったら話を聞かせてくれ」
景継はうなずき、女のあとに続いた。
*
村外れの道には、人が集まり始めていた。
畑と雑木林の間を抜ける細い道。その脇に、男が一人、仰向けに倒れている。脇腹を押さえた手の間から血が滲み、息をするたび顔が歪んだ。
少し離れたところには、額を切った若い男が座り込んでいた。意識はあるようだが、何かを言おうとしては唇を震わせている。
もう一人は、道端の草むらに半ば身を伏せるようにして横たわっていた。年配の男だった。
景継が駆け寄ると、周囲の者たちは一斉に場所を空けた。
「皆、下がってくれ。近くに集まりすぎるな」
人々がおずおずと退く。
景継は、まず脇腹を押さえている男のそばに膝をついた。
「聞こえるか。名は」
「……宗吉」
「宗吉、目を開けていろ。どこで傷を負った」
「道で……荷を……」
言葉が途切れた。
布を押さえている手の周囲は濡れている。出血は少なくない。傷の深さや、腹の内側まで損傷しているかどうかは、外から見ただけでは分からなかった。
「清潔な布を持ってきてくれ。水も少し。飲ませるためじゃない。手と傷の周囲を清めるためだ」
景継は宗吉の手に自分の手を重ねた。
「俺が代わるまで、そこを押さえていろ。力を緩めるな」
宗吉は苦しげに息を吐いた。
景継は布を当て、傷を圧迫した。むやみに傷口を探れば、かえって出血を増やしかねない。まずは止血を優先するしかなかった。
「誰か、頭を支えてくれ。身体はむやみに動かすな」
近くの男が、恐る恐る近づいた。
「これでよいのでしょうか」
「そうだ。声をかけ続けてくれ。返事の様子が変わったら、すぐに知らせろ」
景継は、次に額を切った若者へ目を向けた。
「名は」
「……新吉です」
「頭を打ったか」
「揉み合いになって、誰かに押されて石に……」
「吐き気はあるか。目が回るか」
「少し……」
新吉は頭を打った可能性がある。意識があるからといって、軽傷と決めつけることはできなかった。
「新吉、そこに横になれ。急に立つな。誰か、そばについていてくれ。吐いたり、呼びかけに答えなくなったりしたら、すぐに知らせろ」
新吉は弱くうなずいた。
景継は三人目の男へ向かった。
年配の男は、草むらに横たわったまま目を閉じている。
「聞こえるか。聞こえているなら、手を動かしてくれ」
男の指が、わずかに動いた。
景継は呼吸を確かめた。浅いが、途切れてはいない。顔には擦り傷があり、額にも腫れが見える。どこを打ったのかは分からなかった。
「この人は、いつからここに」
周囲に尋ねると、荷を運んでいた男が答えた。
「騒ぎが起きたときには、もう倒れておりました。誰かに殴られたのか、それとも転んだのか……」
「見ていないのだな」
「はい」
景継はうなずき、もう一度、男に呼びかけた。
「聞こえるか。目を開けられるか」
まぶたがわずかに動いた。それだけでは、何が起きているのか判断できない。
三人。一人は出血が続いている。一人は頭を打った可能性がある。もう一人は、呼吸こそあるものの、意識がはっきりしない。
自分一人で、すべてを同時に診ることはできなかった。
*
「先生、誰を先に診ればよいのでしょう」
誰かが尋ねた。
景継は顔を上げた。
最初に運ばれてきた者か。大きな声で苦しみを訴える者か。年長者か、若い者か。
どれも、治療の順番を決める理由にはならない。
「まず、宗吉の出血を止める。そこの者、手を離すな」
景継は、脇腹を押さえる男を指した。
「新吉は横になったまま、意識と吐き気を見てくれ。頭を打った可能性がある。急に立たせるな。吐いたら身体を横に向けて、すぐに知らせろ」
それから、三人目の男のそばにいる者へ向き直った。
「この人は、呼吸を見ていてくれ。胸が動いているか、息が止まっていないか。呼びかけに反応するか。変わったことがあれば、すぐに声を上げろ」
「ですが、先生。誰か一人でも、ここに残っていればよいのでしょうか」
「いや。皆、見ていてほしい。勝手に身体を揺すったり、水を飲ませたりするな」
人々は緊張した顔でうなずいた。
景継は宗吉の傷へ意識を戻した。
布を当て、圧迫を続ける。血の滲み方を見ながら、必要以上に布を剥がさないようにした。
宗吉は歯を食いしばっていた。
「痛むか」
「……痛みます」
「そうだろうな。だが、今はここを押さえていろ。苦しくなったら言え」
「俺は……助かるのでしょうか」
景継は、一瞬だけ言葉に詰まった。
