第八話 患者から協力者へ
第八話 患者から協力者へ
朝の光が、障子の破れ目から細く差し込んでいた。
景継は、綾の寝かされている部屋の前で足を止めた。
「入るぞ」
返事を待って障子を開けると、綾は壁際に身を起こしていた。背には畳んだ布が当てられ、膝には粗末な掛け布が掛かっている。失った腕の側をかばうように、肩を動かさずにいた。
枕元の椀には、水が半分ほど残っている。
「飲んだか」
「半分ほど」
「なら、最初からそう言えばいい」
景継は椀を取り上げ、残った水を捨てた。底には細かな塵が沈んでいた。水を汲んだ場所か、椀を置いた場所か。今のところ、原因は分からない。
新しい水を用意させてから、綾の顔色を確かめた。
昨夜より熱に浮かされた様子は薄い。呼びかけへの反応もはっきりしている。だが、唇の乾きは残り、顔色もよくない。
「昨夜は眠れたか」
「眠った」
「どれくらい」
「……少しは」
景継はため息をのみ込んだ。
綾は苦痛を軽く言う。痛いと言えば人の手を煩わせ、薬や布を余計に使わせる。そんな考えが身についているのだろう。
「痛みはどうだ」
「耐えられる」
「耐えられるかどうかじゃない。昨日より強いのか、弱いのか」
綾は視線を膝へ落とした。
「……昨日よりは弱い。ただ、身体を起こすと肩の奥が引かれるように痛む」
「それでいい。痛むなら、痛むと言え。ないことにしても傷は治らん」
「だが――」
「その先は要らん。今は身体のことだけ考えろ」
綾は顔を上げた。納得したというより、何を言われたのか測りかねているようだった。
身体のことだけ考えていろ。
彼女にとって、それは許されなかったことなのかもしれない。
武家に生まれた者には役目がある。戦う者は戦い、家を守る者は家を守る。武芸を身につけ、主家のために身を投じてきた綾も、その役目を果たすことを疑ったことはなかった。
では、それができなくなった者には、何が残るのか。
彼女は、その問いを口にしたことがなかった。尋ねるまでもなく、答えは決まっていると思っていたからだ。
*
朝餉は、米粒の少ない粥だった。
椀を運んできた女が、綾の顔を見てから景継をうかがった。
「これだけでよいのでしょうか」
「まずは食べられる量を確かめたい。無理に食べさせても仕方がない」
「ですが、食べなければ力が戻りませぬ」
「それはそうだ。食べられぬ量を出しても、米が減るだけだがな」
女は、ほっとしたように息を吐いた。
綾は椀を見つめていた。食べることさえ、誰かの負担になっている。その思いが顔に出ていたのだろう。景継は椀を手の届くところへ置き、左手を見た。
「自分で持てるか」
「持てる」
綾は即座に答えた。
左手を伸ばし、椀の縁に指をかける。両手で持つことに慣れた身体は、片手で重さを支えることを知らない。持ち上げようとした途端、手首が揺れ、粥が縁まで寄った。
一滴、畳に落ちた。
綾の肩が強張る。
景継はすぐには手を出さなかった。
綾は椀を置き直し、指を開いて握り直した。今度は掌全体で椀を包み、ゆっくりと持ち上げる。椀は傾かなかった。
ひと口、粥をすすった。
その動作だけで、額に汗が浮かんだ。
「飲めそうか」
「飲める」
「なら、少しずつ飲め。こぼしても構わん」
「畳が汚れる」
「畳は拭ける。お前の身体は、拭いて元に戻るものじゃない」
綾は椀を口元に当てたまま、動きを止めた。
景継は慰めるつもりで言ったのではない。失った腕は戻らない。傷が塞がっても、以前と同じ身体になるとは限らない。軽々しく励ますほうが、かえって残酷なこともある。
だが、畳を汚すのを恐れて食べることまで諦める必要はなかった。
綾は、再び椀を傾けた。
ひと口。息を整えて、もうひと口。
半分ほど飲んだところで、左手が震え始めた。景継はそこで椀を受け取った。
「今日はここまでだ」
「まだ飲める」
「飲めることと、飲み続けるべきことは違う」
「……私は、役に立たぬばかりか、食べることさえ」
「その話は、今朝だけで二度聞いた」
綾は口を閉じた。
「三度目を聞く前に、食べる方法を考えよう。椀を置く場所を変える。膝に布を敷く。誰かに持ってもらう。やり方はいくらでもある」
「人の手を借りれば済むことだ」
「そうだな」
景継は、あっさりとうなずいた。
「だから、借りる手を探せばいい。借りずに済むなら、そのほうが楽なこともある。だが、借りること自体を罪にする必要はない」
綾は何か言い返そうとしたが、言葉にならなかった。
他人の手を借りることは、彼女にとって単なる不便ではない。武器を持てなくなり、仲間を守るはずの自分が、誰かに身体を支えられる。役目を果たせないばかりか、他人の役目まで増やしてしまう。
