第六話 剣を失っても
第六話 剣を失っても
朝の光が小屋の床へ差し込んだころ、綾は目を覚ました。
喉が渇いていた。腹の奥には鈍い痛みが残り、右肩のあたりには、そこにない腕の重さを思わせる違和感があった。
夢の中では、両手があった。
倒れた者の腕をつかみ、土の上を引きずっていた。衣が指に食い込む感触。踏みしめた地面の硬さ。背後から飛んでくる声。
早くしろ。
置いていけ。
夢の中の自分は、まだ走ることができた。
目を開けると、煤けた梁が見えた。右側の袖は、敷物の上に折れたまま横たわっている。
綾は左手を動かした。指を握り、開く。何度か繰り返してから、手を止めた。
「起きたか」
戸口のほうから景継の声がした。
「水を飲めそうか」
「飲める」
景継は椀を持って近づいた。
「自分で持つか。支えたほうがいいか」
「自分で持つ」
綾は左手を伸ばした。
椀の縁に指をかけ、持ち上げる。水面が揺れ、少しこぼれた。
景継は手を出さなかった。
綾は椀を傾け、一口飲んだ。続けてもう一口。今度はこぼさずに飲み終え、床へ置いた。
「こぼれたな」
「少しだ」
「拭いておく」
「私がやる」
綾は左手で布を探した。布は、手を伸ばせば届くところに置かれていた。
床に手をつき、布をつかむ。片手では身体を支えにくく、何度か布を落としかけた。それでも、どうにか水気を拭き取った。
「終わった」
「ああ」
「何か言わないのか」
「何を」
「手間取ったな、とか。見ていられない、とか」
「手間取ったとは思った」
景継は正直に答えた。
「だが、見ていられないとは思わなかった」
綾は眉を寄せた。
「同情か」
「違う。水をこぼした。それを拭いた。それだけだ」
「それだけのことに、ずいぶん時間がかかった」
「今までと違う身体の使い方をしているんだ。慣れていなければ、時間はかかる」
「慣れれば、何でもできると?」
「何でもとは言っていない」
景継は、綾の右肩へ目を向けた。
「痛みがあるなら、無理はできない。できない動きもあるだろう。だが、今できないことが、工夫してもできないことなのか、まだ分からないことなのか。その区別はつけたい」
「お前は、何でも分けて考えるのだな」
「分けないと、間違えるからな」
綾は、もう一度左手を見た。
水を飲み、布を取って、床を拭く。それだけのことが、今までとは違っていた。
「……妙な男だ」
「よく言われる」
「誰にだ」
「昔の知り合いに」
景継は、それ以上説明しなかった。
*
昨夜から、腹痛は残っていた。吐き気も完全には消えていない。水は飲めたが、食事はわずかだった。
額に触れると、昨夜より熱感が弱まったようにも感じられた。だが、手の感覚だけで確かな判断はできない。
「痛みは強くなったか」
「昨日よりは弱い。ただ、身体を起こすと肩の奥が引かれるように痛む」
「腹もか」
「少し響く」
「吐き気は」
「まだある」
景継は、聞いたことを紙片に書き留めた。
「いつまで寝ていればいい」
綾が尋ねた。
「まずは昼まで様子を見よう。痛みが強くならず、水が飲めているなら、そのあとで少し身体を起こすことを考える」
「昼まで、か」
「状態が変われば、予定も変える」
「また、分からないことばかりだな」
「そうだな」
景継は、記録を続けた。
「それには、何が書いてある」
「昨夜からの様子だ。いつ水を飲んだか、どれくらい食べたか。痛みがどう変わったか」
「私のことを、いちいち書いているのか」
「あとで思い違いをしないためだ。覚えているつもりでも、時間がたてば曖昧になる」
「私が、いつ死にかけたかまで書くのか」
景継の筆が止まった。
「死にかけたかどうかは、まだ分からない」
「そういうところだけは、決して曖昧にしないのだな」
「分からないことを、分かったふりはできない」
綾は鼻で笑った。
「妙な医者だ」
「二度目だな」
「何度でも言ってやる」
戸口の外から足音が聞こえた。
千代が、粥を入れた器を持って立っていた。
「昨日より少し固めにしてあります。食べられそうでしょうか」
景継は綾を見た。
「少しなら」
