第四十八話 救命連鎖
第四十八話 救命連鎖
車輪の軋む音が、道の先まで続いていた。
負傷者を乗せた荷車が、狭い坂道の途中で止まっている。片側の車輪が傾き、木枠の継ぎ目から乾いた音がした。車を引いていた男たちは手綱を握ったまま、互いの顔を見合わせている。
「押せば、動くんじゃないか」
「動いたところで、車輪が外れたらどうする」
言い争う声の向こうで、荷台に横たわる男が身じろぎした。隣の負傷者が苦痛に顔をしかめ、荷台の縁をつかんでいる。
景継は車輪の前にしゃがみ、地面と車軸を確かめた。
「今は動かさないでください。車輪が外れれば、乗っている人まで巻き込みます」
「だが、このままでは日が暮れるぞ」
「分かっています。だから、先に支えを作ります」
景継が顔を上げると、綾はすでに車体の傾きを見ていた。周囲の地面を確かめ、使えそうな木材を探している男に声をかける。
「そこの板を持ってきてくれ。長い方だ。いや、それでは薄い。荷台の下に入れても折れないものを探せ」
「どこへ入れるんだ」
「私が指示する。勝手に手を差し込むな」
男が板を探しに走った。
綾は車体から少し離れ、荷車を支える位置を指で示した。
「まず人を下ろす。乗っている者は、こちら側から一人ずつだ。車輪のそばには立つな」
「全員を下ろすのか」
「今のまま荷を動かす方が危ない。急がせるな。痛みの強い者から、運べるかどうかを確かめて移す」
千代が荷台の脇へ回った。
「荷物も分けます。水と布は先に出してください。食料は残りを確かめてからです。壊れやすい物は、そちらの敷物の上へ」
「全部下ろしたら、積み直すのに時間がかかるぞ」
「今ここで失えば、あとで困る物もあります」
千代は帳面を開いた。
荷の名前を一つずつ確かめ、残っている物と、すぐ使える物を分ける。数が合わない物は、その場で誰かに尋ねた。分からないものを、あることにはしなかった。
小夜は荷台の負傷者のもとへ向かった。
「痛むところを教えてください。動かす前に確かめます」
「脚だ。さっきから、ずっと痛む」
「脚のほかには?」
「……胸が苦しい」
小夜の視線が男の顔へ移った。
男は肩で息をしていた。先ほど見たときより返事が短い。顔色もよくないように見えたが、陽の当たり方だけで決めつけることはできなかった。
「景継様」
小夜が呼ぶと、景継はすぐに振り向いた。
「胸が苦しいそうです。呼吸も、先ほどよりつらそうに見えます」
「分かりました。ほかの者は?」
「今、確かめています。まだ全員の状態を見終えていません」
「そのまま続けてください。変化があれば、すぐ知らせてください」
景継は男のそばに膝をついた。
「いつから苦しいのですか」
「さっきからだ。いや……もう少し前かもしれん」
「横になっているときと、身体を起こしたときでは、どちらが楽ですか」
男は答えようとして、息を継いだ。
景継は急かさず、呼吸の様子と意識の反応を確かめた。胸の苦しさの原因は、この場ですぐに分かるとは限らない。無理に身体を動かすことは避け、ほかに危険な変化がないかを確かめる。
「今は、無理に立たないでください。息が苦しくなったら、すぐに知らせてください」
「……車を直さなきゃ、みんな先へ行けないんだろう」
「あなたが無理をして、さらに具合を悪くすれば、運ぶ人も増えます。今は身体を休めてください」
男は不満そうに眉を寄せたが、言い返さなかった。
小夜は男のそばに残り、呼吸と返事の変化を見続けた。景継が次の患者へ移ろうとしたとき、彼女は帳面を開き、時刻を書き込んだ。
その手を見て、景継は小さくうなずいた。
道の向こうから声が飛んできた。
「こちらにも、運んでほしい者がいる!」
振り向くと、二人の男が、歩けない負傷者を支えながら坂を上ってきていた。一人は肩を貸し、もう一人は腰を支えている。負傷者の足は地面を引きずり、支える側も息を切らしていた。
「この先に、ほかの者がいるのか」
綾が尋ねた。
「少し後ろに、家族を待っている者がいます。ですが、こいつを先に運ばないと……」
男の声が途切れた。
荷車は動かない。患者は苦しそうに息をし、道の向こうからは新たな負傷者が運ばれてくる。水も布も、人手も限られていた。
景継は一度、周囲を見渡した。
