第五話 生き延びた理由
第五話 生き延びた理由
夜明けは、傷ついた者にも、傷つけた者にも、等しく訪れる。
東の空が白み始めるころ、景継は小屋の戸口に腰を下ろし、膝の上の紙片を見直していた。
夜半、熱感強し。呼びかけに応じる。水を少量飲む。
丑の刻、腹痛を訴える。吐き気あり。嘔吐なし。
寅の刻、眠る。呼吸に大きな乱れなし。
夜明け前、発汗あり。顔色なお悪し。呼びかけに応じる。
景継は最後の行に筆を置いた。
汗をかいたからといって、熱が下がったとは限らない。眠れたからといって、容態がよくなったとも限らない。
綾は夜を越した。
それだけで、危険を脱したとは言えなかった。
「……起きているのか」
小屋の奥から、掠れた声がした。
景継が振り返ると、綾が薄い敷物の上で目を開けていた。額には汗が残り、唇は乾いている。
「起きている。水は飲めそうか」
「少しなら」
「吐き気は」
「まだある」
「腹はどうだ」
「昨夜ほどではない。だが、痛い」
綾は左手を腹の上に置いた。痛む場所を一つに定めるような仕草ではなかった。
景継は、無理に触診を続けなかった。熱と腹痛、吐き気。食事も十分には取れていない。よい兆しがないわけではないが、原因は分からないままだった。
「昨夜より少し楽なら、それはよいことだ。ただ、まだ治ったわけではない。痛みが強くなったり、何度も吐いたり、水が飲めなくなったりしたら、すぐに知らせてくれ」
「誰に知らせる」
「俺を呼べばいい」
「お前がいなかったら」
「近くにいる者を呼ぶ」
「誰も来なかったら」
景継は、綾を見た。
「……そのときは、俺が戻るまで待つしかない。だが、助けを呼ばないよりはましだ」
綾は目を伏せた。
「正直だな」
「嘘をついても、熱は下がらない」
綾の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのか、痛みで顔が歪んだのかは分からなかった。
景継は水を入れた椀を手に取った。
「少しずつ飲め」
綾は左手で椀を受け取ろうとした。指が縁にかかったところで手首が震え、水面が揺れた。
景継は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「支えていいか」
綾は彼の手を見てから、短く頷いた。
景継は椀の底に手を添えた。重さだけを受け持ち、口元へ運ぶのは綾に任せた。
一口。
少し間を置いて、もう一口。
それだけで疲れたのか、綾は椀を下ろした。
「これでいい」
「分かった」
景継は椀を手の届く場所へ置いた。
綾は自分の左手を見つめていた。椀を持ち上げるだけのことに、どこへ力を入れればよいか考えなければならない。
「お前は、医者なのか」
「医者だ」
「武家の医者か」
「……そういうことにしておいてくれ」
「妙な答えだな」
「妙なことはいくらでもある」
景継は、それ以上説明しなかった。
自分が何者なのかを語っても、綾の腹痛が軽くなるわけではない。いま必要なのは、彼女の身の上をすべて知ることではなく、病の経過を確かめることだった。
「腕の傷は、いつ負った」
景継が尋ねると、綾の表情が変わった。
「知ってどうする」
「熱や腹の痛みと関係があるかもしれない。話せる範囲で聞きたい」
「関係がなければ」
「聞いたことが無駄になる」
「関係があれば」
「手当てを考える材料になる」
綾は目を閉じた。
「腕は戻らない」
「そうだな」
「分かっているなら、聞く必要もないだろう」
「腕を戻すために聞いているのではない」
綾は答えなかった。
やがて、敷物の端を左手でつかんだ。
「話すことなら、少しある」
景継は筆を取らず、彼女の顔を見た。
「話せるところまででいい」
綾は、煤けた梁を見上げた。
「合戦だった」
「それくらいは分かる」
「分かっていることと、知っていることは違う」
景継は口を閉じた。
「私は味方の後ろにいた。槍を持った者が前へ出て、弓を持った者が後ろから射る。私はその間を走った。負傷した者を引きずり、倒れた者を退かせる。そういう役目だった」
綾は一度、息を継いだ。
「敵が崩れたと聞いた。前の者が追い始めた。だが、追う先から別の敵が出た。退けという声がした。進めという声もした。誰が何を言ったのか、今ではよく覚えていない」
景継は黙って聞いていた。
「一人が倒れた。私のすぐ前だった。脚をやられて、立てなくなっていた」
綾の左手が、敷物を強くつかんだ。
「私は引き戻そうとした。ほかの者は退けと言った。敵が近づいていたからだ。このままでは、二人とも逃げられなくなる。そう言われた」
「それでも、助けようとしたのか」
「助けようとした」
綾は言い直した。
「助けられたとは言っていない」
景継は、その訂正を受け止めた。
「敵の矢が飛んできた。誰が射たのかは知らない。私は倒れた者の上にかぶさった。次に覚えているのは、腕が焼けるように痛んだことだ」
彼女は右肩のあたりを見た。