助かると言いたくなる。だが、確かな答えを持たないまま、希望を持たせるためだけに口にするわけにはいかなかった。
「今は血を止めることに集中する。お前も、目を閉じるな。俺の声が聞こえているなら、返事をしてくれ」
「……はい」
「よし。まだ話せる。息を整えろ」
景継は声を途切れさせないようにした。宗吉の意識を確かめるためでもあったが、苦痛と恐怖の中にいる男を、一人きりにしないためでもあった。
やがて、布に滲む血の勢いがわずかに弱まった。
景継は安心せず、圧迫を続けながら宗吉の呼吸と顔色を確かめた。返事はまだある。だが、顔色は悪いままだった。
「このまま押さえている。誰か、替われる者はいるか」
近くにいた男が手を挙げた。
「俺がやります」
「手を洗ってから来てくれ。布の上から、同じ場所を押さえるんだ。途中で勝手に離すな」
男は水で手を洗い、戻ってきた。
景継は手を添えながら、圧迫する位置を教えた。弱すぎれば出血が続く。位置がずれれば、十分な圧迫にならない。
「ここだ。俺が手を離しても、同じ場所を押さえていろ」
男は緊張した顔でうなずいた。
景継は、宗吉から少し離れた。
ようやく、一人分の手が空いた。
*
「先生、新吉が眠ってしまいました」
そばについていた男に呼ばれ、景継はすぐに近づいた。
「呼びかけてみろ」
「新吉、聞こえるか。おい」
新吉のまぶたが動いた。
「新吉、目を開けろ。気分はどうだ」
「……頭が痛い」
「吐き気は」
「まだ、少し」
頭痛と吐き気が続いている。頭の内部に損傷がないとは言い切れなかった。
「今は様子を見たい。呼びかけたら答えてくれ。頭を動かさず、楽な姿勢でいろ」
新吉は弱くうなずいた。
「俺は……何をしたんでしょう」
「何のことだ」
「喧嘩になったとき、荷を守ろうとして……その後が、よく分かりません」
「今は思い出そうとしなくていい。身体のことを先に確かめる」
「荷は……」
「荷のことは後で聞く。今はお前の様子を見ている」
新吉は何か言いかけたが、やがて口を閉じた。
景継は付き添いの男へ告げた。
「ここを離れないでくれ。呼びかけへの返事が弱くなる、何度も吐く、手足の動きがおかしくなる。そうした変化があれば、すぐに知らせろ」
「承知しました」
次に、三人目の男へ向かった。
呼吸は続いていた。呼びかけへの反応は乏しいが、先ほどよりわずかに目を開けた。
「聞こえるか。痛むところはあるか」
返事はない。
景継は胸の動きと呼吸を確かめ、頭や身体に目立った外傷がないかを見た。無理に起こさず、首や背中を大きく動かさないよう注意する。
倒れた理由は、まだ分からない。
転倒して頭を打ったのか。揉み合いの中で身体を強く打ったのか。争いとは別の原因があったのか。
今ある情報だけで、一つに決めることはできなかった。
「この人が倒れるところを見た者はいるか」
しばらく、誰も答えなかった。
やがて、荷を運んでいた男がためらいがちに口を開いた。
「揉み合いが始まる前から、少し足元がおぼつかないようには見えました。ですが、私は荷を押さえておりましたので、ずっと見ていたわけではありません」
「いつごろだ」
「争いが起きる少し前です」
「分かった。見たことだけ話してくれ。見ていないことまで決めつける必要はない」
男は何度もうなずいた。
景継は三人の状態をもう一度確かめた。
宗吉は出血が続いていたが、圧迫によって勢いが弱まっている。新吉は意識があり、頭部の損傷を疑う症状が残っている。三人目の男は、呼吸こそあるものの、意識の反応が乏しい。
一人を診ている間にも、ほかの者の状態は変わりうる。
*
しばらくして、村の女が水と布を持ってきた。
女は三人の負傷者を見て息を呑んだ。
「こんなに……」
「水はここへ。布は汚れていないものだけ分けておいてほしい」
女が指示に従っていると、道の向こうから男が走ってきた。
「先生、もう一人、怪我をしております」
「どこだ」
「少し離れたところです。歩いておりますが、腕を押さえております」
周囲がざわめいた。
景継は、宗吉の圧迫を続ける者へ目を向けた。
「手を離すな。変化があれば、すぐに呼べ」
それから、使いを頼んだ男に向き直った。
「その者を、ここまで連れてきてくれ。ただし、無理に歩かせるな。ふらつくなら支えてくれ」
男は駆け戻っていった。
新吉にも、三人目にも、それぞれ付き添いがいる。だが、頼まれた者たちは医療に慣れていない。何を危険と考え、どこまで自分で判断してよいのかも分からないだろう。