「では、少しだけよそいます」
千代は器を置き、綾の左手側へ寄せた。
「ここでよろしいですか」
「もう少し近く」
器が動かされた。
「そこだ」
「はい」
綾は左手で匙を持ち、粥をすくった。匙の柄が指から滑りかけ、握り直す。口元へ運ぶ途中で少しこぼれたが、そのまま口に入れた。
飲み込むまでに時間がかかった。
「どうだ」
景継が尋ねた。
「食べられる」
「吐き気は」
「今のところ、変わらない」
「なら、少し休もう。一度に食べる必要はない」
綾は匙を置いた。食べた量は、器の底が少し見える程度だった。
景継は、その量を記録した。
千代は器を片づけながら、綾に言った。
「食べられて、よかったですね」
綾は顔を上げた。
千代は、特別な意味を込めたわけではないらしい。食事を運んだ者として、食べられたことを喜んだだけだった。
綾は視線を落とした。
「……ありがとう」
千代は少し驚き、それから小さく頷いた。
*
昼を過ぎても、腹痛は消えなかった。
急に悪化する様子はない。熱も朝より落ち着いたように感じられる。だが、吐き気は残り、食事も十分には取れていなかった。
「今日は、まだ無理に動かないほうがいい」
景継が言うと、綾は天井を見つめた。
「私は、待つことが嫌いだ」
「そうか」
「戦場では、待っているだけで人が死ぬ。敵が動く前に動かなければならない。負傷者を運ぶにも、遅れれば助からない」
彼女は言葉を切った。
「だが、今は待てと言われる」
「今は、動くことで危険が増すかもしれないからだ」
「動かなければ、何も変わらない」
「身体の中では、変化が起きていることもある。よくなることも、悪くなることもある。外から見ただけでは、すべては分からない」
「では、何もできないのか」
「できることはある。水を飲む。休む。食べられるなら少し食べる。痛みや熱の変化を確かめる。今はそれが必要だ」
綾は黙った。
「戦場では、何もしないことが罪になる場合がある」
「そうだろうな」
「動かなければ、仲間が置き去りになる。動けば、命令違反になることもある。どちらを選んでも、あとで責められることがある」
景継は、綾の話を聞いていた。
「お前は、あのとき何を考えていた」
彼は尋ねた。
綾はすぐには答えなかった。
「倒れていた者を、置いていけなかった」
「それだけか」
「それだけだ」
彼女は言った。
「脚を負傷して、自分では動けなかった。敵が近づいていた。私は、引きずってでも退かせようと思った。助けられるかどうかを考える前に、手を伸ばしていた」
綾は左手を握りしめた。
「今なら、周囲を確かめるべきだったのかもしれない。ほかの者に援護を頼むべきだったのかもしれない。自分一人で助けようとするべきではなかったのかもしれない」
「だが、そのときは考える時間がなかった」
「そうだ」
綾は、短く答えた。
「次など、あるものか。私は、もう戦場には戻れない」
「戦場に戻るかどうかだけが、答えではない」
景継は言った。
「誰かが倒れたとき、どう助けを呼ぶか。周りの者をどう動かすか。何を先に運ぶか。どこまで自分でやり、どこから人に任せるか。そういうことなら、考えられる」
「私は医者ではない」
「知っている」
「兵を率いる将でもない」
「それも知っている」
「ならば、何ができるというのだ」
景継は少し考えた。
「お前が実際に見てきたことを話すことはできる。戦場で何が起きたか。負傷した者がどこで取り残されるのか。命令が届かないとき、何が起こるのか。俺は医療の知識を持っているが、戦場で何度も負傷者を運んできたお前の経験は持っていない」
綾は、意外そうな顔をした。
「私の経験に、何の価値がある」
「少なくとも、俺には必要だ」
景継は答えた。
「どこで声が届かなくなるのか。どの道なら負傷者を運べるのか。どれほどの重さなら、一人で引きずれるのか。そういうことは、実際に知っている者に聞くしかない」
綾は、景継をじっと見た。
「私の話を聞いて、何をするつもりだ」
「今すぐ何かを変えられるとは思っていない。ただ、知っておきたい」
