第十話 最初の誓い
第十話 最初の誓い
夜明け前、雨が降り始めた。
屋根を打つ音は弱く、風もない。けれど、乾ききらない土へ水が染み込み、道は少しずつ重くなっていく。軒先から落ちる雫が、一定の間隔で石を叩いていた。
景継は、その音で目を覚ました。
眠った時間は短かった。
昨夜、帳面を閉じたあとも、四人の負傷者のことが頭から離れなかった。宗吉の脇腹の傷。新吉の頭痛と吐き気。甚助の曖昧な意識。源助の腫れた腕。
手当てをしたからといって、すぐに安心できる者はいなかった。
宗吉は、出血が弱まったあとも予断を許さない。傷の深さは分からず、腹の内側で何が起きているかも確かめられない。血が止まったように見えても、身体の中で出血が続いている可能性はあった。
新吉の頭の傷も、後から症状が現れるかもしれない。甚助に至っては、倒れた理由さえ分かっていなかった。
景継は起き上がり、手を洗った。水は冷たい。指をゆっくり開閉し、こわばりを確かめる。
医者の手も、身体の一部でしかない。
眠らなければ判断は鈍る。食べなければ力が続かない。焦れば、目の前の変化を見落とす。
かつての自分は、救急の現場で何度もそれを思い知らされた。
だが、ここでは休むことさえ難しい。
人手も物資も足りない。村の者たちは三日間の猶予を認めてくれたが、その先は決まっていなかった。
自分が倒れれば、治療所そのものが立ち行かなくなる。
景継は息を吐いた。
まず、昨日の負傷者を確かめる。
今日できることを考えるのは、それからだ。
*
宗吉の容体が変わったと知らせが来たのは、景継が道具を整えていたときだった。
「先生、宗吉が、しばらく返事をせぬようになりました」
「今はどうだ」
「呼べば返事をします。ですが、昨夜より顔色が悪いように思います」
景継は布を置いた。
「案内してくれ」
宗吉が休んでいる家は、治療所から少し離れていた。雨に濡れた道を急ぎながら、景継は男に尋ねた。
「息はどうだ。浅くなったか、速くなったか」
「そこまでは……ただ、呼んでも、すぐには答えぬことがありました」
「分かった。見たことだけでいい」
男は不安そうにうなずいた。
宗吉は薄い布を掛けられ、横たわっていた。顔色は悪く、唇も乾いている。景継が声をかけると、少し遅れて目を開いた。
「宗吉、聞こえるか」
「……先生」
「息苦しさはあるか。腹の痛みはどうだ」
「痛みます。さっきより、身体に力が入りませぬ」
景継は呼吸と意識を確かめ、脈に触れた。速い。手足は冷えている。
出血の影響が強まっているのかもしれない。
傷を覆った布には、血が滲んでいた。昨日ほどの勢いではない。だが、外に出る血が減ったからといって、危険が去ったとは限らなかった。
腹の中を確かめる術はない。
「水は飲んだか」
「少し……」
「いつだ」
「夜が明ける前に」
景継は傷の周囲を慎重に観察した。無用に押したり、身体を動かしたりはしない。本人の訴え、顔色、呼吸。それらを合わせても、分かることには限りがあった。
少なくとも、よくなっているとは言い難い。
「身体を起こすな。今は横になっていろ。寒ければ布を足す」
「……俺は、助かりますか」
昨日も聞かれた問いだった。
助かると言い切れば、嘘になるかもしれない。難しいと告げても、目の前の状態が変わるわけではない。
景継は宗吉の顔を見た。
「今の状態は、よいとは言えない。だから、注意して見ていく」
宗吉は目を閉じかけ、また開いた。
「ここでできる手当ては続ける。痛みや息苦しさが変わったら、すぐに言え」
「……分かりました」
景継は見守りを続ける男に、呼びかけへの返事、呼吸、顔色、身体の冷えを確かめるよう伝えた。異変があれば、すぐに知らせること。それだけを念押しして、治療所へ戻った。
雨はまだ降っていた。村の道には昨夜の足跡が残り、その縁を雨水が崩している。
救えたと思った者が、翌朝には危険な状態になる。
それでも、昨日の判断が間違っていたとは限らない。限られた情報の中でできる手当てを選んだことと、患者が必ず助かることは別だった。
その違いを忘れてはならない。
景継は濡れた袖を払い、治療所の戸を開けた。
*
綾は、すでに起きていた。
寝床の上に身を起こし、枕元の帳面を開いている。筆は手にしていなかった。昨日の記録を読み返しているらしい。
「早いな」
景継が言うと、綾は顔を上げた。
「目が覚めた」
「痛みはどうだ」
「昨夜よりは楽だ。肩を動かさなければ、耐えられる」
「耐えられる、では分からない。どれほど痛む」