彼女の知る世界では、それは敗北とほとんど同じだった。
しかし、景継は敗北という言葉を使わなかった。残った粥を脇へ置き、濡れた畳を布で拭いただけだった。
*
昼前、景継は治療に使った物を帳面に書きつけていた。
水、布、薪、食料。それに、誰が水を汲み、誰が火を起こし、誰が綾の様子を見に来たか。
村の者たちが治療の継続を認めたのは、三日間だけだった。その期限が過ぎれば、改めて話し合わなければならない。物資だけでなく、人手にも限りがある。好意に頼り続けるだけでは、いずれ行き詰まる。
景継は帳面の端に「人手」と書き加えた。
「何を書いている」
声に振り向くと、綾が壁に手を添えて立っていた。顔色はまだ悪い。左手の指が、壁の土をつかんでいる。
「どうして起きた」
「用を足したかった」
「呼べばよかっただろう」
「これくらい、自分でできる」
「次からは立つ前に声をかけろ。立つなと言っているんじゃない。倒れたら傷が開くかもしれないからだ」
「……分かった」
綾は素直にうなずき、帳面を見た。
「人手、と書いてある」
「ああ。物があっても、人がいなければ使えない。人がいても、何をしたか分からなければ負担が偏る」
「同じ者ばかりが水を汲めば、その者の仕事が滞る。誰が何をしたか分かれば、次は別の者に頼めるかもしれない。頼む回数を減らせるかもしれない」
景継が説明すると、綾は帳面を見つめた。
「誰が水を汲んだかも書いてあるのか」
「まだ揃っていない」
「なら、名前も書けばいい」
「なぜそう思う」
「人によって、できることは違う。年寄りに重い桶を運ばせるより、若い者に頼むほうがいい。足を痛めた者なら、布を畳む仕事のほうが向いているかもしれない」
綾はそこで言葉を切った。
「……ただ、名前を書けば、働けない者も目立つ。責められる者が出るかもしれない」
「そうだな」
景継は、すぐには帳面を差し出さなかった。
記録は役に立つ。だが、誰が働き、誰が働かなかったかだけを並べれば、別の形の責め道具にもなる。
「名前を書くだけでは足りない。何を頼んだか、なぜできなかったかも分からなければ、責めるための帳面になる」
「なら、何をすればいい」
「まずは、誰が何をしたかを間違えずに残す。理由が分かるなら、それも書く。ただし、勝手に決めつけない。分からないことは、分からないと書く」
綾はしばらく黙っていた。
「私は、戦場でしか役に立てぬと思っていた」
声がかすれた。
「剣を持ち、敵を退け、仲間を守る。それができなくなった者に、何が残るのかと」
景継は口を挟まなかった。
「腕を失ったことより、そのほうが恐ろしかった。生き残っても、何をすればいいのか分からない。誰かに食べさせてもらい、身体を拭いてもらい、寝床を借りる。私のために使われた物と、人の手ばかりが積み上がっていく」
綾は壁に添えた手に力を込めた。
「私は、いつまで生きていていい」
景継は、すぐには答えなかった。
生きていていい、と言うことはできる。だが、綾が恐れているのは、言葉の上で許されることではない。自分がここにいることで、誰かの暮らしが損なわれる。その事実から目を逸らせないのだ。
「いつまで、という期限を俺が決めることはできない」
景継は言った。
「これから何ができるようになるかも、以前と同じ働きができるかも、今は分からん」
「……ならば」
「だが、今日、何ができるかなら確かめられる」
景継は帳面を綾の見える位置へ置いた。
「立っているのがつらいなら座ればいい。筆を長く持てないなら、短い時間だけ試す。文字を書くのが難しければ、俺が書く。お前は、誰が何をしたか覚えておく。それだけでも助かる」
「それだけでいいのか」
「十分かどうかは、やってみなければ分からん」
「できなければ」
「やめればいい」
「失敗したら」
「直せるものなら直せばいい」
「私が間違えたら」
「確かめる。お前一人に責任を負わせるために頼むんじゃない」
景継は言葉を切った。
「ただし、身体がつらくなったら必ず言え。役に立つために傷を悪くする必要はない」
綾は長いあいだ返事をしなかった。やがて、壁から手を離さぬまま、うなずいた。
「……試してみる」
その声には、まだ確信がなかった。だが、拒絶でもなかった。
*
最初に試したのは、昼の水汲みについて尋ねることだった。
水を運んできた女は、椀を置きながら景継に言った。
「次は昼過ぎに参ります。薪を割らねばなりませんので」
「分かった。無理に急がなくていい」
「ですが、夕方には、もう一度水を汲みに行かねば……」