すべてを自分の前に集め、一人ずつ診ていくわけにはいかない。
「綾さん、荷車の修理と、搬送できる人数の確認をお願いします。危険な位置にいる人は、先に離してください」
「分かった」
「小夜さんは、患者の状態を続けて見てください。呼吸や返事が変わったら、時刻も一緒に記録してください。判断に迷ったら、そのまま知らせてください」
「はい」
「千代さんは、水と布の残りを確かめてください。どこに何があるか、ほかの人にも分かるようにしておいてほしいのです」
「承知しました」
それぞれが動き出した。
景継は運ばれてきた負傷者の様子を確かめた。身体を支えてきた男たちにも、どこで、どのように負傷したのかを尋ねる。すべての話が正確とは限らない。だが、本人の状態を確かめるために必要なことは聞ける。
男の脚には傷があり、歩かせるのは難しそうだった。景継は無理に立たせず、身体を支える者たちに、まず安全な場所へ移すよう頼んだ。
そのとき、荷車のそばで木の割れる音がした。
「危ない!」
荷台を支えていた木材がずれ、車体がゆっくりと傾いた。
そばにいた若い男が、反射的に荷車へ飛びついた。両手で車体を押し戻そうとする。
「手を離せ! そのままでは、お前まで巻き込まれる!」
綾の声が道に響いた。
男は驚いて動きを止めた。荷車はなおも傾いている。
「そこに立っていては駄目だ。車輪の外へ回れ。ほかの者は荷台に触るな!」
綾は安全な位置を指し示し、男たちを動かした。無理に車体を押し戻そうとはしない。まず荷の重さを減らし、支えを入れ直す必要があった。
「千代、先に下ろす荷はどれだ」
「水と布を残して、こちらの箱からです。中身が分からないものは、まだ動かさないでください。底が傷んでいます」
「小夜、負傷者をこちらへ」
「分かりました。皆さん、車輪から離れてください。こちらへ一人ずつお願いします」
小夜は負傷者を誘導しながら、足元の悪い場所を避けるよう声をかけた。急がせるのではなく、誰がどこを通るのかをはっきりさせる。人が一斉に動けば、別の事故が起きる。
荷台から下ろされた男が、苦しそうに息を吐いた。
「胸が……」
小夜は足を止めた。ほかの負傷者を支えていた男に、代わりに肩を貸すよう頼む。
「こちらの方を、少しでも楽に息ができる姿勢で支えてください。無理に起こさないで。私は、すぐ戻ります」
男は戸惑いながらも、指示された位置に膝をついた。
小夜は胸の苦しさを訴えた患者のそばへ戻り、顔をのぞき込んだ。呼びかけへの返事があるかを確かめてから、帳面に目を落とす。
千代は荷を一つずつ確かめ、下ろす順番を伝えた。箱の一つが手を滑らせた男の腕から落ち、地面にぶつかって蓋が割れた。
「すまない!」
「今は、手を止めないでください。中身を確かめて、使えるものと使えないものを分けます」
千代はすぐに責めなかった。壊れた箱の中身を確かめ、無事な物を敷物へ移す。失われた物は戻らない。だからこそ、残った物を曖昧にしてはいけなかった。
男が箱の破片を拾おうとすると、千代は首を振った。
「破片は後でいいです。今は、こちらを運ぶのを手伝ってください。足元に残った木片は、踏まないように端へ寄せて」
男はうなずき、手元の荷を持ち直した。
景継は、車体の近くで指を押さえている男に気づいた。
「手を見せてください」
「少し挟んだだけだ。これくらいなら――」
「少しでも、確かめます」
指は赤く腫れ始めていた。景継は傷の有無と動かせる範囲を確かめ、無理に動かさないよう伝えた。深刻な傷には見えなかったが、見ただけで何も問題がないと決めることもできない。
ようやく荷が減り、車体の傾きが小さくなった。
綾が支えの位置を確かめ、男たちに合図する。
「今だ。ゆっくり入れろ。急ぐな。誰か一人でも手を離したら、すぐに知らせろ」
木材が車体の下へ収まった。
全員が息をついたが、綾はまだ手を下ろさなかった。車輪の位置を確かめ、支えがずれていないことを見届けてから、ようやく立ち上がる。
「これで終わりではない。荷を戻す前に、車輪を確かめる。壊れた物も数え直す。急いで同じことを繰り返すな」
男たちがうなずいた。
そのうちの一人が、車輪のそばから少し離れた位置に立ち、後ろを振り返った。