「それだけか」
「それだけだ」
綾は目を閉じた。
しばらくして、彼女は言った。
「……ならば、覚えておけ」
「何を」
「戦場では、倒れた者のそばに、必ずしも敵がいるわけではない。味方がいることもある。だが、味方だからといって、助けられるとは限らない」
彼女の声は静かだった。
「敵が迫っている。命令がある。ほかにも負傷者がいる。馬が逃げる。道が塞がる。運ぶ者が足りない。助けたいと思っても、助けられないことがある」
景継は黙って聞いた。
「だから、負傷者を運ぶ者だけを増やしても足りない。どこへ運ぶかを決めておかなければならない。誰が受け取るのかも決めておかなければならない。運んだあと、誰が水を飲ませ、誰が傷を見て、誰が夜を越すのか。それも決まっていなければ、運んだだけで終わる」
景継は、ゆっくりと頷いた。
「今の話は、覚えておく」
「忘れるな」
「忘れない」
綾は、初めて正面から景継を見た。
*
夕方、景継は綾の肩の傷を確かめることにした。
「傷を見たい。布を外してもいいか」
綾は一瞬、身を固くした。
「今か」
「短い時間で済ませたい。痛みが強くなるようなら、すぐにやめる」
綾は少し考えてから頷いた。
「見ろ」
景継は急がずに布を外した。
傷は、切断の処置を受けたあとだった。覆っている布は何度か洗って使ったらしく、端がほつれていた。
景継は、まず周囲を見た。腫れはないか。皮膚の色はどうか。強い悪臭はないか。膿のようなものが出ていないか。触れたとき、どこに痛みがあるか。
見える範囲では、直ちに強い処置を要するほど悪化しているようには見えなかった。しかし、それだけで感染を否定することはできない。
「傷は、いつからこの布で覆っている」
「昨日、替えた」
「その前は」
「その前の日からだ」
「替えるとき、膿のようなものは出たか」
「少し湿っていた。血も混じっていた」
「臭いは」
「ひどくはない」
景継は頷いた。
「今のところ、見える範囲では、ひどく悪くなっている様子はない。ただ、熱の原因が傷ではないとも言い切れない。引き続き、様子を見る必要がある」
「治るのか」
「傷が閉じる可能性はある。だが、感染が起きれば別の問題が出る。今は清潔な布で覆い、汚れたものを長く当てないようにしたい」
「清潔な布など、いくらでもあるわけではない」
「そうだな」
景継は、持ってきた布を見た。
「布を替えるときは、できるだけ手を洗う。傷に触れるものを、汚れた床や衣服に置かない。使った布は、洗えるものと、そうでないものを分ける。できる範囲でやろう」
「手を洗う水も要る。傷を洗う水も要る。布を洗う水も要る」
綾は呆れたように息を吐いた。
「一人の傷を治すだけで、どれだけのものが要るのだ」
「だから、治療は一人ではできない」
景継は布を整えた。
傷を覆い直すときも、綾に確かめながら進めた。痛みが強くないか。布が引っ張られていないか。肩を動かしたとき、どこかが突っ張らないか。
手当てが終わると、綾は右肩を見つめた。
「この傷が閉じても、腕は戻らない」
「戻らない」
「以前のように剣を振ることも、できないかもしれない」
「そうだな」
「ならば、傷を治す意味はあるのか」
景継は、すぐには答えなかった。
「傷を治すことと、腕が戻ることは別だ。傷が閉じれば、痛みが減るかもしれない。感染の危険も下がるかもしれない。身体を起こしたり、食事をしたりすることが、少し楽になるかもしれない」
「それで、私は以前のように戻れるのか」
「以前と同じには戻れないだろう」
綾は目を閉じた。
「だが、以前と同じではないことと、何もできないことは同じではない。どこまでできるかは、傷が落ち着いてから考えればいい。今は、まず身体を休めることだ」
「生きていれば、何かが変わると?」
「変わることはある。何も変わらないこともある」
景継は、彼女の目を見た。
「それでも、生きていなければ、確かめることもできない」
綾は長いあいだ黙っていた。
やがて、左手で敷物をつかみ、身体を少しだけ横へ向けた。
「今日は、もう休む」