女は言いかけて口をつぐんだ。
「何かあるのか」
「今日は、うちの者が畑へ出ております。水汲みまで私がやるとなると、夕餉の支度が遅れます。ですが、ほかの方に頼むのも……」
綾が口を開いた。
「水を汲むのは、いつも同じ者なのか」
女は驚いたように綾を見た。
「日によって違います。ただ、ここへ持ってくるのは私が多うございます」
「水場までは、どれほどある」
「そう遠くはありません。ただ、桶が重いので」
「途中に、置ける場所は」
「道の脇に、石を積んだところがございます」
綾は少し考えた。
「一度に運ぶ量を減らして、二度に分けることはできないか。重い桶を一度運ぶより、軽いものを二度運ぶほうが楽かもしれない」
「二度となれば、歩く回数が増えます」
「そうだな。途中で休めるなら、運ぶときの負担は減るかもしれない。どちらがいいかは、試さないと分からないが」
景継は二人の話を聞いていた。
綾はまだ、立っているのがやっとだ。水を運べるわけでも、水場までの道を確かめたわけでもない。それでも、目の前の女が何に困っているかを尋ね、仕事のやり方を考えようとしていた。
「試すなら、明日がよいでしょうか。今日はもう運んでしまいましたから」
「明日、無理のない範囲で試してみてくれ。うまくいかなければ、元に戻せばいい」
景継は帳面を開いた。
水汲み。女一人。夕餉の支度に支障。翌日、運搬量を減らす方法を試す。
読み上げると、綾は首を横に振った。
「一つ違う」
「どこだ」
「女一人、と書くと、いつも一人で運んでいるように見える。今日は、ほかの者が畑へ出ているから一人なんだ」
景継は筆を止めた。
「そのとおりだ」
「夕餉の支度が遅れることも、今日だけなのか、普段からそうなのか、まだ分からない」
景継は書いた言葉に線を引き、書き直した。
――本日、家人が畑へ出ているため、水汲みを一人で担当。夕餉の支度への影響を訴える。平時の負担は未確認。
「それなら、間違いない」
「よし」
景継が筆を置いたとき、綾の左手が震えた。立っている時間が長すぎたのだろう。彼女は壁に寄りかかり、息を整えた。
「今日は終わりだ。横になれ」
「だが、まだ――」
「今日は、これで終わりだ」
綾は今度こそ言い返さなかった。
寝床へ戻る前に、一度だけ帳面を振り返った。そこに自分の名はない。それでも、先ほど考えたことは、確かに記録に残っていた。
*
午後、弥兵衛という村の男が薪を運んできた。
「先生。昨日の話ですが、村の者から、もう一つ申し上げたいことがございます」
「聞こう」
「三日間、治療を続けることは認めました。ですが、その間も村の仕事は止まりませぬ。水も薪も食べ物も、勝手に増えるわけではありません」
「分かっている」
「治療に使った物を、きちんと数えていただきたいのです。どれほど使ったか分からぬままでは、三日後に話し合うこともできませぬ」
「そのために記録を始めたところだ」
弥兵衛は帳面を見た。
「物の数だけでなく、人の手もですか」
「ああ。誰が何をしたか。どれだけ時間を使ったか。分かる範囲で残す」
「それなら、村の者にも見せていただきたい」
「構わない。ただし、記録だけを見て、誰かが怠けたと決めつけないでほしい。事情を知らずに数字だけを見れば、間違える」
「それはこちらも同じでしょうな」
弥兵衛は静かに言った。
「先生が治療のために何を使ったかご存じないように、我らも、村の者がどれほど手を取られているか、いつも見ているわけではありません」
「だから、互いに分かるようにする」
「三日後の話し合いが、少しでもましになるならよいのですが」
弥兵衛が帰ろうとしたとき、綾が声をかけた。
「弥兵衛殿」
男が振り返る。
「昨日、私のために治療を続けることを認めてくれたと聞いた。ありがとう」
弥兵衛は、すぐには返事をしなかった。目の前の女を哀れんで許したわけではない。村の暮らしを守るため、三日という期限を設けたのだ。
綾もそれを分かっているようだった。
「私は、まだ何も返せない。だが、何を使い、誰の手を借りたか、できる限り正確に残したい」
「お前が、か」
「私がやってみたいんだ」
弥兵衛は、綾の失われた腕へ一瞬だけ目を向けた。悪意があったわけではない。ただ、寝床から起きるだけでも苦労する女が、何をできるのか分からなかったのだろう。
「無理はなさらぬことです。村の者も、あなたに働けと申し上げているわけではありません」
「分かっている。それでも、自分でやってみたい」
弥兵衛はしばらく綾を見ていたが、やがてうなずいた。
