第十二話 城内診療
第十二話 城内診療
小田原の城下へ入るころには、陽はすでに高くなっていた。
道の両側には商いの声が絶えず、荷を積んだ馬や人足が行き交っていた。城へ近づくにつれて往来は増え、道を急ぐ者と、荷を運び込む者とが入り交じる。人の多さに反して、どこか落ち着かない空気があった。
景継は馬の歩みを緩めた。
ここに集まる人々の多くは、北条の領国が明日も同じ姿で続くと信じているのだろう。だが、景継には、その先に何が待っているのかが分かっていた。小田原の城も、城下の賑わいも、翌年には大きく変わる。
それでも、今ここにいる人々の明日まで、歴史の一言で片づけるわけにはいかなかった。
城門をくぐると、景継は案内の者に馬を預けるよう命じられた。召喚の書付を確かめられ、名と身分を問われる。北条一門の者であることを告げると、相手の態度がわずかに改まった。
「こちらへ。お待ちの方がおられる」
案内されたのは、城内の一角にある部屋だった。人の出入りはあるものの、軍議の場というほど張り詰めてはいない。書付を運ぶ者、指示を待つ者、廊下を急ぐ者が、それぞれの務めを果たしていた。
景継が通された部屋には、年配の男が座っていた。身なりは整っているが、武具を身につけてはいない。そばには、薬種や布を扱っているらしい男が控えていた。
「北条景継殿か」
「はい」
「これまで、村の者たちを診ていたと聞いた。傷病人を扱う心得があるそうだな」
「心得があると申し上げられるほどではありません。目の前の者を診て、できることをしてきただけです」
男は景継の顔をしばらく眺めた。
「医師のように振る舞うつもりはない、ということか」
「名乗ることより、何ができるかが先かと存じます」
控えていた男が小さく眉を動かした。年配の男は咎めるでもなく、手元の書付を置いた。
「では、何ができるか見せてもらおう。城内にも、傷を負った者や病に伏せた者はいる。だが、誰を先に診せるかは、そなた一人で決められることではない」
「承知しております」
「よい。まずは、こちらの者について話を聞け」
控えの男が一歩進み出た。
「城内で働く者たちの傷病を診る場所はございます。ただ、薬種や布は限られますし、誰もが望むように手当てを受けられるわけではありません。景継殿には、しばらくそこを見てもらいたい」
自由に診療を任されたわけではない。どこまで手を出してよいか、誰の許しが必要かも、まだ分からなかった。
「まず、今診る必要のある者を見せていただけますか」
景継が答えると、男はうなずき、廊下へ案内した。
通された部屋には、数人の負傷者がいた。壁際に座る若い男は額に布を当て、別の男は片足を投げ出している。奥には、腕に包帯を巻いた武士が横になっていた。そばに控える者の身なりから、身分の高い人物らしいことがうかがえた。
「こちらの方は、昨日から熱がありましてな。腕の傷が痛むと申される」
案内の男は、奥の武士を指した。
「先にこちらを診てもらいたい。お立場もある方だ」
景継は返事をする前に、部屋の中を見渡した。
額に布を当てた若者は、布の端から血をにじませている。足を投げ出した男は顔をしかめているが、呼吸は落ち着いている。奥の武士は目を閉じ、浅い息を繰り返していた。
「その方を診ます。ただ、先にほかの者の様子も確かめさせてください」
「なぜだ。こちらの方を先にと申している」
「すぐに診るべき危険があるかどうか、確かめるためです。長くはかかりません」
男の表情が険しくなった。
「身分を知らぬわけではあるまい」
「存じております。しかし、身分だけでは、今どなたの命が危ういかは分かりません」
部屋の空気が静まった。
景継は、額に布を当てた若者の前に膝をついた。
「布を少し外す。頭を動かさずにいられるか」
「はい」
傷は額の生え際に近く、出血は続いていたが、意識ははっきりしている。景継は傷の周囲を確かめ、目の動きや受け答えを見た。頭を打った経緯を尋ねると、荷を運んでいた際に足を滑らせ、柱に額をぶつけたという。
「吐き気はあるか。頭がひどく痛むことは」
「少し痛みますが、吐き気はありません」
「分かった。しばらく一人にせず、様子を見てくれ。吐いたり、呼びかけへの返事がおかしくなったりしたら、すぐに知らせること」
次に足を投げ出した男を診た。足首をひねったらしく、腫れがある。立ち上がらせず、痛みのある場所を確かめ、無理に歩かないよう伝えた。
最後に、奥の武士のもとへ向かった。
男の腕には布が巻かれていた。布の端には古い血がこびりついている。傷そのものを見ようとすると、付き添いの者が不安げに身を乗り出した。
「傷口に触れてよいものか。昨日、手当ては済ませております」
「今の状態を確かめるだけです。押さえつけたり、無理に動かしたりはしません」
景継は、巻かれた布を慎重にほどいた。傷の周囲は腫れ、皮膚が赤くなっている。触れようとすると男の眉が寄った。熱もあるという。だが、これだけで原因を決めつけることはできなかった。
「いつ傷を負われましたか」
「三日前だ」