綾は一度、視線を落とした。
「……昨夜より弱い。ただ、寝返りを打つと傷のあたりが引かれるように痛む」
「分かった。無理に動かすな」
景継は顔色と呼吸を確かめた。熱も見たが、回復したと決めつけられる状態ではない。
綾は彼の濡れた袖に目を向けた。
「宗吉殿のところへ行ったのか」
「ああ。夜明け前に、状態が変わったと知らせがあった」
「よくなってはいないのだな」
「まだ危険がある」
綾は帳面に目を落とした。
「昨日の記録と比べれば、今日の変化も分かるのか」
「ある程度はな。昨日の状態が残っていれば、何が変わったかを比べられる。ただ、記録があっても原因まで分かるとは限らない」
「そうか」
綾は、宗吉の頁を開いた。
「夜のことは、まだ書かれていないな」
「今、戻ったばかりだからな」
「呼びかけへの返事が遅れたことも、残しておくべきだろう」
「そうだな。ただし、ずっと意識がなかったと決めつけてはいけない。返事が遅れることがあった。それが確かなところだ」
綾はうなずいた。
「分かった」
景継は宗吉の記録に追記した。
夜明け前、呼びかけへの返事が遅れることがあった。顔色が悪く、身体に力が入らないと訴えた。引き続き観察が必要。
書き終えると、綾はその文字を見つめた。
「私は、戦場で、見たことと考えたことを分けていなかったのかもしれない」
景継は彼女を見た。
「どういうことだ」
「誰かが倒れた。誰かが叫んだ。誰かが矢を放った。そこまでは見たことだ。けれど、その者が何を考え、なぜそうしたのか。私は、自分が思ったとおりに決めつけていたのかもしれない」
綾は左手を膝に置いた。
「そのせいで、誰かを責めたこともあったのだろうな」
声には後悔が滲んでいた。
景継は、すぐには慰めなかった。戦場で何があったのか、今ここで聞き出す必要はない。綾が自分から語れるようになるまで、待つべきこともある。
「人は、見たことだけでは判断できないと、不安になる。だから、分からない部分を、自分の考えで埋めてしまう」
景継は言った。
「だが、後から確かめられることもあるし、確かめられないこともある。すべてを今すぐ決める必要はない」
綾は静かにうなずいた。
それから帳面を閉じた。
「今日は、ここまでにする」
「そうしよう」
景継は彼女を止めなかった。
もう少し続けられたかもしれない。だが、できることをすべてやる必要はない。自分の身体の限界を知り、無理をしないことも、これから覚えていくことだった。
綾は帳面を枕元へ戻した。
その動作は、昨日よりわずかに滑らかだった。
*
昼近く、弥兵衛が治療所を訪れた。
雨は弱まり、雲の切れ間から薄い光が差している。男は戸口で足を拭き、景継の前に座った。
「先生、昨日の負傷者のことを聞きました」
「ああ」
「宗吉という者は、まだ危ういとか」
「出血は弱まったが、状態が安定したとは言えない」
弥兵衛はしばらく黙っていた。
「村の者たちも心配しております。ですが、これ以上、人手を出すのは難しいという声もあります」
「分かっている」
「昨日は四人も運ばれてきたのでしょう。もし、また同じことがあれば……」
男は言葉を切った。
景継は弥兵衛の顔を見た。
「治療を続けるための人手が足りない。そういうことだな」
「はい」
弥兵衛は正直に答えた。
「皆、助けられるものなら助けたいと思っております。ですが、家には家の仕事がある。畑も、薪も、水も、誰かがやらねばなりません。人が一人、治療のために時間を使えば、その分、別の仕事が遅れます」
「そのとおりだ」
「先生は、誰かを助けるために、ほかの者の暮らしを犠牲にしているのではないか。そう考える者もおります」
景継はすぐには答えなかった。
避けて通れない問いだった。
目の前の患者を助けたいと思うことと、そのための負担を誰かに求めることは同じではない。治療を続けるには物資だけでなく、人の時間がいる。その時間は、どこからともなく生まれてくるものではなかった。
患者を救うことに熱中するあまり、村の暮らしを壊せば、治療所そのものが続かなくなる。
「俺は、村の者たちに何もかも差し出せと言うつもりはない」
景継は言った。
「だが、負傷者が運ばれてきたとき、何もせずに見捨てるとも言えない。できることと、できないことを確かめながら、続ける方法を考えたい」
「その方法が、見つかるのでしょうか」
「今は分からない」
景継は目を逸らさなかった。
「だが、何が足りないのかを確かめずに、無理だと決めることもできない」
弥兵衛は深く息を吐いた。
