第七話 治療を打ち切れという命令
第七話 治療を打ち切れという命令
朝、景継が小屋の戸を開けると、軒先に見知らぬ男が立っていた。
四十をいくつか越えた年頃で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。腰には短い刀を差していた。着物は質素だが、身なりに乱れはない。
男は景継を見ると、軽く頭を下げた。
「北条景継様でございますな」
「そうだが」
「私は、村の年寄衆から用向きを預かって参りました。弥兵衛と申します」
男は懐から折り畳んだ紙を取り出した。
「本日より、あの女への治療を打ち切るようにとのことでございます」
景継は紙を受け取り、目を通した。
村の共有物である水や布、食料を、素性の定かでない女に費やすことは認められない。応急の手当てはすでに済んでおり、以後の療養は本人を引き取る者が責任を負うべし。
短い文面だった。差出人の名はない。
「誰が決めた」
「村の者たちで相談し、年寄衆が取りまとめました」
「お前も、その相談に加わったのか」
「はい」
景継は紙から目を上げた。
「理由を聞かせてくれ」
「村の物資は、村の者が暮らすためのものです。凶作に備えて蓄えた米も、家族のために残してある布もございます。あの女の療養が長引けば、その分だけ人手も取られます」
「それは分かる」
「それに、あの女は武家の者です。どの家に属し、どうしてここへ流れてきたのかも分かりません。もし武家同士の争いに巻き込まれれば、村の者が困ることになります」
弥兵衛の声に、怒りはなかった。
ただ、村の暮らしを守ろうとしている。
「治療に使った水や布の量は、確かめたのか」
「細かなことまでは存じません」
「では、何をもって打ち切りと決めた」
弥兵衛は、少し口を引き結んだ。
「景継様。私は医術の是非を論じに来たのではございません。村の決め事をお伝えに来たのでございます」
「分かっている」
景継は紙を畳んだ。
「だが、治療をやめれば、綾はどうなる。ここを出ていけというのか。誰かが引き取るのか。それとも、動けるようになるまで本人に任せるのか」
「それは、本人の事情でございます」
「本人が動ける状態かどうか、確かめたのか」
「病の具合までは、私には分かりません」
「そうだろうな」
景継は紙を返した。
「治療を打ち切るという判断が、何を意味するのか。それを確かめずに決めるわけにはいかない」
弥兵衛の表情が硬くなった。
「村の決め事は、ひとりの判断で覆せるものではございません」
「覆すつもりはない。話し合いたいだけだ」
「話し合いの余地はございません。本日の日暮れまでに、治療を終えるようお願いいたします」
景継は、紙を受け取らなかった。
「その命令を誰が引き受けるのか、明らかにしてからにしてくれ」
「それでは、こちらも困ります」
「俺も困っている。だから話をしたいと言っている」
二人のあいだに沈黙が落ちた。
やがて弥兵衛は紙を懐へ戻した。
「本日中に、もう一度参ります」
そう言い残し、道を引き返していった。
景継は、その背中が家並みの向こうへ消えるまで、戸口に立っていた。
「聞こえていたぞ」
小屋の中から綾の声がした。
「起きていたのか」
「声が大きかった。治療を打ち切れと言われたのだろう」
景継は、すぐには答えなかった。
「私のために、村と揉めるな」
「揉めたいわけではない」
「ならば、出ていけばよい。私も、動けるようになったら出ていく」
「今は、動ける状態ではない」
「いつ動けるようになるかも分からないのだろう」
「そうだ」
綾は自分の左手を見た。
「水も布も、村の者のものだ。私が使えば、その分だけ誰かが困る。お前が何と言おうと、それは変わらない」
「そのとおりだ」
綾は顔を上げた。否定されると思っていたのかもしれない。
「だから、何をどれだけ使ったのかを確かめる。これから必要なものも見積もる。村が負担できないというなら、別の方法を探す」
「別の方法など、あるのか」
「分からない」
景継は答えた。
「だが、何も調べずに打ち切るわけにはいかない」
「お前は、私を助けることに執着しすぎている」
「そうかもしれない」
「私が助かっても、腕は戻らない。武家に戻れるとも限らない。使った水や布が無駄になるかもしれない」
「その可能性はある」
「それでもか」
景継は、綾の顔を見た。
「今も熱と腹痛が残っている。動けるかどうかも確かめていない。今、手当てをやめたらどうなるか分からない。それだけだ」
綾は視線を落とした。
「誰かに負担をかけるくらいなら、死んだほうがよいと思うことがある」
景継は、すぐには返事をしなかった。
「今も、そう思うのか」
「分からない」
綾は静かに答えた。
「誰かに世話をされるたび、自分が何もできなくなったことを思い知らされる。水を飲むにも、飯を食うにも、人の手を借りる。お前がいなければ、私は椀を落としていたかもしれない」
「椀を落としても、水はまた汲める」
「そういう話ではない」
「分かっている」
景継は、声を落とした。
「だが、誰かの手を借りることと、死んだほうがいい人間になることは同じではない」