武士が目を開けて答えた。声には力があったが、額には汗が浮かんでいる。
「傷を負ったとき、深く刺さりましたか。それとも、刃がかすめた程度でしたか」
「脇差で斬られた。浅い傷だと聞いたがな」
景継は傷の周囲を見た。浅いか深いかは、最初の見立てだけでは決められない。熱がいつから出たのか、痛みが強くなっているのか。尋ねると、昨夜から腕が熱を持ち、今朝になって痛みが増したという。
「傷の周りが悪くなっている可能性があります。清潔な水と布を用意してください。傷を覆っているものを替え、これからの変化を確かめたい」
付き添いの者はすぐに動こうとしたが、案内の男が制した。
「待て。先に薬師へ相談するのが筋ではないか」
「薬種が必要かどうかも、傷の状態を確かめてから判断します。今のまま汚れた布を巻き続けるのは避けたいのです」
「そなたは、ここへ来たばかりだ。城内のやり方を知らぬ」
「存じません。ですから、まず確かめております」
景継は男から目を逸らさなかった。口論をしたいわけではない。だが、判断を先送りにしてよい状態とも思えなかった。
そのとき、横になっていた武士が身を起こそうとした。腕をかばうように動かした途端、顔が歪み、息を詰める。
「動かないでください」
景継が肩を支えると、男は荒い息を吐いた。額の汗が増えている。熱のためか、痛みのためか、それとも別の異変があるのか。まだ分からない。
「今は腕を休めてください。傷を診て、熱の変化も見ます。急に息苦しくなったり、意識がぼんやりしたりしたら、すぐ知らせてください」
男は不満げに口を結んだが、先ほどのように起き上がろうとはしなかった。
清潔な水と布が運ばれてきた。景継は手を洗い、傷の周囲を確かめながら、汚れた布を取り除いた。傷の奥を無理に探ることはしない。見える範囲を清め、再び清潔な布で覆う。薬種については、名と用途、保管の状態を確かめられるまでは安易に使わないことにした。
処置を終えても、武士の熱がすぐに下がるわけではない。景継は付き添いの者に、いつから熱が出たのか、痛みがどう変わったのかを覚えておくよう伝えた。可能なら時刻とともに記しておく。これからの変化を追わなければ、よくなったのか悪くなったのかさえ分からない。
付き添いの者は、今度は素直にうなずいた。
「この方は、しばらく横になっていてよろしいのですな」
「はい。無理に腕を使わせないでください。熱が続くようなら、改めて状態を確かめる必要があります」
景継が立ち上がると、案内の男が腕を組んだまま待っていた。
「結局、先に診たのは身分の低い者たちだったな」
「先に診たのは、すぐに確認できることを確認しただけです。奥の方を後回しにするつもりはありませんでした」
「だが、誰を先にするかは、こちらで決める」
「診療の場を誰が管理するかは、私が決めることではありません。ただ、命に関わる変化があれば、身分にかかわらず先に対応する必要があります」
男はすぐには答えなかった。
景継は、相手を言い負かしたいわけではなかった。ここで一度認められたところで、次の患者を自由に診られる保証はない。逆に、最初からすべてのやり方を否定すれば、必要な処置さえ止められるかもしれない。
「本日の処置と、これから注意して見るべき変化を記しておきます。次に診る者が変わっても、同じことを確かめられるようにしたいのです」
「記す、か」
男は、景継の言葉を測るように繰り返した。
「書付を残すことは構わぬ。ただし、誰がそれを扱うかは決めておく必要がある」
「それも、相談させてください」
男はようやく、わずかにうなずいた。
部屋を出る前、景継はもう一度、奥の武士の顔色を確かめた。息は先ほどより落ち着いていたが、熱が引いたわけではない。処置の成果を決めるには早すぎる。これからの経過を見守る必要があった。
廊下へ出ると、案内の男が歩きながら告げた。
「そなたに任せられる範囲は、これから決める。城内の者たちも、皆がそなたのやり方を受け入れるとは限らぬ」
「分かっております」
「それでも、今日のように診るつもりか」
景継は歩みを止めずに答えた。
「危険のある者を見落とさないようにします。それができなければ、何のために呼ばれたのか分かりません」
男はそれ以上、何も言わなかった。
窓の向こうには、城内を行き交う人々の姿が見えた。荷を運ぶ者も、書付を抱える者も、それぞれの務めを果たしている。ここでは一人の判断だけで物事は動かない。誰が命じ、誰が認め、誰が実際に手を動かすのか。その順序を知らなければ、治療を続けることさえ難しい。
景継は、先ほどの武士の熱を思い返した。あの傷がどう経過するかは、まだ分からない。今日の処置が十分だったとも言えない。だが、変化を見逃さず、必要なときに手を加えられるようにすることはできる。
そして、それを一人の記憶だけに頼らず、ほかの者にも伝えられる形にする必要があった。
城内で診療を続けるには、医術だけでは足りない。
景継は、まだ知らない決まりと人間関係が待つ廊下の先へ、静かに目を向けた。