「先生は、強いお方ですな」
「そう見えるか」
「少なくとも、我らにはそう見えます。負傷者を前にしても手を止めず、誰を先に診るかを決め、皆に役目を与える。私なら、あれほど冷静ではいられぬでしょう」
景継は首を横に振った。
「冷静だったわけじゃない。間違えれば、誰かの命に関わる。迷いがなかったわけでもない」
「それでも、決めねばならなかった」
「そうだ。だから決めた」
弥兵衛は、しばらく景継を見ていた。
「ならば、我らも考えましょう。治療のために何ができるか、誰に何を頼めるか。ただし、すべてを引き受けることはできません」
「それでいい」
景継は答えた。
「できないことを、できると言わないでほしい。無理をして倒れられれば、結局、誰も助からなくなる」
弥兵衛の表情が、わずかに緩んだ。
「先生も、無理はなさらぬように」
「努力する」
男が帰ったあと、景継は帳面を開いた。
人手が足りない。
その一行を見つめる。
村の者たちは協力する意思を失ったわけではない。ただ、暮らしを守るため、出せる手には限りがある。その限りを無視して助けを求めれば、いつか協力は途切れる。
患者を救う方法だけでは足りない。支える者たちが倒れない方法も考えなければならなかった。
景継は新しい頁を開いた。
何を誰に頼めるか。
何を減らせるか。
どの仕事なら、短い時間で済ませられるか。
答えはまだない。
それでも、問いを残すことはできた。
*
午後、綾が景継に声をかけた。
「先生」
「どうした」
「昨日、記録を手伝いたいと言ったことを、覚えているか」
「ああ」
綾は寝床の上で背筋を伸ばした。
「これからも、ここで手伝いたい」
景継は彼女を見た。
綾は視線を逸らさなかった。
「腕を失う前のように、戦場へ出ることはできないだろう。剣を持てるかどうかも、まだ分からない。以前と同じように動けるとも思っていない」
言葉を選びながら、少しずつ話す。
「それでも、誰が何をしたかを記録することなら、できるかもしれない。負傷者の様子を覚えておくことも、水や布がどれほど使われたかを確かめることも」
綾は左手を見た。
「まだ、うまくできない。筆を持てばすぐに指が疲れるし、長く座っているのも難しい。何でもできるとは言わない」
「それでいい」
景継は静かに答えた。
綾は息を吸った。
「だが、何もできないと決められるのは、もう嫌だ」
その言葉は、はっきりしていた。
「誰かに役立たずだと言われることだけが、つらかったんじゃない。私自身が、自分には何も残っていないと決めてしまったことが、つらかった」
景継は黙って聞いていた。
「私は、ここで治療を受けている。皆に食べ物や水を運んでもらっている。そのことを忘れるつもりはない。けれど、ただ与えられるままに生きるのではなく、自分で選びたい」
綾は深く頭を下げた。
「私にできることを、探させてくれ」
景継は、すぐには返事をしなかった。
彼女の申し出を、単に働き手が増える話として受け取ることはできない。
綾はまだ治療を受けている。身体は弱く、傷の経過も見なければならない。働くことで回復が遅れたり、傷が悪化したりするなら本末転倒だった。
それでも、自分の意思でここに関わろうとしている。その気持ちは尊重しなければならない。
助ける側が、相手の望むことまで決めてしまえば、それもまた別の支配になる。
「分かった。ただし、いくつか約束してほしい」
綾は顔を上げた。
「一つ。身体がつらくなったら、すぐに言う。痛みを隠して続けない」
「分かった」
「二つ。できないことを、できると言わない。分からないことは、分からないと言う」
「分かった」
「三つ。俺の判断が間違っていると思ったら、遠慮なく言うこと。ただし、何が違うと思うのか、分かる範囲で伝えてほしい」
綾は少し驚いたようだった。
「私が、先生の判断に異を唱えてもいいのか」
「そのために記録を手伝ってもらうんだ。俺が見落としたことを、お前が見つけるかもしれない。逆もある。だから、互いに確かめる」
「……分かった」
「それから、もう一つ」
景継は言葉を選んだ。
「お前がここで何かをすることと、ここにいてよいかどうかは、別の話だ。働けなくなったからといって、すぐに出ていかなければならないわけじゃない。治療が必要なら治療を受ける。できることがあれば手伝う。それでいい」
綾の目が揺れた。
彼女は、すぐには返事をしなかった。
これまで、役に立つかどうかで人の態度が変わるのを見てきたのだろう。武芸ができる間は期待され、腕を失えば不要な存在として扱われた。
