第三話 役立たずと呼ばれた姫武者
第三話 役立たずと呼ばれた姫武者
弥助の傷は、まだ癒えていなかった。
身体を起こそうとすれば顔を歪め、咳ひとつするにも脇腹を庇う。傷口を覆った布には、ときおり血が滲んだ。
景継は朝夕、男の家を訪ねた。
熱は高くない。呼びかけへの返事も、以前よりはっきりしている。だが、腹の内側で何が起きているかまでは分からなかった。傷口の周囲を確かめ、痛みの変化を尋ねる。返事を聞き、呼吸を見て、脈を取る。
その日の弥助は、昨日よりも長く目を開けていた。
「痛みはどうだ」
「動かなければ、何とか」
「咳をしたときは」
「痛みます」
弥助は脇腹に手を添えた。
景継は傷口を覆う布を確かめた。新しい出血は多くない。だが、それだけで安心することはできなかった。
「無理に起き上がるな。息苦しさが増したり、痛みが強くなったりしたら、すぐに知らせてくれ」
「田が……」
「まずは身体を治すことだ」
弥助は口を閉じた。
景継は、それ以上は言わなかった。田のことを忘れろと言っても、家の暮らしは待ってくれない。だが、今ここで約束できることもなかった。
家を出る前に、景継は女房へ声を掛けた。水と食事を切らさないこと。傷口の布が濡れたり汚れたりしたら、無理に剥がさず、知らせること。弥助の様子が変われば、すぐに人を呼ぶこと。
女房は何度も頷いた。
その日も、景継は使い終えた布をまとめていた。
清潔な布は、もう多くない。洗い、湯を通し、乾かして使っているが、汚れが落ちきらないものまで傷に当てるわけにはいかなかった。
「景継様」
戸口から声がした。
若い男が立っていた。北条家に仕える足軽で、年は景継と大して変わらない。
「お取り込み中、恐れ入ります。少し、お話がございます」
「何があった」
「この近くに、ひとりの女がおります。武家の出と聞いておりますが、いまは身寄りもなく、具合が悪いようで……」
「医師に診せたのか」
「それが、誰も近寄ろうとせぬのです」
「なぜだ」
足軽は、答えるまでに間を置いた。
「片腕がないのでございます」
景継は男を見た。
「それが、どうした」
「……は?」
「片腕がないことと、具合が悪いことに、何の関わりがある」
足軽は困ったように視線を逸らした。
「その女は、もとは武家に仕えていたそうです。戦で腕を失い、働けなくなった。それで、以前の主筋からも離され、いまは誰の世話にもなれずにいるとか」
「それで、医師にも診せぬのか」
「診せても、どうせ治らぬと……」
言いかけて、足軽は口を閉じた。
景継は、手元の布を置いた。
「どこにいる」
「村外れの、古い小屋にございます」
「案内しろ」
足軽は戸惑った顔をした。
「よろしいのでございますか」
「何がだ」
「その女は、もう武士としては使いものにならぬと……」
「お前は、私に診に行けと言ったのではないのか」
足軽は返事をしなかった。
景継はそれ以上責めず、弥助の様子を確かめてから家を出た。戸口で女房に、戻るまでの間に変化があれば人を呼ぶよう念を押した。
村外れへ向かう道には、刈り取られた田が広がっていた。刈り株の残る土は乾き、踏むと固い音がした。農家の軒先には筵が広げられ、収穫した作物が干されている。
景継たちが通ると、人々は頭を下げた。
北条一門の者である景継は、十八歳の若者にすぎなくとも、村人から見れば軽々しく扱える相手ではない。その立場があれば、誰かを助けるために人を動かすこともできる。
しかし、命じればすべてが解決するわけではなかった。弥助の家でも、水や薪、布を用意するだけで人手が要った。今、別の患者を診に行けば、その間に弥助の容態が変わる可能性もある。
景継は、出てくる前に弥助の呼吸を確かめていた。女房にも、変化があれば人を呼ぶよう伝えてある。
それでも、知らせを聞かなかったことにはできなかった。
「その女の名は」
「綾と申すそうです」
「年は」
「二十を少し越えたあたりかと」
「どこの家に仕えていた」
「詳しくは存じませぬ。ただ、戦場で武功を立てたこともあるとか」
景継は頷いた。
武家の女が城を守り、兵糧や武具を管理し、ときには武器を取ることはあった。だが、戦場で働いた者が、戦場を離れた後も同じように扱われるとは限らない。
詳しい事情は、本人に聞かなければ分からなかった。
小屋は、道から少し離れた場所にあった。屋根の一部が傷み、壁板には隙間がある。戸口には割れた桶と古い薪が置かれていた。人が暮らすには、あまりに粗末な場所だった。
足軽が戸口の前で足を止めた。
「ここにございます」
景継は小屋の中へ声を掛けた。
「誰かいるか」
返事はなかった。
「北条景継だ。具合が悪いと聞いて参った。入ってよいか」
内側で何かが動いた。
やがて戸がわずかに開き、隙間から女の目が覗いた。
