第二話 薬のない世界
第二話 薬のない世界
夜半を過ぎても、北条景継は眠らなかった。
弥助の寝かされた部屋では、行灯の火が小さく揺れていた。油を惜しんで芯を短くすれば、傷口が見えにくくなる。火を大きくすれば、朝まで保たないかもしれない。
景継は灯明を少しだけ患者に近づけ、男の顔を覗き込んだ。
呼吸は続いている。
呼びかけると、弥助は時折、薄く目を開けた。だが、返事は途切れがちで、すぐに瞼が閉じる。傷を覆った布には、まだ血が滲んでいた。
景継は男の手首に指を当てた。
脈は速かった。
指を置き直し、拍の間隔を確かめる。先ほどから、大きな変化はない。
痛みや恐怖でも脈は速くなる。これだけで出血の程度を決めることはできない。景継は脈から指を離し、弥助の顔を見た。唇の色、額の汗、胸の上下。傷を覆う布にも目を戻す。
新しい血が、布の端まで広がっている様子はなかった。
「弥助。聞こえるか」
「……はい」
「痛みは、先ほどより強いか」
男は眉を寄せた。
「……分かりませぬ」
「そうか」
景継は、それ以上答えを求めなかった。
傷は腹部にある。外から見える傷口だけでは、内側で何が起きているのか分からない。出血が続いているのか、内臓に傷が及んでいるのか。ここでは確かめる術がなかった。
景継は傷を覆う布の端を整えた。余計に傷口を開かぬよう、手つきは慎重だった。
このまま朝まで持ちこたえてくれればよい。
願いが浮かんだところで、手元にできることが増えるわけではない。
現代なら、血圧を測り、検査を行い、必要に応じて手術の準備を進めることができた。いまは脈を取り、呼吸を見て、傷口の変化を確かめるしかない。見えないものを見えないままにしておくほかない場面が、あまりにも多かった。
景継は、弥助の胸が上下するのを見守った。
戸口の向こうから、女の声がした。
「景継様。少し、よろしいでしょうか」
弥助の女房だった。
景継が戸口へ出ると、女は両手を胸の前で握りしめていた。泣き腫らした目の周りに、乾いた涙の跡が残っている。
「どうした」
「この者に、何か薬を飲ませることはできませぬでしょうか」
女は室内へ目を向けた。
「痛みが強いようで……見ているだけでは、どうにも」
景継はすぐに答えられなかった。
頭の中には、痛みを和らげる薬も、感染を抑える薬も浮かんでいた。だが、名前を知っていることと、ここで使えることは別だった。
「薬種を扱う者は、この辺りにいるか」
「城下へ参れば、何人かは。ただ、今からでは……」
「家に何か残ってはいないか」
「腹を壊したときに飲むものが少し。それから、傷に塗る薬がございます」
「持ってきてくれ。中身を確かめたい」
女は頭を下げ、足早に家へ戻っていった。
景継は再び弥助のそばへ座った。
脈と呼吸は確かめられる。傷口から流れる血も、目に見える範囲なら追える。だが、腹の中の出血は分からない。薬を取り寄せるにも時間がかかり、手に入った薬がこの傷に適しているとも限らなかった。
やがて女が、小さな包みをいくつか持って戻ってきた。
中には乾燥した草と褐色の粉末があり、別の布には油を混ぜた軟膏らしきものが塗られていた。
「これは、何と呼ぶ」
「腹の痛みによいと、薬師から分けてもらったものにございます。こちらは、切り傷に塗るものだと」
「薬の名は分かるか」
女は首を横に振った。
景継は包みを見比べた。草の種類も、粉末の成分も分からない。保存の状態も、どのように調合されたかも分からなかった。
腹の痛みに使う薬が、腹部を傷つけた患者に適しているとは限らない。軟膏も、深い傷に使ってよいものか判断できなかった。
「これは、今は使わぬ」
女の顔から血の気が引いた。
「ですが、薬師は効くと……」
「その薬が悪いと言っているのではない。弥助の傷に使ってよいものか、私には分からぬのだ」
景継は包みを返した。
「分からぬまま使うわけにはいかぬ」
女は包みを受け取ったが、指先に力が入っていた。
何かしてほしい。何かをすれば、痛みが少しでも和らぐかもしれない。そう願っているのだろう。
景継にも、その気持ちは分かった。
だが、願いに応えるためだけに、確かめられないものを使うことはできなかった。
「今夜は、そばにいてやってくれ。息づかいや顔色が急に変わったら、すぐに呼んでほしい」
「はい」
「水は、意識がはっきりしていて、むせずに飲めるときだけ、少しずつだ。無理に飲ませてはいけない」
女は何度も頷いた。
景継は包みを女に持たせたまま、再び弥助の様子を確かめた。呼吸は続いている。傷を覆う布にも、目立った変化はなかった。