景継の言葉は、その価値観とは違っていた。
だが、言葉が違うからといって、すぐに信じられるわけではない。
「……私は、役に立てるようになりたい」
綾は、ようやく答えた。
「その気持ちは否定しない」
景継はうなずいた。
「ただ、役に立つために自分を壊す必要はない。何ができるかは、これから確かめていけばいい」
綾は長く息を吐いた。それから、頭を下げた。
「よろしく頼む」
「こちらこそ、頼む」
それは、主が家臣に命じる言葉ではなかった。医者が患者に一方的に役目を与える言葉でもない。
互いに、できることを確かめながら進むための約束だった。
*
夕刻、雨が上がった。
雲の切れ間から淡い光が差し、濡れた土の匂いが漂っていた。軒先から落ちる雫が、まだ石を打っている。
景継が治療所の戸口に立っていると、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
一頭ではない。
道を踏みしめる音が近づき、やがて村の入口に数人の武士が姿を現した。
先頭の男は、ぬかるみを気にする様子もなく、まっすぐ治療所へ向かってきた。
「北条景継殿は、ここにおられるか」
「私だが」
男は懐から書状を取り出した。
「小田原よりの命である。景継殿は、速やかに小田原へ出頭せよとのこと」
景継は書状を受け取った。封は北条家のものだった。
文面に細かな事情は書かれていない。指定の日までに小田原へ出向き、所定の者へ申し出るようにとある。
急な召し出しだった。
「いつまでに参ればよい」
「明後日の朝までに、小田原へ」
「分かった」
武士たちは、それ以上の説明をせずに立ち去った。
景継は手元の書状を見つめた。
小田原。北条家の本拠。
これまで彼は、目の前の傷を治すことに追われてきた。村の暮らしを見て、負傷者を診て、限られた物資の中で治療を続ける方法を考えてきた。
だが、戦国の世は、この小さな治療所だけで完結しているわけではない。
小田原では、北条家が周囲の大名との関係を見定めている。豊臣秀吉の勢力は、すでに無視できないほど大きくなっていた。関東の情勢も変わりつつある。
景継は、その先に何が待っているかを知っているつもりだった。
だが、知っていることと、変えられることは違う。
医者として人を救ったからといって、北条家の行く末が変わるわけではない。小田原城が攻められれば、村も治療所も、そこに暮らす人々も、戦の影響から逃れられない。
景継は書状を懐へしまった。
背後で、綾が声をかけた。
「小田原へ行くのか」
「ああ。明後日の朝までに出頭しろとのことだ」
「……戻ってこられるか」
景継は彼女を見た。
ただ予定を確かめているだけではないのだろう。景継が戻らなければ、治療が途切れる。その不安もあるはずだった。
「戻るつもりだ。だが、いつ戻れるかは分からない」
綾は静かにうなずいた。
「なら、私にできることを続けておく」
「無理はするな」
「分かっている」
綾は少し考えてから、言った。
「先生が戻ったとき、何も変わっていないのではなく、少しでも続けられるものが残っているようにしたい」
景継は彼女を見つめた。
治療所の仕事は、まだ始まったばかりだ。綾は長く働けるほど回復していない。帳面に書ける文字も限られている。村の者たちの協力も、三日間という期限の中にあった。
それでも綾は、自分がここに残る意味を、自分の言葉で考え始めていた。
「頼む。ただし、身体のことを忘れないでくれ」
「忘れない」
綾は答えた。
景継はうなずいた。
*
その夜、景継は荷を整えた。
小田原へ持っていくものは多くない。身分を示す書付、必要な衣服、わずかな金。治療道具をすべて持っていくわけにはいかなかった。
残すものと、持っていくものを分ける。
薬草や布を残すなら、誰が管理するのか。使い方が分からないものを置けば、かえって危険になる。帳面は持っていくべきか、それとも村に残したほうがよいのか。
景継は記録を見直した。
治療の経過。物資の残り。負傷者の状態。村の者たちへ頼んだこと。
その中には、綾が確かめた内容もあった。
景継は帳面を二つに分けることにした。
一つは小田原へ持っていくもの。もう一つは治療所に残すもの。
残す帳面には、使った物の数と注意すべきことを書き加えた。誰が何をしたかという記録も、分かる範囲で残す。
すべてを綾に任せるつもりはなかった。彼女はまだ患者であり、回復の途中にある。自分がいない間、彼女に責任を負わせることはできない。
