第四話 一晩の勝負
第四話 一晩の勝負
日が沈む前に、景継は綾のいる小屋へ戻った。
片手には、握り飯を二つ包んだ布と、小さな水筒を提げていた。水筒には、一度沸かしてから冷ました水を入れてある。
綾の姿を見つけた昨日から、まだ一日も経っていない。だが、その水を用意するだけでも、人の手を借りなければならなかった。
村外れの小屋へ近づくと、戸の隙間から薄い煙が流れていた。
景継は戸口で足を止めた。
「綾。私だ。入ってよいか」
しばらくして、内側から声が返った。
「勝手にしろ」
昨日よりも声が掠れていた。
戸を開けると、綾は寝床の上で身体を起こしていた。右手をつき、背を壁に預けている。左の袖は肩口で畳まれ、紐で留められていた。
唇は乾き、額には細かな汗が浮かんでいる。
「食べ物を持ってきた」
「いらぬ」
「昨日から、ほとんど食べていないのだろう」
「食べた」
「何を」
「粥だ」
「いつ」
綾は答えなかった。
景継は握り飯を無理に押しつけず、寝床から少し離れた場所へ置いた。
「食べられるなら、少しずつ食べるとよい。水も持ってきた」
「命令か」
「忠告だ」
「北条の御一門様は、ずいぶんと親切なのだな」
景継は言い返さなかった。
「熱はどうだ」
「ある」
「昨日より強いか」
「知らぬ」
「腹の痛みは」
「まだ痛む」
綾は身体を動かすたび、腹を庇うように右手を添えていた。
「今朝は歩いたか」
「水を汲みに行った」
「どこまで歩いた」
「桶までだ。何だというのだ」
「いまも同じように動けるとは限らぬ。無理に立たなくてよい」
「立てと言ったのは、お前だろう」
「歩けるかを確かめたかった。分かったから、いま立つ必要はない」
綾は何か言いたげに口を開き、結局、黙った。
景継は寝床のそばへ膝をついた。
「もう一度、熱を確かめたい。額に触れてもよいか」
「好きにしろ」
手の甲を額へ当てる。
熱は、昨日より強く感じられた。
「腹も、もう少し診たい。痛みの場所を確かめるだけだ。嫌なら断ってよい」
綾の表情が硬くなった。
「またか」
「無理にはしない」
彼女はしばらく景継を見ていたが、やがて右手で衣の裾を少し持ち上げた。
景継は腹部を目で確かめてから、指先でごく軽く触れた。
綾の肩が跳ねた。
「そこだ」
すぐに手を止める。
「押さなくても痛むか」
「動くと痛む。じっとしていれば、少しはましだ」
「吐き気はあるか」
「少し」
「吐いたか」
「まだだ」
景継は、それ以上、腹を押さなかった。
熱を伴う下腹部の痛みには、軽い不調から命に関わる病まで、いくつもの可能性がある。腕を失った傷と関係があるのか、それとも別の原因なのかも分からない。
この場で病名を決めることはできなかった。
「今夜は、ひとりで水を汲みに行くな」
「私は、そこまで弱くない」
「弱いかどうかの話ではない。倒れて、別の傷を負う必要はないだろう」
綾は不満そうに眉を寄せたが、言い返さなかった。
景継は水筒の蓋を開けた。
「少し飲め」
「毒でも入っているのか」
「そう思うなら、私が先に飲もう」
景継は一口飲み、水筒を彼女のそばへ置いた。
綾はしばらく見ていたが、やがて右手を伸ばした。
一口、もう一口。
喉を通る水を確かめるように、ゆっくりと飲んだ。
「食べ物も、あとで少し試してみるとよい」
「いらぬ」
「食べられぬなら、無理に食べなくてよい」
「……分かっている」
苛立ちを含んだ声だった。
景継は、それ以上勧めずに小屋を出た。
夕闇が濃くなっていた。田の向こうから牛の鳴き声が聞こえ、村の家々には灯がともり始めている。
景継は、近くの家へ向かった。
「ひと晩だけ、綾の様子を見てもらえないだろうか。具合が悪くなったとき、気づいてくれればよい」
最初に声を掛けた男は、すぐに首を横に振った。
「申し訳ございませぬ。明日は早くから田へ出ねばなりませぬ」
「夜通し起きている必要はない。時折、様子を見てくれるだけでよい」
「ですが……」
男は言葉を濁した。
景継は無理に頼み込まなかった。
「分かった。無理を言った」
二軒目も、すぐには引き受けなかった。
三軒目では、女が戸口に立ったまま、困ったように首を振った。
「その方には、近づかぬ方がよいと聞いております」
「誰から聞いた」
「……皆が」
景継は女を見た。
「綾は熱を出している。腹も痛む。今夜、具合が悪くなったときに、誰かが気づいてくれればよい。それだけだ」
女は視線を落とした。
「……考えておきます」
景継は、それ以上頼まなかった。
村人たちにも、それぞれの暮らしがある。明日の仕事を休めば家族が困る。よく知らない相手の世話を引き受け、何かあったときに責められることも恐れているのだろう。
頼めば誰もが応じるわけではない。
景継は、ひとりで小屋へ戻った。
綾は横になっていた。
握り飯は、半分ほど食べられていた。
景継は、それを見ても何も言わなかった。
「水は、もう少し飲めそうか」
「……いまは、いらぬ」
「分かった」
景継は火のそばへ腰を下ろした。隙間風が床を這い、夜が深まるにつれて小屋の中は冷えていった。持ってきた布を綾の足元へ置く。
「寒ければ使え」
「いらぬ」
「そうか」
それ以上、勧めなかった。
薪が小さく爆ぜた。
しばらくして、綾が口を開いた。
「お前は、なぜここまでする」
景継は顔を上げた。
「何がだ」