「宗吉は布を押さえ続ける。新吉は返事と吐き気、手足の動きを見る。三人目は呼吸と反応を見る。分からないことがあれば、勝手に決めず、俺を呼べ」
「はい」
「交代するなら、何を見ていたか、次の者に伝えるんだ」
景継は、一人ずつの顔を確かめた。
人に頼むというのは、ただ命じることではない。何をするのか、何をしてはいけないのか。異変が起きたとき、誰に知らせればよいのか。それが曖昧なままでは、手伝う者が増えても十分には活かせない。
やがて、四人目の男が連れられてきた。
男は左腕を押さえていた。着物の袖が裂け、手首のあたりが腫れている。歩くことはできるようだが、顔には苦痛が浮かんでいた。
「名は」
「源助です」
「どこで傷を負った」
「荷を取り合っているところで転びました。そのとき、腕を……」
景継は腕の状態を確かめた。
出血は少ない。手指は動く。だが、腫れがあり、痛みも強い。骨折や脱臼の可能性は否定できなかった。
「腕を無理に動かすな。ここに座っていろ。指が動くか、感覚がおかしくないか、確かめる。痛みが急に強くなったり、指が冷たくなったりしたら、すぐに言え」
「俺は、後でよいのでしょうか」
源助は、ほかの三人を見た。
「俺より、あちらを先に診るべきだ」
「今は、その判断でよい」
景継は答えた。
「お前の腕も診る。だが、まずは命に関わる危険がないか確かめなければならない。待っている間に様子が変わったら、すぐに知らせろ」
源助は唇を噛みながらうなずいた。
景継は四人のもとを順に回り、付き添いから報告を受けた。新吉の返事は続いている。甚助はまだ反応が乏しい。宗吉の圧迫は保たれていた。源助は腕を動かさずに待っている。
誰かを診ている間にも、別の誰かに変化が起きる。
景継はそのたび、手を止めて確かめなければならなかった。
*
日が傾くころ、現場の混乱は少しずつ収まり始めた。
宗吉の出血は、圧迫によっていくらか落ち着いていた。ただし、傷が深い可能性は残っている。景継は意識と呼吸を確かめながら、布を押さえ続けた。
「寒くはないか」
「……寒いです」
景継は布を頼み、身体を冷やさないようにした。血の滲みはまだ残っている。
新吉は頭痛と吐き気が続いていた。呼びかけには答えるが、まだ安心できない。
甚助は、時間をかけて、ようやく呼びかけに反応するようになった。
「……水を」
かすかな声が聞こえた。
景継は、すぐに水を差し出そうとはしなかった。意識が十分に戻っているか、飲み込める状態か、確かめる必要がある。
「名前を言えるか」
男は何度か唇を動かした。
「……甚助」
「甚助、聞こえているな。今は、まだ水を飲ませられるか分からん。もう少し様子を見させてくれ」
甚助は弱くうなずいた。
四人とも、助かると決まったわけではない。
宗吉の傷がどこまで深いのか分からず、新吉に頭の内部の損傷がないという保証もない。甚助が意識を取り戻しても、危険が去ったわけではなかった。源助の腕も、骨折していれば長く不自由が残るかもしれない。
ここでできることには限りがある。
それでも、目の前の人間を、運が悪かったというだけで放っておくことはできなかった。
「先生」
宗吉のそばにいた男が声をかけた。
「先ほど、こいつが目を閉じました。呼んだら返事はありましたが、今も時折、ぼんやりしております」
「分かった。教えてくれて助かる」
景継は宗吉のもとへ戻った。
呼びかけへの反応、呼吸、顔色を改めて確かめる。布の下には血が滲んでいる。だが、先ほどのように急速ではなかった。
「宗吉、聞こえるか」
「……はい」
「目を開けていろ。今、様子を見ている」
宗吉はかすかにうなずいた。
景継は手を止めなかった。
やがて、宗吉の呼吸が少し落ち着いた。
それでも、救えたとは思わなかった。危険が去ったかどうかは、これからの時間が教える。
*
治療所へ戻ったころには、空は赤く染まっていた。
景継の手には乾いた血がこびりつき、衣服には土がついている。
綾は寝床の上で待っていた。傍らには帳面と筆が置かれている。
「戻ったか」
「ああ」
「皆、どうなった」
「四人いた。処置はしたが、まだ安心できる者ばかりじゃない」
綾はゆっくりとうなずいた。
「誰を先に診た」
「出血が続いていた宗吉だ。その間、新吉の意識を見守る者を置き、甚助の呼吸を確かめる者を置いた。あとから来た源助は、命に関わる危険がないかを確かめたうえで待ってもらった」