それでも、何も残さずに出ていくわけにはいかなかった。
景継は帳面の最後に、短く書いた。
――分からぬことは、分からぬまま記す。
筆を置いたとき、隣の部屋から声がした。
「先生」
「起きていたのか」
「少し、話したいことがある」
景継は障子を開けた。
綾は寝床に座り、左手を膝に置いていた。
「明日から、先生がいない間、私は何をすればいい」
「まず身体を休めることだ。傷の様子を確かめ、熱が出たり、痛みが強くなったりしたら、村の者に知らせる。記録は無理のない範囲で続けてくれればいい」
「それだけでいいのか」
「それだけでいい」
景継は答えた。
「お前は俺の代わりじゃない。治療所を一人で守る必要もない。できることを続け、できないことは、できないと伝えてくれ」
綾は静かにうなずいた。
「分かった」
景継は、残す予定の帳面を彼女の前に置いた。
「これはここに置いていく。俺が戻るまで、無理のない範囲で見ておいてくれ。何かあれば、弥兵衛殿にも相談するといい」
「分かった」
「明日の朝、宗吉たちの様子をもう一度確かめる。お前が一人で判断する必要はない」
綾は帳面へ目を落とした。
「先生」
「何だ」
「私は、ここに残ってもいいのだろうか」
景継は問いを聞いた。
治療所に残ることは、ただ場所を与えられるという意味ではない。村の者たちとの関係もある。三日間の猶予が過ぎれば、改めて話し合わなければならない。綾が望んだからといって、すべてが思いどおりになるわけではなかった。
それでも、彼女が残るかどうかを、景継だけで決めてよいはずはない。
「ここに残りたいと思うのか」
「そうだ」
「なら、その意思を弥兵衛殿たちにも伝えよう。村が何を受け入れられるかは、話し合わなければならない。俺が勝手に決めることじゃない」
綾はうなずいた。
「分かった。私からも伝える」
「そうしてくれ」
景継は帳面を彼女の手元へ置いた。
「それから、俺が戻るまでに何かを成し遂げようと焦る必要はない。明日も生きていること。傷が悪くならず、少しでも身体が楽になっていること。それも大切だ」
綾は帳面の端を指で押さえた。
「……分かった」
その返事は小さかった。
だが、以前のように、自分の存在を詫びる響きはなかった。
*
翌朝、景継は村を発つことにした。
雨は止んでいたが、道はまだぬかるんでいる。空は曇り、遠くの山々は薄い霧に覆われていた。
支度を終えた景継が治療所の戸口で足を止めると、村の者たちが数人、見送りに出ていた。
弥兵衛は腕を組み、静かに頭を下げた。
「小田原で、よい話が聞けることを願っております」
「ありがとう。ここを頼む」
「できる範囲で、ですな」
「ああ。できる範囲で」
二人はうなずいた。
綾は戸口の内側に立っていた。
まだ長く歩くことはできない。傷も癒えきっていない。それでも、自分の足で立ち、景継を見送ろうとしていた。
「先生」
「何だ」
「戻るまで、記録を続ける」
「身体に無理のない範囲でな」
「分かっている」
綾は少しだけ背筋を伸ばした。
「それから、先生が戻ったとき、今日よりできることが一つ増えているようにする」
景継は彼女を見つめた。
それは、綾が自分自身に課した誓いだった。
誰かに役立てと言われたからではない。生きる価値を証明しろと迫られたからでもない。
自分が、そうしたいと思ったからだ。
「分かった。俺も小田原で、できることを探してくる」
綾はうなずいた。
景継は馬に乗り、手綱を取った。
村の道を進み始める。振り返ると、治療所の戸口に綾が立っていた。
彼女はいつまでも手を振るわけではなかった。ただそこに立ち、景継が遠ざかるのを見送っていた。
景継は前を向いた。
小田原には北条家の命令が待っている。その先には、豊臣秀吉の勢力が広がりつつある。歴史の大きな流れは、彼一人の力で止められるものではない。
だが、何もできないと決めるのも、まだ早い。
目の前の命を救うこと。
治療を続ける仕組みを残すこと。
誰かが倒れたとき、ただ運が悪かったと見捨てるのではなく、何ができるかを考えること。
その一つ一つが、戦が人々の暮らしを奪うとき、何かを残す力になるかもしれない。
景継は馬を進めた。
背後では、治療所の戸が静かに閉じられた。
綾の誓いは、まだ小さなものだった。
明日も生きること。
できることを、一つずつ増やすこと。
分からないことを、分からないまま残すこと。
それは、戦場で勝つための誓いではない。
敗れることが避けられないとしても、人まで失わないための、最初の誓いだった。