「食べ物を持ってきて、水を持ってきて、夜まで付き合う。私は、お前の家臣でも親類でもない。助けたところで、何の得にもならぬ」
「得をするために来たのではない」
「では、何のためだ」
景継は少し考えた。
「病人だからだ」
綾は乾いた笑いを漏らした。
「ずいぶんと簡単に言う」
「簡単ではない。できることには限りがある」
「ならば、できぬことも多いだろう」
「そのとおりだ」
「私の腕も戻らぬ」
「戻らぬ」
「では、私を助けたところで、何が残る」
景継はすぐには答えなかった。
綾は、彼の答えを待っているようだった。だが、何を言っても納得するとは思えなかった。
「何が残るかは、いま決めなくてよい」
「……勝手な男だ」
「そうかもしれぬ」
「人の気持ちも知らずに」
「知らぬことは多い。お前が何を経験し、何を失ったのか、私はまだ知らない。知ったふりをするつもりもない」
綾の右手が、寝床の布を握った。
「ならば、放っておけ」
「それはできぬ」
「なぜだ」
「病人だからだ」
同じ答えだった。
綾は顔を背けた。
景継も、それ以上は言わなかった。
やがて彼女は目を閉じた。眠ったのか、話を終わらせたかっただけなのかは分からない。
景継は額に手を当て、呼吸を確かめた。
熱は依然として強かった。
夜半を過ぎた頃、綾が身じろぎした。
「……水」
景継はすぐに水筒を手に取った。
「飲めるか」
綾は小さく頷いた。
景継は身体を無理に起こさせず、彼女が自分で水筒を持てるように位置を整えた。綾は右手で水筒を握り、少しずつ口へ運んだ。
二口飲んだところで、顔をしかめた。
「腹が痛むか」
「……少し」
「吐き気は」
「ある」
景継は水筒を下ろした。
「いったん休もう。気分が落ち着いたら、また少し飲めばよい」
綾は目を閉じた。額には汗が浮かんでいる。
景継は手拭いを水で湿らせ、汗をそっと拭った。綾は抵抗しなかった。
信頼しているのか、疲れて抵抗する力もないのか。それは分からなかった。
彼は火のそばへ戻り、時折、綾の様子を確かめた。
熱。下腹部の痛み。吐き気。
原因は分からない。薬を使うにも、何が起きているのか判断する材料が足りなかった。
薪は残り少なくなっていた。
景継は外へ出て、追加の薪を取りに行くべきか考えた。火を絶やせば冷える。だが、そばを離れている間に容態が変わるかもしれない。
結局、戸口から手の届くところに積んであった細い枝を拾い、火にくべた。
現代の救急外来なら、看護師に観察を頼み、別の医師に相談し、必要な検査を進めることができた。判断に迷えば、他の者の知識を借りることもできた。
ここには、その誰もいない。
景継は膝を抱えるように座り、行灯の火を見つめた。
知識があっても、できることは限られている。
それでも、目の前の変化を見逃すわけにはいかなかった。
夜明け前、綾が再び目を覚ました。
「……まだ、いるのか」
「いる」
「帰れと言ったはずだ」
「聞いた」
「それなのに、なぜ」
「まだ、様子を見る必要があるからだ」
綾はしばらく彼を見つめ、それから視線を落とした。
「……熱は、下がったか」
景継は額に手を当てた。
まだ熱はある。ただ、夜半に比べれば、わずかに和らいだようにも感じられた。
「少し落ち着いたようには思う。だが、まだ熱がある。よくなったと決めるには早い」
「そうか」
綾は小さく息を吐いた。
腹痛は続いていた。吐き気も消えていない。
景継は、夜の間に分かったことを書き留めた。熱は夜半に強く、明け方にはやや落ち着いたように感じられる。腹痛は続き、吐き気もある。水分は少量ずつ取れた。握り飯は半分ほど食べた。
確かな体温は測れず、病名も分からない。
分かったことと、分からないことを混ぜない。それだけは守らなければならなかった。
夜が明けた。
景継は立ち上がった。膝が固まり、腰に鈍い痛みが走る。夜通し座っていたせいだろう。
綾は寝床の上から彼を見ていた。
「もう帰るのか」
「いったん戻る。食べ物と水を用意して、また来る」
「……そうか」
昨日なら、帰れと言っていたはずだ。
景継は、その変化を覚えておいた。だが、それを信頼の証だと決めつけることはしなかった。
人の心は、額に触れたり、言葉を交わしたりするだけで分かるものではない。
景継は戸口で振り返った。
「今朝も、ひとりで水を汲みに行くな。痛みが強くなったり、吐くことが続いたりしたら、近くの者に知らせてくれ」
「分かった」
その返事を聞いて、小屋を出た。
朝の空気は冷たかった。村では、すでに人々が仕事を始めている。田へ向かう者。荷を運ぶ者。井戸端で水を汲む者。昨日と同じ暮らしが、今日も動き出していた。
景継は家へ向かって歩いた。
綾の腕は戻らない。腹痛の原因も、まだ分からない。これから熱が下がる保証もなかった。
それでも、一晩前と比べれば、綾は水を飲み、握り飯を半分食べ、自分の症状を言葉にした。
景継は、それを治った証拠とは考えなかった。
ただ、次に何をするべきかを決めるための手掛かりとして、覚えておいた。
弥助の様子も見なければならない。綾の熱と腹痛も、もう一度確かめる必要がある。
自分ひとりの手で、すべてを行うことはできない。
誰に何を頼めるのか。それも考えなければならなかった。
日が昇る。
北条の旗は、まだ立っていた。
景継は歩みを速めた。家へ戻り、必要なものを整える。
そして、もう一度あの小屋へ行くつもりだった。