綾は何も言わなかった。
「村の者にも暮らしがある。だから、負担を確かめて、無理のない形を探す。お前が死ねば、それで何もかも片づくわけではない」
「……簡単に言う」
「簡単なことではない。だから、俺も考えている」
景継は彼女のそばに腰を下ろした。
「今は、病を治すことだけを考えてくれ。村との話は俺がする。ただし、お前の意思を無視して、先のことを決めるつもりはない」
綾は長く黙っていた。
「……勝手に決めるなよ」
「決めない」
景継は答えた。
*
昼過ぎ、景継は村の年寄衆が集まる家を訪ねた。
土間には農具が並び、壁際には米俵が積まれていた。家の中には、年配の男が三人座っている。弥兵衛も、その一人の後ろに控えていた。
「北条様。弥兵衛から聞いております。こちらの決め事を受け入れられぬとか」
最も年長と思われる男が口を開いた。
「受け入れられないと決めたわけではない。理由を確かめたい」
「理由は伝えたとおりです。村の物資には限りがあります。怪我人が一人出れば、布も食べ物も要る。病が長引けば、人手も取られる」
「分かっている」
「ならば、北条家で引き取っていただきたい。あの女は武家の者なのでしょう」
「引き取る者がいるなら、そうしたい。だが、今のところ、引き取る者はいない」
「それならば、なおさらです。なぜ村が責任を負わなければならないのでしょう」
景継は、すぐには答えなかった。
村が負傷した武家の女を引き取らなければならない理由はない。北条家の者であるからといって、無制限に負担を求めることもできない。
「村に、無制限の負担を求めるつもりはない」
景継は言った。
「これまでに使った水や布、食料を確かめる。これから必要なものも、容態を見ながら見積もる。俺が用意できるものは用意する。村に頼むことがあれば、量と期間を決める」
「物を数えたところで、増えるわけではありません」
「そのとおりだ。だから、必要なものと、今は使わなくてよいものを分ける」
年寄衆の一人が腕を組んだ。
「負担が偏るのは、仕方のないこともございます」
「そうだな。だが、誰がどれだけ負担しているか分からなければ、助ける側も、助けられる側も長くは続かない」
景継は懐から紙片を取り出した。
そこには、綾の治療に使った水や布、食事の量が記されていた。すべてを正確に測ったわけではない。分かる範囲で書き留めたものだった。
「これが、今までに分かっている分だ。まだ足りないところはある。容態によって、これから必要なものも変わる。だから、今日ここで、すべてを決めることはできない」
「つまり、治療を続けたいと」
「少なくとも、熱と腹痛が治まるか、自分で動ける状態になるかを確かめるまでは続けたい」
「それは、いつまでです」
「いつ治るかは言えない。だから、三日後に、必要なものと容態を改めて報告する。それまでは、俺ができる限りの負担を引き受ける」
「景継様ご自身が?」
「そうだ」
年寄衆の一人が、険しい顔をした。
「そのようなことを、北条家が認めるとお思いですか」
「北条家の名を使って、村に従わせるつもりはない」
景継は答えた。
「俺が引き受けられる範囲を明らかにする。それでも足りないものがあれば、改めて相談する。村が負担できないものを、無理に出させるつもりはない」
「ならば、治療を打ち切ってもよいのではありませんか」
「まだ、その判断をする段階ではない」
景継は年寄衆を見た。
「治療を続ければ助かると約束できるわけではない。打ち切れば必ず死ぬとも言えない。だが、今の綾は、まだ十分に動ける状態ではない。そこで手当てをやめれば、本人が選べる道まで狭めてしまう」
「それは、村の者に危険を負わせるということではないのですか」
「危険を負わせないようにする。そのために、負担を明らかにしたいと言っている」
景継は声を強めなかった。
「もし治療を続けることで、村の暮らしに明らかな支障が出るなら、別の方法を考える。だが、何がどれほど必要なのかも分かっていない。分からないまま、打ち切ることだけを決めるのは早い」
外では、誰かが薪を割る音がしていた。
年寄衆は互いに顔を見合わせた。やがて、最も年長の男が口を開いた。
「三日後に、改めて話をする。それまでは、景継様が責任を持って治療を続ける。村から出すものは、必要な分だけとする。よろしいですかな」
「それでよい」
「ただし、村の者に無理を強いることは認めません」
「分かっている」
「三日後には、必ず報告していただく」
「約束する」
男は弥兵衛に目を向けた。
「そのように取り計らえ」
「承知いたしました」
話し合いは、それで終わった。
景継が立ち上がると、年長の男が声をかけた。
「景継様。村の者は、決して冷たいわけではございません。ただ、明日も食べていかなければならないのです」
景継は頭を下げた。
「忘れない」
家を出ると、昼の光が道に落ちていた。
三日間の猶予を得た。
それ以上ではなかった。
*
小屋へ戻ると、綾は起きていた。
「どうなった」
「三日間、治療を続けてよいことになった」
「三日だけか」
「三日後に、もう一度話をする」