「ああ。腹の痛みが強くなったり、吐き気が悪化したりしたら呼んでくれ」
「分かっている」
景継は布を片づけた。
*
日が暮れるころ、千代が再び小屋へ来た。
彼女は水と、少量の粥を持っていた。景継は必要な分を残してもらい、受け渡しを帳面に記した。
「村の者たちは、まだ何か言っていますか」
景継が尋ねると、千代は戸口の外を振り返った。
「言っています。どうして、あの方にそこまでするのか、と。景継様が面倒を見ているから、自分たちも何かしなければならないのではないか、と考える者もいます。反対に、武家の揉め事に巻き込まれるのではないかと心配する者もいます」
「どちらも、無理のない考えだ」
千代は意外そうに彼を見た。
「責めないのですか」
「水や布は、誰かが用意しなければ出てこない。自分の家の分を減らすなら、考えることもあるだろう。関わったことで責任を負わされるかもしれない。それを心配するのは当然だ」
「それでも、助けるのですか」
「助ける。ただし、誰か一人に無理を押しつけるつもりはない。できることを分けたい。水を運べる者。布を洗える者。食事を作れる者。何もかもを、一人で背負う必要はない」
千代はしばらく彼を見つめた。
「それなら、話はできるかもしれません」
「話せそうな者がいたら、頼みたい」
「はい。ただ、皆がすぐに賛成するとは思わないでください」
「分かっている」
千代が出ていくと、景継は綾の様子を確かめた。
「千代と、何を話していた」
「水や布を、どうやって用意するかだ」
「私のために、村の者を動かすつもりか」
「無理に動かすつもりはない。できることを頼むだけだ」
「断られたら」
「別の方法を考える」
綾は景継の顔を見た。
「お前は、諦めが悪いな」
「必要なことだからな」
「必要だと思えば、何でもするのか」
「何でもはできない。できることを探すだけだ」
綾は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと身体を起こそうとした。
景継はすぐには手を出さなかった。
「起きるのか」
「ああ。少しだけ」
「腹が痛むなら、すぐにやめよう」
「分かっている」
綾は左手を床についた。
身体を起こそうとするが、右肩に力が入らず、重心がうまく移らなかった。腹にも力がかかり、顔が歪む。
景継は手を伸ばした。
「支えていいか」
綾は一瞬迷い、頷いた。
景継は背中を支え、無理のないところまで身体を起こした。
綾は息を整えた。
「痛むか」
「少し。腹にも響く」
「もう少し、この姿勢でいられそうか」
「いられる」
景継は、彼女の背中に丸めた布を当てた。
綾は、しばらく前を見ていた。
座っただけだった。歩いたわけでも、剣を握ったわけでもない。
それでも、横になったままでは見えなかった戸口の向こうが、少しだけ見えた。
村の屋根。夕暮れの空。道を歩く人影。
「……ここから、何が見える」
綾が尋ねた。
「村の屋根と、道だ」
「道の先には」
「隣の家がある。その先に井戸があって、さらに行けば畑がある」
「その先は」
「道が続いている」
景継は答えた。
綾は遠くを見つめた。
「そうか」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
景継も、何かを言い足すことはしなかった。
綾がその道をどこまで歩けるのか。どこへ行くことになるのか。どんな役割を持つことになるのか。
まだ、何も決まっていなかった。
綾は自分の意思で身体を起こし、景継の手を借りながら、外を見た。
景継は、そのことを帳面には書かなかった。
彼女が何を選ぶのかは、医者が記録して決めることではなかった。
夕暮れの光が、二人のあいだを横切っていた。
失われた腕は戻らない。痛みも、過去も、すぐには消えない。
だが、綾の左手は、今も彼女の意思に従って動いていた。
その手で水を飲み、布を取り、粥を食べた。
そして今、自分の身体を起こし、道の先を見ている。
剣を失った者が、剣以外の何を持てるのか。
その答えは、まだ見つかっていなかった。