鋭い目だった。頬は痩せ、唇は乾いている。髪は乱れ、衣には汚れがこびりついていた。
「何の用だ」
掠れた声だった。
「具合が悪いと聞いた。診せてほしい」
「誰がそんなことを言った」
女の目が足軽へ向いた。
「余計なことを」
「お前、熱があると聞いたぞ」
「だから何だ」
「このままでは……」
「帰れ」
女は短く言った。
「私は誰の世話にもならぬ」
景継は戸口から動かなかった。
「世話になるかどうかは、診てから決めればよい」
「診ても何も変わらぬ」
「そうとは限らぬ」
「私の腕は、戻らぬ」
女は、そう言った。
景継は彼女の左側を見た。袖は肩のあたりから畳まれ、結ばれている。その下に腕はなかった。袖口の先は空で、風に揺れていた。
失われた腕を戻すことはできない。
そのことと、いま彼女が熱を出していることは、別に考えなければならなかった。
「腕を戻すために来たのではない」
「では、何をしに来た」
「熱があると聞いた。身体を診たい」
「……医者の真似事か」
「そう思うなら、そう思っていて構わぬ」
景継は、少しだけ頭を下げた。
「ただ、診もせずに何もできぬと決めるつもりはない」
女は彼を睨んでいた。
景継は、すぐに言葉を重ねなかった。戸口の向こうから、湿った布と古い灰の匂いがした。女の右手は戸の縁を握ったまま、白くなるほど力が入っていた。
「診せれば、何かを返せと言うのだろう」
女が言った。
「銭か。奉公か。それとも、使いものにならぬこの身を、どこかへ押しつけるつもりか」
「何も約束はできぬ」
景継は答えた。
「お前がこれからどこで暮らすかも、私にはまだ分からない。腕を失う前と同じ暮らしに戻れるとも言えぬ」
女の目が細くなった。
「ならば、何をしに来た」
「熱があるからだ」
景継は、彼女を見た。
「それを診る前から、放っておいてよいとは思わぬ」
女は、しばらく彼の顔を見ていた。
やがて戸がもう少し開いた。
「入れ」
それだけ言って、女は背を向けた。
小屋の中は薄暗かった。土間には使い古した鍋と小さな水桶がある。奥の寝床には湿った布が敷かれ、食べ物らしいものは見当たらない。壁際には、鞘に収められた刀が一本、横たえられていた。
景継は女の顔を見た。
額には汗が浮かんでいる。呼吸はやや速く、身体を動かすたびに顔をしかめた。
「いつから熱がある」
「知らぬ」
「昨夜は眠れたか」
「眠れるほど、気楽な暮らしではない」
「食事は」
「食べている」
「何を」
女は答えなかった。
景継は鍋と水桶を見た。鍋は空で、水桶にもわずかな水が残っているだけだった。
「最後に食べたのはいつだ」
「……昨日」
「何を食べた」
「粥だ」
「どれほど」
「うるさい」
女が睨んだ。
景継は、それ以上尋ねなかった。答えを拒む相手から、同じ問いを重ねても、必要なことは分からない。
「熱を確かめる。額に触れてもよいか」
「好きにしろ」
景継は手の甲を額に当てた。熱い。だが、手で触れた感覚だけでは正確な体温は分からない。熱があることは確かでも、原因までは判断できなかった。
「腕を失ったのは、いつだ」
女の表情が硬くなった。
「なぜ、そんなことを聞く」
「傷が治っているか確かめたい」
「治っている」
「傷口を見せてほしい」
「断る」
返事は即座だった。
景継は頷いた。
「無理に見るつもりはない。ただ、傷が腫れている、赤くなっている、膿が出ている、強い痛みが続いている。そうしたことがあれば教えてほしい」
女は黙っていた。
「傷は塞がった」
やがて、彼女は言った。
「ひと月ほど前だ」
「それから熱が出たのか」
「熱など、どうでもよい」
「どうでもよくはない」
景継の声が少し強くなった。
女は顔を上げた。
「お前は腕を失ったのだろう」
「……そうだ」
「傷が塞がったからといって、身体の中まで元に戻ったとは限らぬ。熱があるなら、何か起きている可能性がある。腕とは関係がないかもしれぬし、関係があるかもしれぬ。診なければ分からぬ」
「だから、診てどうする」
女の声には怒りがあった。
「腕は戻らぬ。武器も、前のようには扱えぬ。私を雇う者もおらぬ。家へ戻ることもできぬ。それで、何を治すというのだ」
景継はすぐには答えなかった。
彼女の言葉を否定することはできない。腕は戻らず、以前と同じように刀を扱える保証もない。彼女がどこを追われ、何を失ったのか、景継にはまだ分からなかった。
壁際の刀に目をやる。
鞘には傷があり、柄の巻き革も擦り切れていた。長く使われてきたものだろう。
「お前は、戦場で腕を失ったのか」
女は答えなかった。
「誰かを守ろうとしたのか」
「……黙れ」
低い声だった。
景継は、それ以上尋ねなかった。
「水は飲めるか」
「飲める」
「腹は痛むか」