「そのあと、何人かが私を運んだ。気を失ったり、目を覚ましたりした。誰かが止血してくれた。医者もいた。腕は残しておけないと言われた」
声に大きな感情はなかった。
「助けた者は、生きているのか」
「知らない」
綾は答えた。
「私が運ばれたあと、どうなったのか聞いていない。あの者が生きていても、私が腕を失ったことに意味が生まれるわけではない。死んでいたとしても、私がしたことが間違いだったと決まるわけではない」
彼女は目を閉じた。
「ただ、私は戻れなくなった」
小屋の外で鳥が鳴いた。
景継は、慰めの言葉を探さなかった。
助けた者が生きていたとしても、失った腕は戻らない。死んでいたとしても、あの場の判断が間違いだったと簡単に決めることはできない。
そこに答えを与えられるほど、彼は何も知らなかった。
「私は、もう武家の役には立たない」
綾が言った。
「弓は引けない。槍も以前のようには扱えない。馬に乗るにも、手綱を片手で取らなければならない。人を引きずることも、荷を担ぐことも難しくなった」
彼女は一つずつ、確かめるように言葉を並べた。
「皆、そう言った。私も、そう思った」
景継は反論しなかった。
片腕を失った人間が、以前と同じように戦えるとは限らない。訓練や工夫でできることが増える可能性はあっても、すべてが元通りになるわけではなかった。
「武家の役に立つかどうかは、俺が決めることではない」
「では、誰が決める」
「お前自身も、これから確かめていくことになるだろう」
「確かめたところで、できぬものはできぬ」
「そうだな。できないことを、できると言うつもりはない」
綾は景継を見た。
「ならば、何が言いたい」
「何も確かめずに、すべてできないと決めるのは早い。できることも、難しいことも、実際に確かめなければ分からない」
「それで何になる」
「少なくとも、俺が勝手に決めることはなくなる」
綾は返事をしなかった。
景継も、それ以上は言わなかった。
いまは熱を見て、腹痛の変化を確かめる。腕の傷も、本人が許すなら後で診る。先の暮らしについて答えを出すのは、そのあとでよかった。
*
昼近くになって、景継はもう一度、綾の様子を確かめた。
額の熱感は朝より弱まったようにも感じられたが、確かなことは言えない。腹痛は残り、吐き気も完全には消えていなかった。
景継は、痛みの場所と強さを尋ね、飲んだ水の量を記録した。
「何度も聞くのだな」
綾が顔をしかめた。
「変わったかどうかを知りたい」
「変わらなければ」
「変わらないと記す」
「それだけか」
「それだけだ」
「医者というのは、もっと大層なことをするものだと思っていた」
「大層なことができるなら、俺もそうしたい」
景継は紙片に目を落とした。
「昨日より悪くなっているのに気づかないほうが危ない。変わらないことも、知っておく必要がある」
綾は不満そうに息を吐いた。
「面倒なものだな」
「そうだな」
昼過ぎ、千代が小屋へ来た。
彼女は戸口で足を止め、綾の姿を確かめた。
「まだ熱があるのですか」
「少し落ち着いたようには見える。ただ、腹痛が続いている」
「何か要るものは」
「煮沸できる水と、清潔な布が少し。それから、薄い粥を頼めるだろうか。食べられるかどうかは本人に聞く」
千代は頷いたが、すぐに表情を曇らせた。
「村の者たちは、この方をまだよく思っていません」
「知っている」
「助けたところで、礼を言われるとは限りません。何かあれば、かえって責められるかもしれません」
「それも知っている」
千代は景継の顔を見た。
「それでも、助けるのですか」
「病人だからだ」
千代はすぐには答えなかった。
水を分ければ自分の家の分が減る。布を渡せば、次に家族が怪我をしたときに困るかもしれない。世話を引き受ければ、面倒事が自分のところへ回ってくることもある。
千代は、そうした事情を知らないわけではなかった。
「……わかりました。水と粥を持ってきます。ただし、食べるかどうかは、この方に決めてもらってください。無理に食べさせて吐かれたら困りますから」
「そのとおりだ」
千代が出ていくと、綾は戸口を見ていた。
「お前の言葉を信じたのか」
「できることを考えてくれたのだろう」
「私のために?」
「水と粥を用意するだけだ」
「それでも、ここへ来た者は少ない」
景継は答えなかった。
しばらくして千代が戻り、煮沸した水と粥、清潔な布を置いていった。
綾は粥を三口食べた。
それ以上は箸が進まなかったが、吐くことはなかった。
景継は食べた量を記録し、椀を片づけた。
「もう、よい」
「分かった。無理はしなくていい」
綾は椀を見下ろした。
「水を飲むにも、飯を食うにも、以前なら考えなかったことを考えなければならない」
彼女は左手を膝の上に置いた。
「起き上がるだけでも、どこに手をつけばよいか迷う。夜に寝返りを打てば肩が痛む。夢の中では、まだ両手がある」
綾は、右肩の先で折れた袖を見た。
「目が覚めると、片方がない」
景継は返す言葉を持たなかった。