薬を使わないと決めたからといって、何もしなくてよいわけではない。
景継は患者のそばに座り直した。
夜は長かった。
女が疲れてうとうとすると、景継が声を掛けて起こした。景継自身も、目を閉じればそのまま眠り込みそうになるたび、弥助の胸の動きを確かめた。
夜明けが近づくころ、男は深く眠っているように見えた。
呼吸は続いている。呼びかければ、かすかに反応もあった。
景継は脈を取り直した。先ほどより力が戻ったようにも感じられる。だが、指先で捉えた感触だけで、容態が好転したと決めつけることはできなかった。
東の空が白み始めた。
行灯の油はほとんど尽きていた。火のそばには、使い終えた布がまとめられている。湯を沸かすために使った薪も、夜のうちにかなり減っていた。
景継は土間へ出た。
水桶を覗くと、底が見え始めている。洗って再び使える布もあるが、汚れが落ちきらないものは分けておかなければならない。清潔な布を用意するにも、水と火と手間が要る。
夜通し手伝っていた男たちは、土間の隅で疲れ切った顔をしていた。
「少し休んでくれ。あとは私が見る」
「しかし、景継様もお休みになっておりませぬ」
「交代で見ればよい。誰か一人が倒れたら、余計に手が足りなくなる」
男たちは顔を見合わせたあと、頭を下げた。
景継は水桶を持ち上げようとし、手を止めた。
残りの水を使い切れば、次に必要な湯を用意できなくなる。井戸まで汲みに行く者も必要だった。
水を汲む者。
薪を集める者。
布を洗う者。
患者のそばを離れずにいる者。
どれも必要な仕事だった。だが、誰かがそれを担えば、その者の家の仕事は後へ回る。
景継は戸を開けた。
村では、いつもの朝が始まっていた。牛を引く者があり、水を汲む者があり、田へ向かう者の姿も見える。
その中で、弥助の家だけは昨日までの暮らしに戻れずにいた。
男が再び働けるようになるかは分からない。女房は看病のため、家を離れにくい。秋の田仕事は待ってくれない。
景継は道の先を見た。
布を織る者がいる。薬草を知る者もいる。荷を運ぶ者もいる。水も薪も、村のどこかにある。
だが、今この家で必要になったとき、必要なだけのものが手元にあるとは限らない。
誰かに頼めば、その者の暮らしにも負担がかかる。
景継は、すぐに答えを出せなかった。
まずは弥助の容態を見続けるしかない。
昼近く、弥助は目を開けていた。
顔色はまだ悪い。だが、呼びかけに対する返事は、夜よりもはっきりしていた。
「……景継様」
「気分はどうだ」
「身体が、重うございます」
「傷は痛むか」
「痛みます。ですが……昨日よりは」
景継は男の顔を見た。返事ができるようになったことは確かだった。だが、それだけで危険が去ったとは言えない。腹の傷は、見えているところだけで判断できなかった。
「腹が急に痛み出したり、張ったりしたら、すぐに知らせろ。息苦しくなったときもだ。無理に起き上がるな」
「承知しました」
弥助はしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……稲が」
また、その話だった。
景継は遮らなかった。
「田のことが気になるか」
「このままでは、刈り入れが……」
男は言い終える前に、顔をしかめた。
「人を雇う銭など、ございませぬ」
「親類や近所に頼めないか」
「この時分は、どこの家も忙しゅうございます」
景継は返す言葉を失った。
助け合いがないわけではない。だが、皆が自分の仕事を抱えている。誰かの田を手伝えば、自分の田へ戻る時間が減る。看病のために家を空ければ、その間の仕事は誰かが引き受けなければならない。
善意があっても、余裕がなければ手は伸ばせない。
「まずは身体を治すことだ」
景継は言った。
「田のことは、容態を見ながら考えよう」
弥助は答えず、目を閉じた。
景継はそれ以上、約束をしなかった。どうにかすると口にするのは簡単だ。だが、誰に何を頼めるのかさえ、まだ分かっていない。
家を出ると、秋の陽が道を照らしていた。
村人たちは働いている。昨日と変わらないように見える風景の中で、弥助の家だけが、ひとつ歯車を失ったように止まっていた。
景継は足元の土を見た。
今夜も、傷の様子を見なければならない。水と薪を確保し、布を整え、交代で患者を見守る者を決める。薬師にも話を聞く必要があるだろう。薬の名だけでなく、何に使い、どのように扱ってきたのかを知らなければ、判断のしようがない。
考えることは多かった。
まずは、今夜までに必要なものを確かめる。
景継は家へ戻った。
弥助の呼吸を、もう一度確かめるために。