「皆を同時に診ることは、できなかったんだな」
「できなかった。一人を診ている間に、ほかの者の様子が変わることもある。だから、付き添いを頼んだ」
綾は帳面を開いた。
「記録していいか」
「何を残すつもりだ」
「誰が、どんな状態で運ばれてきたか。どんな処置をしたか。その間、誰が様子を見ていたか。あとで何が起きたか」
「必要だ。ただし、今の話だけで全部を正確に書けるわけじゃない」
「分かってる。分からないことは、分からないと書く」
「よし。俺が覚えていることを話す。無理のない範囲で書いてくれ」
綾は筆を持った。
指先にはまだ力が戻っていない。筆の柄がわずかに揺れる。長く書けば、肩や腕にも負担がかかるだろう。
景継は彼女の様子を確かめながら、今日のことを話し始めた。
宗吉は脇腹に傷があり、出血が続いていた。圧迫による止血を行い、周囲の者に手を替わってもらった。
新吉は額を切り、頭を打った可能性があった。頭痛と吐き気があり、横になって様子を見た。
甚助は意識がはっきりせず、呼吸と呼びかけへの反応を見守った。倒れた原因は分からない。
源助は腕を傷め、腫れと痛みがあった。手指の動きを確かめ、無理に動かさないようにした。
綾は、聞いたことを少しずつ文字にした。
書き間違えるたびに、景継が読み返して直す場所を伝える。彼女は悔しそうに眉を寄せることもあったが、筆を投げ出さなかった。
しばらくして、綾は手を止めた。
「今日、私にできたことは何だった」
景継は帳面に目を落とした。
「今日、お前は俺の話を聞いて、記録を残した。何が起きたか、何をしたか、誰に何を頼んだか。次に同じことが起きたとき、今日の記録が手がかりになる」
「それだけで、何か変わるのか」
「それだけで誰かの命が救えるとは言えない。だが、今日足りなかったものを残しておけば、明日は少し早く動けるかもしれない」
綾は帳面を見つめた。
「私は、戦場で仲間を守ろうとした。けれど、あのとき何が起きたのか、今でも分からないことがある。誰がどこにいたのか。誰が何を見たのか。誰が何を命じたのか」
声が少しずつ低くなる。
「分からないまま、誰かが責められた。私も、誰かを責めたかもしれない」
景継は口を挟まなかった。
「もし、あのとき、誰かが見たことを残していたら。何が起きたのか、少しでも確かめられたなら……」
綾は言葉を切った。
景継は帳面の端を指で押さえた。
「記録があっても、すべてが分かるわけじゃない。見ていないことは書けないし、書かれたことが間違っている場合もある」
「分かってる」
「それでも、分からないことを、分かったことにしないためには役に立つ」
綾はゆっくりとうなずき、筆を置いた。
今日は、もう十分だった。
景継は帳面を受け取り、記録を確かめた。文字は歪み、ところどころに墨の滲みがある。それでも、四人の状態と処置、見守った者の役割が残されていた。
完璧な記録ではない。
だが、今日の出来事が、何もなかったことにはならない。
*
夜、治療所の外では風が強くなっていた。
景継は使った布や水を確かめ、物資の残りを帳面へ書き足した。負傷者が増えれば、食料も人手も足りなくなる。今日のようなことが、また起きるかもしれない。
そのたびに一人で何とかしようとすれば、いずれ限界が来る。
必要なのは医術だけではなかった。何を先にするかを決め、ほかの者へ役割を頼み、起きたことを残して次に備えること。それらも治療の一部だった。
景継は帳面を閉じた。
隣の部屋では、綾が眠っている。
彼女は今日、負傷者を直接診たわけではない。血を止めたわけでも、意識を失った者を目覚めさせたわけでもない。
ただ、景継の言葉を聞き、記録を残した。
それは、失った腕を取り戻すものではない。戦場での後悔を消すものでもない。
それでも、彼女がこの先、誰かのためにできることの一つにはなるだろう。
この村には、医者が一人しかいない。傷を負う者は一人ずつ来るとは限らず、道具も人手も十分ではない。どれほど注意しても、救えない命はある。
だからこそ、できることを積み重ねるしかなかった。
勝つためではない。負けた者を罰するためでもない。
ただ、倒れた人間を、倒れたという理由だけで見捨てないために。
景継は、明日のための布を一枚、別に分けた。
そして、帳面の最後に短く書き加えた。
――人手が足りぬ。
それは今日の課題であり、明日へ残す問いでもあった。
治療所の灯は、夜が深くなるまで消えなかった。




