第十一話 小田原への道
第十一話 小田原への道
馬の蹄が、乾いた土を踏みしめていた。
治療所を離れてから、景継はまだ一度も振り返っていなかった。振り返れば、戸口に立つ綾の姿が見える気がした。だが、もう見えない距離まで来ている。
小田原へは二日以内に参じよ。
命令は簡潔だった。理由も、そこで何を求められるのかも、詳しくは告げられていない。これまでの働きを見込まれたのか、それとも北条一門の若者として呼び戻されただけなのか。今の景継には判断できなかった。
ただ、命令に遅れれば、余計な疑いを招く。
馬を進めながら、景継は道の先に目を向けた。人の往来は絶えず、荷を背負った者や、荷車を引く者が行き交っている。小田原へ近づくにつれて道は賑わいを増すのだろう。城下には人が集まり、物が集まり、命令が集まる。
その中で、自分に何ができるのか。
考えを巡らせていたとき、前方から荒い声が聞こえた。
「誰か、手を貸してくれ!」
道の脇に荷車が止まっていた。片側の車輪が傾き、積まれた俵のいくつかが地面へ転がっている。そのそばで、男が一人、仰向けに倒れていた。仲間らしい男が膝をつき、肩を揺すっている。
「おい、しっかりしろ。聞こえるか」
倒れた男は返事をしなかった。
景継は手綱を引いた。
急がなければならない。小田原への到着が遅れれば、命令を軽んじたと受け取られるかもしれない。ここで足を止めれば、いつまでかかるか分からない。
それでも、倒れた男を見たまま通り過ぎることはできなかった。
「何があった」
馬を降りながら尋ねると、荷車のそばにいた男が振り返った。
「車輪が外れかけましてな。荷を下ろそうとしたところ、こいつが俵の下敷きになったんです。すぐに引っ張り出しましたが、息が苦しいと言ったきり、急に動かなくなって……」
景継は男のそばに膝をついた。
「名は」
「弥平といいます」
「弥平、聞こえるか」
肩に手を置き、呼びかける。返事はない。顔色は悪く、呼吸は浅かった。胸がわずかに上下しているが、息を吸うたびに苦しげな音が漏れる。
景継は口元に手を寄せ、呼吸を確かめた。次に首筋へ指を当て、脈の速さをみる。速い。しかも、弱い。
胸を強く打ったのか。肋骨が折れている可能性もある。肺を傷つけていれば、時間とともに呼吸が悪化することも考えられた。
この場で確かなことは限られている。見た目だけで傷の程度を決めつけるわけにはいかなかった。
「荷をどけたとき、どこを打ったか分かるか」
「胸のあたりです。俵がまともに乗りました」
景継は男の衣を緩め、胸の動きを見た。触れれば痛みがあるはずだが、意識がはっきりしない今、本人に確かめることも難しい。無理に起こしたり、歩かせたりするのは危険だった。
「このまま、動かすな。胸を強く縛るなよ」
「ですが、道の真ん中では……」
「端へ寄せるだけでいい。持ち上げて運ぶのは、今は待て」
景継は男の頭と肩が不自然に傾かないよう、周囲の者に支えさせた。呼吸を妨げない姿勢を探りながら、胸の動きと顔色を繰り返し確かめる。口の中に詰まったものがないかも見た。
弥平のまぶたがかすかに動いた。
「……水」
「今は飲むな。息が落ち着くまで待て」
意識が戻りかけているからといって、すぐに水を与えてよいとは限らない。むせれば、かえって危険になる。
景継は声をかけ続けた。弥平はときおり目を開けるものの、言葉を返す余裕はなかった。呼吸は依然として苦しそうで、胸の損傷がどこまで及んでいるかも分からない。
「先生、助かりますか」
仲間の男が、すがるような目を向けた。
景継はすぐには答えなかった。
「息はしている。だが、胸の中を傷めているかもしれない。今の手当てだけで助かるとは言えない」
「では、どうすれば」
「まず、ここで無理に動かさないことだ。呼吸がさらに苦しくなる、顔色が急に悪くなる、呼びかけても反応しなくなる。そうなったら、すぐに知らせろ。できるだけ早く、治療のできる者に診せる必要がある」
男は何度もうなずいたが、その目には不安が残っていた。
景継にも、ここでできることには限りがある。胸の中を直接確かめる道具も、呼吸を補助する設備もない。現代なら検査で見極められる傷も、この場では症状の変化から危険を推し量るしかなかった。
それでも、何もせずに立ち去るよりはできることがある。
景継は周囲の者に、弥平の呼吸と意識を見続けるよう伝えた。誰か一人が付き添い、変化があればすぐに声を上げる。容体が安定したと早合点して、一人にしてはならない。
やがて弥平が目を開いた。
「……荷は」
「荷の心配は後にしろ。今は息をすることだけ考えろ」
弥平は何か言い返そうとしたらしい。だが、言葉にはならず、苦しげに息を吐いた。
景継はその様子を見つめた。荷を失えば、弥平たちの仕事は成り立たなくなるのかもしれない。運ぶ物が届かなければ、待っている者も困るだろう。目の前の男が助かったとしても、すぐに働けるとは限らない。
命を救うことと、その後の暮らしを守ることは同じではなかった。
「この先に、医者のいる村はありますか」
景継が尋ねると、荷車の男は少し考えてから答えた。
「道を進めば、人の集まる宿場があります。ただ、必ず医者がいるかは……」
「ならば、まずそこを目指せ。運ぶときは揺らすな。途中で息が悪くなったら、無理に進まず、すぐに休ませろ」
男は深く頭を下げた。
「ご恩は忘れません」
「礼はいい。様子をよく見てくれ」
景継はもう一度、弥平の呼吸を確かめた。先ほどと大きく変わってはいない。だが、これで危険が去ったわけではなかった。
立ち上がると、膝についた土を払った。
馬のそばへ戻り、手綱を取る。小田原へ急ぐ必要は変わらない。ここでできることを終えた以上、次に必要なのは、弥平を見守る者たちが異変を見逃さないことだった。
「何か変わったら、すぐに助けを呼べ。本人が大丈夫だと言っても、息が苦しそうなら無理をさせるな」
念を押すと、男は今度は確かな声で答えた。
「分かりました」
景継は馬にまたがった。
道の先には、まだ長い距離が残っている。命令に従うことも、目の前の人間を見捨てないことも、どちらも簡単には捨てられなかった。
馬を進める。
しばらくして振り返ると、荷車の男が弥平のそばに腰を下ろし、呼吸を確かめているのが見えた。景継の言葉を忘れずにいるかぎり、あの場に残せたものはある。
だが、すべてを任せられるほどの確信はなかった。
小田原へ着けば、今度は自分の知らない事情が待っている。北条家の中で、何を求められるのか。医術を役立てる余地があるのか。それとも、若い一門の者として別の役目を負わされるのか。
答えは、まだない。
景継は前を向いた。
道の向こうに、往来する人々の姿が続いていた。荷を運ぶ者、家族を連れた者、足を引きずりながら歩く者。彼らはそれぞれの事情を抱えながら、同じ道を進んでいる。
その中の誰が、明日、助けを必要とするのかは分からない。
景継は手綱を握り直し、馬を進めた。