「ならば、先生と相談してなさるがよい。三日という約束は変わりません。その間に何ができるか分かるなら、我らにも教えてください」
男が去ったあと、景継は綾を見た。
「よく話したな」
「あれでよかったのか」
「礼を言ったことか」
「違う。記録を手伝うと言ったことだ。何かを変えられるわけでもないのに、余計なことを言ったんじゃないか」
「余計かどうかは、これから分かる」
景継は帳面を閉じた。
「できるかどうか分からないことを、最初からできないと決める必要はない。だが、できると決めつけて身体を壊す必要もない」
「その違いが、私にはまだ分からない」
「俺にも、いつも分かるわけじゃない。分からないから様子を見る。試してみる。違っていたら直す」
景継は淡々と言った。
「医者だからといって、何もかも分かるわけじゃない」
綾は意外そうに彼を見た。
「明日も、できる範囲で記録を見てもらいたい。ただし、疲れたら終わりだ。俺が書いたことが間違っていたら、遠慮なく言え」
「あなたに、間違いを指摘してもいいのか」
「間違いを直すために見てもらうんだ。違うと思っても黙っていたら、頼んだ意味がない」
綾の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
*
夕方、陽が傾き始めたころ、綾はもう一度、帳面を開いた。
景継は別の患者の様子を見に出ている。部屋には誰もいなかった。
片手で頁をめくるのは難しかった。紙の端を押さえ、何度か失敗して、ようやく次の頁を開く。
そこには、熱、食事、痛み、眠りについて記されていた。
自分のことが書かれているのに、不思議と責められているようには感じなかった。できなかったことだけでなく、昨日より食べられたこと、熱が下がったこと、痛みが弱まったことも残っている。
身体は、失ったものだけでできているのではない。
綾は傍らの筆を見た。
左手で持ち上げ、紙に筆先を下ろす。柄が指の間で揺れ、墨が濃く滲んだ。
息を止めて、筆を動かした。
――水。
たった一文字だった。
形は歪み、最後の一画が長く伸びている。それでも、読めないほどではない。
指が痛む。肩の奥にも鈍い痛みが戻っていた。もう一文字書けるかもしれない。だが、景継は疲れたら終わりだと言った。
綾は筆を置いた。
限界まで耐え、耐えられなくなってから助けを求める。以前の自分なら、そうしていただろう。
今は、限界が来る前に自分で手を止めた。
それも、覚えたことのない行いだった。
「何をしている」
障子の向こうから声がした。
景継が戻ってきたのだ。綾は慌てて帳面を閉じようとしたが、片手ではうまくいかず、紙が折れかけた。
景継は足を止めた。
「……水、か」
「勝手に触った。悪かった」
「謝る必要はない」
景継は帳面を手に取り、文字を見つめた。
「見苦しい字だ。記録には使えない」
綾の顔が強張った。
「だが、何を書いたかは分かる」
景継は帳面を閉じなかった。
「最初の一文字だ。次に書くとき、直せばいい」
「……次も書いていいのか」
「身体が許すならな」
綾は筆を見た。まだ思いどおりに文字を書けるわけではない。記録を一人で任されるほど回復したわけでもない。
それでも、自分の手で一つの文字を残した。
誰かに支えられながら生きることと、誰かのために何かをすることは、両立しないわけではない。
その考えは、まだ確かな形にはなっていなかった。ただ、これまでとは違う場所へ、ほんの少し踏み出した気がした。
「明日から、試すことを一つずつ増やそう。長くはやらない。水の記録、食事の記録。できそうなものからだ」
「分かった」
「今日はもう休め」
綾はうなずき、寝床へ身を横たえた。
腕を失った事実は変わらない。痛みも、これから先の不便も消えない。村が三日後に治療の継続を認めるかどうかも、まだ決まっていなかった。
それでも、明日になれば、また水を飲む。身体の様子を確かめる。誰が水を運び、誰が薪を用意したかを聞く。覚えておけることを覚え、できることを少しだけ試す。
その先に何があるのか、綾には分からなかった。
分からないままでも、明日を迎える理由が一つだけできていた。
障子の外では、夕餉の支度をする音が続いていた。水を汲む音。薪を置く音。竈へ火を入れる音。
どれも、戦場では聞こえなかった音だった。
剣を持てなくなった自分に、何が残るのか。
答えは、まだ見つかっていない。
ただ、帳面に書いた一文字だけは、確かに残っていた。
水。
生きるために必要なもの。誰かが運び、誰かが使い、誰かが記録するもの。
その一文字から、綾はもう一度、自分が生きている場所を見つめ始めていた。