「荷車はまだ動かせない。後ろの者たちにも伝えてくる」
「頼む。ただし、道の真ん中に人を集めるな。通れる場所を空けておけ」
綾の返事を聞き、男は走らずに坂を下っていった。
荷車の修理が続くあいだ、小夜は患者の様子を見ていた。
胸の苦しさを訴えた男は、横になったまま目を閉じている。呼びかけると返事はあったが、先ほどより声が弱い。
「景継様」
小夜の声に、景継がそばへ戻る。
「返事が遅くなっています。呼吸も浅くなったように見えます」
「いつからですか」
「先ほど、荷車が傾いたときには、まだ今ほどではありませんでした。今の状態は、つい先ほど確かめました」
「分かりました。よく見ていてくれました」
景継は男の反応と呼吸を改めて確かめた。原因はまだ分からない。だが、状態が変わっていることは確かだった。
「小夜さん、今の時刻と様子を記してください。ほかの患者も見て、変化があれば知らせてください」
「はい」
小夜は帳面を開いた。
呼吸が浅いように見えたこと。返事が遅くなったこと。いつ、誰が確認したのか。
原因は書かなかった。分からないからだ。
景継は男のそばにとどまり、必要な確認を続けた。小夜は一人の患者だけに注意を向け続けるのではなく、ほかの者の様子も見て回る。危険な変化があれば知らせ、分からないことは分からないまま記す。
帳面の端に、患者を支えている男の名も書き足された。
「こちらの方は、今、誰が見ているのですか」
小夜が尋ねると、男は胸の苦しい患者から目を離さずに答えた。
「俺が見ている。返事が遅くなったら、お前に知らせればいいんだな」
「はい。返事がなくなったときも、すぐに呼んでください。息の様子が変わったときもです」
「分かった」
男は何度かうなずいた。医学のことを知っているわけではない。それでも、何を見て、何が変われば知らせるべきかは理解できた。
やがて、千代が水の入った器を持ってきた。
「使える器は、これだけです。飲み水も、思っていたより残っていません。次の場所までに必要な分を考えると、今はむやみに使えません」
「分かりました。必要な人に渡せるよう、残りを確認しておきましょう。飲める状態かどうかも確かめて、無理に飲ませないでください」
「はい。誰が、どこで、どれだけ使ったかも記します」
千代は器を渡しながら、帳面の残量を書き足した。
すべての人に十分な水を渡せるわけではない。布も、食料も同じだった。使えば減り、壊れれば失われる。次の補充がいつになるかも分からない。
それでも、残量を把握していれば、何も知らずに使い切ることは避けられる。
千代は帳面を閉じず、そばにいた男へ向けた。
「水を運んだら、器をここへ戻してください。残りを数え直します。使った分が分からなくなると、次に困りますから」
「分かった。戻せばいいんだな」
「はい。飲んだ人の名までは、今は覚えていなくても構いません。どの器を使ったかだけ、知らせてください」
男は器を受け取り、千代が示した場所へ向かった。
車輪の修理が終わったのは、日が傾き始めたころだった。
車体を支えていた木材を外し、車輪をゆっくり回してみる。綾は異音がないかを確かめ、車軸の状態を見た。完全に元どおりになったわけではない。重い荷を載せたまま進めば、再び傷むおそれがあった。
「荷は減らす。乗せる者も、歩ける者は無理のない範囲で移ってもらう。ただし、歩けるかどうかは本人の言葉だけで決めない。立たせて確かめるときも、支えをつけろ」
綾が指示を出す。
「車輪が傾いたら、止めますか」
手伝いの男が尋ねた。
「そうだ。異音がしたときも止める。動かせるかどうかは、その場で確かめる。勝手に押すな」
「分かった。後ろの者にも伝えておく」
綾は短くうなずいた。
千代は運ぶ荷を選び直し、小夜は負傷者の状態を確かめる。景継は、移動を続けられる者と、ここで休ませる必要がある者を分けた。誰も、全員が予定どおりに進めるとは言わなかった。
そのとき、荷車の向こうから聞き覚えのある声がした。
「こちらは、通ってもいいのか」
声の主は、以前、城内で景継に治療された男だった。
傷はまだ完治していない。腕をかばい、重い荷を持たないようにしている。歩くたびに顔をしかめることもあった。