「それを、なくすことはできない」
やがて、彼は言った。
「今すぐ、何もかもを元どおりにすることもできない」
「医者がそんなことを言うのか」
「できないことを、できると言うのは医者の仕事ではない」
景継は続けた。
「ただ、痛みを減らす方法を探すことはできる。片手で扱いやすい道具を考えることもできる。どんな動きがつらいのかを確かめて、身体への負担を減らすこともできる。今は熱と腹痛が先だがな」
「私のために、そこまでする理由があるのか」
「必要だからだ」
「誰にとって」
「お前にとって」
綾は彼を見つめた。
「私は、北条家にとって役に立たない人間だ」
「北条家の役に立つかどうかと、病人に手当てが必要かどうかは別の話だ」
「そのような理屈が、通ると思うのか」
「通らないこともあるだろう。だが、通らないからといって、最初から手を引く理由にはならない」
綾は顔を背けた。
「お前は、変わっている」
「よく言われる」
「誰にだ」
「……昔の知り合いに」
それ以上、景継は説明しなかった。
彼は紙片を見直した。
夜からの経過。飲んだ水の量。食べた粥の量。痛みの場所。熱の具合。意識の状態。
そして、まだ分からないこと。
腹痛の原因。熱の原因。この先、どのように変化するか。
分からないことを、分かったように書かない。
景継は紙片を畳んだ。
「今夜も様子を見る」
「ずっと、ここにいるのか」
「できるだけはな」
「できないときは」
「千代に声をかけてある。何かあれば、俺を呼ぶように伝えておく」
綾は小さく頷いた。
「そうか」
礼はなかった。
景継も求めなかった。
*
夜が近づくと、風が冷たくなった。
景継は戸口の隙間を布で塞ぎ、飲み水を綾の手が届く場所へ置いた。椀は倒れないよう、壁際へ寄せた。
綾は、その動きを黙って見ていた。
「何をしている」
「夜中に水が飲めるようにしている。起き上がるとき、椀を落とさないようにもな」
「私は、そこまで手が利かないと思われているのか」
「昨夜、椀を落としかけただろう」
「熱があったからだ」
「そうかもしれない。だから、今夜も同じとは限らない。だが、落とさずに済むなら、そのほうがいい」
綾は何も言わなかった。
景継は椀の位置を少し変えた。彼女が左手を伸ばしやすい距離に置く。
「明日、熱が落ち着いていたら、起き上がるときの動きを少し見たい」
「何のために」
「どこに手をつけば楽なのか、確かめるためだ。痛むなら、別の方法を考える」
「そんなことまで、医者がするのか」
「医者がしなければ、誰がする」
綾は、今度こそ小さく笑った。
笑った直後、腹を押さえて顔をしかめる。
「痛むか」
「少し。笑うと響いただけだ」
景継は、その言葉も記録した。
夜は深くなっていった。
景継は敷物の脇に座り、時折、綾の様子を確かめた。身体は疲れていたが、眠るわけにはいかなかった。
しばらくして、綾が口を開いた。
「景継」
初めて、名を呼ばれた。
「何だ」
「私は、助かるのか」
景継はすぐには答えなかった。
熱はまだある。腹痛も続いている。水は飲めており、少量ながら食事も取れた。受け答えは明瞭だった。よい兆しはあるが、確かなことは言えない。
「今は、まだ分からない」
景継は答えた。
「昨夜よりよいところもある。水が飲めて、少し食べられた。だが、腹の痛みと熱が続いている。危険がなくなったとは言えない」
綾は目を閉じた。
「お前は、希望を持たせるのが下手だな」
「そうかもしれない」
「助かると言えばいいものを」
「言って、助からなかったらどうする」
「……恨むかもしれない」
「そうだろうな」
景継は否定しなかった。
「だから約束はしない。その代わり、分からないことを分かったふりもしない。様子を見て、必要なことをする。今、俺にできるのはそれだ」
綾はしばらく彼を見ていた。
「ならば、見ていろ」
「見ている」
「眠るなとは言わない。だが、私が呼んだら、返事をしろ」
「分かった」
景継は敷物の脇に座り直した。
綾は目を閉じた。
遠くで犬が吠えた。風が戸を揺らし、火の残りが小さく爆ぜた。
やがて、綾が静かに言った。
「……ありがとうとは、まだ言わない」
「言わなくていい」
「助かったと決まったわけではないからな」
「そのとおりだ」
「それに、私はまだ、お前を信用していない」
「それも、かまわない」
綾は、それ以上何も言わなかった。
景継は火が消えないよう、薪を一本だけ足した。
夜は長かった。
綾が生き延びる理由を、景継はまだ知らない。身体が持ちこたえるのか、病が峠を越えるのか、彼の手当てがどこまで役に立つのかも分からなかった。
彼にできるのは、変化を見逃さず、必要な手を打つことだけだった。
景継は紙片を取り出し、最後の行に書き加えた。
夜。水、少量摂取。粥、三口。腹痛は持続。受け答え明瞭。経過観察を続ける。
筆を置く。
綾はまだ目を閉じたままだった。
景継は、戸の向こうの闇に耳を澄ませた。
少なくとも今夜、綾は一人ではなかった。