女の目がわずかに動いた。
「少し」
「いつからだ」
「……二日前」
「どこが痛む」
女は右手で下腹部を示した。
景継はその仕草を見た。
熱があり、食事が十分に取れておらず、腹痛もある。腕の傷だけを見ていては、原因を取り違えるかもしれない。
「腹を見せてもらえるか」
「何をする」
「痛む場所を確かめたい。無理に触るつもりはない。嫌なら断ってよい」
女は景継を見つめた。
「診ると言いながら、断ってよいのか」
「嫌がる相手を押さえつけて診ても、何が分かったのか、正しく確かめられるとは限らぬ」
「ずいぶんと、悠長な医者だな」
「そうかもしれぬ」
女は鼻で息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。
やがて、右手で衣の裾を少し持ち上げた。
景継が痛みの場所を確かめようとすると、女は顔をしかめた。彼は手を止めた。
「そこか」
「……ああ」
「押さなくても痛むか」
「動けば痛む」
景継はそれ以上、強く触れなかった。
原因はまだ分からない。熱と腹痛が、同じ病から来ているのかどうかも判断できなかった。ここで分かったふりをして薬を使うわけにはいかない。
「食べられるものを用意する。水も、できるだけ清潔なものを飲め。腹の痛みが強くなったり、熱が増したりしたら、すぐに知らせろ」
「食べ物など、どこにある」
「用意する」
「施しはいらぬ」
「施しだと思うなら、あとで返せばよい」
女は唇を引き結んだ。
「銭など持っていない」
「銭を求めているのではない」
「ならば、何を求める」
景継は少し考えた。
「いまは、何も求めぬ」
女は、信じられないものを見るような顔をした。
「……そんな話があるものか」
「あるかどうかは、これから決まる」
「私が礼を言うとでも思っているのか」
「思っていない」
景継は立ち上がった。
「明日、また来る。食べ物と水を持ってくる。診察を受けたくないなら、無理にはしない。だが、熱と腹痛が続くなら、放っておくべきではない」
女は何も言わなかった。
景継が戸口へ向かうと、背後から声がした。
「名を、もう一度言え」
振り返る。
「北条景継だ」
「北条……景継」
女は、その名を確かめるように繰り返した。
「北条の者が、何のために私を診る」
「お前が具合を悪くしているからだ」
「それだけか」
「今は、それだけだ」
女は目を伏せた。
「……覚えておく」
礼ではなかった。約束でもなかった。
景継はそれ以上を求めず、小屋を出た。
足軽は少し離れたところで待っていた。
「いかがでございましたか」
「熱がある。腹痛も二日前から続いている。原因はまだ分からぬ」
「腕の傷は……」
「それだけが問題ではない」
景継は歩き始めた。
「身体を診る前から、役に立たぬと決めるな」
足軽はうつむいた。
「……申し訳ございませぬ」
「お前を責めているのではない」
景継は、道の先を見た。
「ただ、そういうものだと、誰もが思い込んでいる」
しばらく歩いてから、足軽が口を開いた。
「しかし、武士が武士として働けぬとなれば、何をして生きればよいのでございましょう」
景継は足を止めた。
簡単には答えられない問いだった。
別の仕事をすればよい、と言うのは簡単だ。だが、その仕事があるのか。誰が雇うのか。身体に不自由を抱えた者に、どこまで働ける余地があるのか。
「それを、考えねばならぬのだろう」
景継は答えた。
「働けぬ者を、ただ捨てるだけでよいのか。私は、そうは思わぬ」
足軽は黙っていた。
村へ戻る道すがら、弥助の家が見えた。戸口には女房が立っている。景継に気づくと、深く頭を下げた。
景継も軽く応じた。
弥助の傷は、まだ治っていない。綾の熱も、原因が分からないままだった。
景継は家へ戻ると、手近な紙を取り出した。
墨を磨り、筆を取る。
まず、弥助の名を書いた。
負傷した日。傷の場所。出血の様子。意識と呼吸の変化。熱の有無。食事の状況。
その下に、綾の名を書いた。
片腕を失っていること。熱があること。腹痛が二日前から続いていること。食事が十分に取れていない可能性があること。
分からないことは、分からないと記した。推測を事実のように書くことは避けた。
書き終えたあと、景継は二人の名を見比べた。
紙の上では、二人とも同じように患者だった。
だが、紙に名を書いただけで、二人の暮らしが変わるわけではない。
明日、綾の熱がどうなっているかを確かめる。腹痛が悪化していないかを診る。食べ物と水を届ける。弥助の傷の経過も、引き続き見なければならない。
どちらか一人を見れば、もう一人のことを忘れてよいわけではなかった。
景継は記録を畳み、手元に置いた。
それから、明日持っていく食べ物と水を用意するよう、人を呼びに立った。