「無理をしていませんか」
景継が尋ねると、男は少しだけ笑った。
「無理をするなと言われたばかりだ。重いものは持っていない。歩ける者を、道の端へ誘導していただけだ」
男は後ろを振り返った。
荷車が止まっているあいだ、道の先では人々が足を止めていた。誰もが自分の荷や家族を気にしている。道を譲れば自分の移動が遅れる。手を貸せば、自分の連れが待たされる。
それでも男は、狭い場所で無理に追い越そうとする者を止め、歩ける者を安全な側へ誘導していた。
「車輪の近くへ行くな。荷を下ろしている。向こうで待て」
男が声をかける。
北条方の兵の一人が、彼を見て眉をひそめた。
「敵だった者に、道の指図をされるとはな」
男は言い返さなかった。
「俺も、運ばれた側だ。どこが危ないかは、少し分かる」
兵はしばらく黙っていた。
やがて、道の真ん中に置かれていた荷を端へ寄せた。
「……通れる分だけだぞ」
「それでいい」
男は短く答え、再び人々の誘導へ戻った。
誰も、彼を仲間と呼んだわけではない。過去の疑いが消えたわけでもなかった。ただ、その場では、同じ道を通すために手を貸すことができた。
景継はその様子を見ていたが、声をかけなかった。
男が自分で選んで動いている。そのことを、景継が自分の手柄のように扱う必要はなかった。
荷車は、少しずつ動き始めた。
先頭には、道を確かめる者が立つ。荷車の脇には、車輪の様子を見る者がつき、後ろには歩けない者を支える人々が続く。小夜は患者の状態を記した帳面を手に、千代は物資の残りを確かめながら、次の休息場所までに必要なものを整理していた。
綾は列の横を歩き、遅れている者がいないかを見ていた。
「急がせるな。前との間を空けろ。車輪が止まったら、後ろにも伝えろ」
短い指示が、列の中を渡っていく。
先頭を歩く男が、坂の先で一度立ち止まった。
「道が狭くなっている。荷車は一台ずつ通す。後ろの者は、ここで待ってくれ」
その声を聞いた者が、さらに後ろへ伝える。
荷車の脇にいた男は車輪を見て、少しでも傾きが大きくなれば綾へ知らせる。負傷者を支える者は、相手の足取りが乱れるたびに歩みを緩めた。
誰もが、すべてを判断できるわけではない。
それでも、何かが変わったときに知らせる相手と、止まるべき場所は分かっていた。
景継は、一人ずつ患者の様子を確かめようとした。
あの男の呼吸はどうなったか。指を挟んだ男は痛みを訴えていないか。ほかに、移動によって具合を悪くした者はいないか。
確かめるべきことは、まだ残っていた。
前を歩く男が立ち止まった。
「車輪から音がしました。止めますか」
景継が顔を上げるより先に、綾が応じた。
「止めろ。後ろにも伝えろ」
「分かった!」
声が列を遡った。荷車が止まり、後ろの者たちも足を止める。誰かが急いで追いつこうとすることはなかった。
綾が車輪を確かめるあいだ、小夜は負傷者の呼吸を見て、千代は荷の位置がずれていないかを確かめた。
景継はその場に立ったまま、彼らの動きを見ていた。
声をかける必要がある者は、まだいる。自分の目で確かめたい患者もいる。だが、呼ばれる前に動いている者がいた。変化に気づき、止まり、知らせ、次の動きを待っている。
景継は一歩、列の後ろへ進んだ。
胸の苦しい男の様子を、もう一度見ておきたかった。指を挟んだ男の手も気にかかる。次の休息場所まで、あとどれほどあるのかも確かめなければならない。
数歩進んだところで、視界が揺れた。
道の端に立つ人影が、にじんで見える。足元の地面が、思ったよりも遠かった。
景継は歩みを止めた。
息を吸おうとしたが、うまく力が入らない。
昨日から十分に休めていない。今日も、荷車の修理と患者の確認に追われていた。自分では動けているつもりだった。だから、まだ大丈夫だと考えていた。
だが、身体は、その判断に従ってはくれなかった。
「景継様?」
小夜が気づいて振り返った。
景継は返事をしようとした。
「私は……」
言葉が途中で途切れた。
膝に力が入らない。
小夜が駆け寄るより先に、綾が景継の腕を支えた。
「景継!」
景継は、彼女の声を聞いていた。
自分を支える手の感触も、周囲がざわめく音も、分かっていた。
それでも、立ち直ることができなかった。