綾は、ゆっくりと息を吐いた。
「私のために、三日も使わせたのか」
「村の者と話をしただけだ」
「そのために、時間を使ったのだろう」
「そうだな」
「私がいなければ、そんな話をする必要もなかった」
「そうかもしれない」
綾は、彼の顔を見た。
「否定しないのか」
「事実だからな。お前がいなければ、この話し合いはなかった」
「ならば、私が迷惑をかけていることは、認めるのだな」
「負担が生じていることは認める。だが、それをお前一人の責任にするつもりはない」
「どう違う」
「水を運ぶ者がいる。布を用意する者がいる。食事を作る者がいる。それには時間も手間もかかる。だから、何が必要で、誰がどれだけ負担するのかを考える」
景継は、綾を見た。
「負担があるから治療をやめる。それを決める前に、ほかにできることがないか確かめたい」
「私は、まだ何もできない」
「今は、病を治すことが先だ」
「病が治っても、片腕だ」
「そうだな」
「また、誰かに世話をかけるかもしれない」
「そのときは、何ができて、何ができないのかを考えればいい」
綾は左手を見つめた。
「私は、誰かの役に立ちたかった」
声が小さくなった。
「剣を持つことだけが役目ではないと思っていた。負傷した者を運ぶことも、命令を伝えることも、仲間を支えることも、役目だと思っていた。だから、腕を失っても、何かできることはあると思っていた」
彼女は唇を噛んだ。
「だが、ここでは水を飲むことさえ、人の手を借りなければならない。村の者に迷惑をかけ、お前に面倒を見てもらい、治療を続けるかどうかまで話し合われる。私は、何をしているのだろうな」
景継は、すぐには答えなかった。
「今は、何もできなくてもいい」
「何もせずに、世話になれと?」
「今は、傷を負って、熱が出て、腹が痛い。身体が回復するまでは、休むことが必要だ。それは、誰かの役に立つためにすることではない」
「休むことが、役目だと?」
「役目と考えなくていい。ただ、休めばいい」
綾は彼を見た。
「お前は、私に何も求めないのか」
「今はな」
「治療を続ける見返りも?」
「いらない」
「助けた者に、礼を言わせたいとは思わないのか」
「礼を言いたいなら、いつか言えばいい。言いたくないなら、それでもいい」
綾は、何かを言おうとして、やめた。
「……そう簡単に、割り切れるものか」
「割り切れなくていい」
景継は答えた。
「すぐに答えを出す必要はない」
綾は目を閉じた。
「三日後、私はどうなっているだろうな」
「分からない」
「お前は、本当にそればかりだ」
「分からないことを、分かったふりはできない」
綾は、わずかに笑った。
「ならば、三日後に、また聞く」
「ああ」
景継は頷いた。
「そのときも、分かることと分からないことを、きちんと話す」
*
その夜、景継は治療に必要な物を整理した。
飲むための水と、傷の手当に使う水。傷を覆う布と、周囲を拭く布。食事。火を起こす薪。
そして、看病する人の手。
どれも特別なものではない。だが、一つ欠けても治療は難しくなる。
使ったものは、できる限り記録する。足りないものがあれば、代わりに使えるものがあるかを考える。誰か一人に負担が偏っているなら、それを見つける。
景継は紙片に、必要な物を一つずつ書き出した。
水。
布。
食事。
薪。
人手。
書き終えて、筆を置いた。
現代の病院では、必要な物資を確かめ、補充を求める仕組みがあった。誰かが水を汲み、布を洗い、薪を集めるところから、医療を始める必要はなかった。
ここでは、椀一杯の水を誰が汲むのかから決めなければならない。
布一枚を洗うにも、誰かの時間が要る。
助けるという行為は、助ける者の暮らしの中に場所を作ることでもあった。
景継は紙片を畳んだ。
明日、村の者たちに、必要な物と負担の分け方を相談しよう。
できることを一つずつ決める。それでも足りないものは出てくるだろう。そのときは、また考える。
小屋の奥では、綾が眠っていた。
時折、苦しそうに身じろぎする。景継はそのたびに様子を確かめ、呼吸と反応を見た。
熱は、まだ完全には引いていない。
腹痛も残っている。
明日、どのような変化があるかは分からなかった。
景継は火のそばに座り直した。
三日後には、また話し合いがある。
なぜ助けるのか。誰が負担するのか。いつまで続けるのか。
どれも、まだ答えは出ていない。
景継は綾の寝顔を見た。
彼女が失ったものを、取り戻すことはできない。先の暮らしを約束することもできない。
できるのは、今の容態を確かめ、必要な手当てを続けること。そして、本人が自分の先を選べるところまで、時間をつなぐことだった。
景継は、紙片の端に書き加えた。
三日後、再協議。物資の使用量と必要量を整理する。患者の容態を継続して確認する。
筆を置く。
紙の上には、治療の経過と、村との約束が並んでいた。
どちらも、まだ終わっていない。
景継は、弱まった火に薪を一本足した。
今夜、綾は治療を続けられる。
それは、誰かがすべてを譲った結果ではなかった。
負担を確かめ、責任を分け、もう一度考える時間を得た結果だった。




