第四十七話 四人誓約
第四十七話 四人誓約
夕餉の膳には、温め直した粥と、少しばかりの菜が並んでいた。
戸口の隙間から夜風が入り、灯火がかすかに揺れる。千代は膳の脇に一枚の紙を置き、小夜は景継が食べ終えるのを待っていた。綾は向かいに座り、箸を持ったまま景継を見ている。
景継は粥をひと口すすり、器を置いた。
「その紙は何ですか」
千代が紙の端を押さえた。
「これからの暮らしについて、考えられることを書き出しました」
「暮らし、ですか」
「住む場所、食べていくための仕事、物資の手配。負傷者を診る場所も必要です。それから――私たち四人のことです」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
景継は紙へ目を落とした。
住まい。食糧。薬や布の調達先。診療の場所。頼れる人。
どれも、先に考えておかなければならない事柄だった。だが、千代の紙には、項目の脇に空欄がいくつも残っていた。
「まだ、決まっていないことが多いですね」
「はい。ですから、相談したいのです」
千代は紙から手を離さなかった。
「何も決まっていないからといって、景継様が一人で決めてよいことにはなりません」
景継は返事をしかけ、口を閉じた。
住む場所も定まらない。北条の家がどうなるかも分からない。先に片づけなければならないことはいくらでもある。
その言葉を口にする前に、綾と交わした約束を思い出した。
皆の希望を聞く。
聞く前から結論を出さない。
「……そうですね。聞かせてください」
小夜が顔を上げた。
「最後まで、ですか」
「はい」
「危ないから駄目だとか、私には無理だとか、先に決めずに?」
「気をつけます」
「それでは、まだ少し心配です」
小夜の声は穏やかだったが、目はそらさなかった。
綾が箸を置いた。
「なら、約束しろ。聞く前から結論を出さない。聞いたあとで、お前の考えを話すのは構わない。私たちも、お前の考えを聞く。だが、最後に決めるのは一人だけじゃない」
景継は三人を順に見た。
「約束します」
千代は紙を膳の中央へ寄せた。
「では、私から話してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
千代は一度、息を整えた。
「私は、これからも物資を扱う仕事を続けたいと思っています。何が足りないのかを調べ、どこから手に入れられるのかを考え、人と人をつなぐ仕事です」
景継はうなずいた。
千代は物を集めるだけの人間ではない。相手の事情を聞き、条件を確かめ、互いに無理のない道を探す。必要な物がなければ、代わりになる物を考える。その働きがなければ、これまでの診療も続かなかった。
「ただ、私一人ですべてを背負うつもりはありません」
千代は続けた。
「手に入らないものは、どうしても手に入りません。頼んでも断られることがあります。私が動けば必ず何とかなる、というわけではないのです」
「分かっています」
「景継様は、分かっていても、私が方法を探す前にご自分で別の手を考えてしまうことがあります」
景継は言葉に詰まった。
「私にできることを任せてください。できないときは、できないと申し上げます。そのときは、一緒に考えていただきたいのです」
「……はい。そうします」
千代は、ようやく紙から指を離した。
次に、小夜が膝の上で手を重ねた。
「私は、これからも人の様子を見て、記録をつけていきたいです」
彼女は景継から目をそらさなかった。
「以前は、判断を間違えることが怖くて、見たことを伝えるのにも迷っていました。自分の考えが間違っていたら、取り返しがつかないと思っていたからです」
小夜は手元を見た。
「今でも、怖くなくなったわけではありません。これからも見落とすことはあると思います。私の判断で、誰かを危険にさらしてしまうこともあるかもしれません」
「小夜、それは――」
景継は口を挟みかけ、止まった。
小夜が話し終えるまで聞く。そう約束したばかりだった。
小夜は、その沈黙を確かめるように景継を見た。
「私は、あなたを信じています。でも、あなたの判断を、何も考えずに正しいと思うつもりはありません」
「はい」
「間違っていると思ったら、そう言います。分からないことがあれば、分からないと伝えます。私自身の目で見て、自分で考えたいのです」
景継は、以前、小夜が老人の様子を観察したときのことを思い出した。返事が遅れたこと、呼吸の変化。原因を決めつけず、見たことと分からないことを分けて記した。
あれは、誰かの答えを待つだけではできない仕事だった。
「その判断を、私も頼りにしています」
小夜は一瞬、目を伏せた。
「……そういうことを、真面目な顔で言わないでください」
「なぜですか」
「恥ずかしいからです」
千代が口元を押さえ、綾はわずかに肩を揺らした。
「笑わないでください」
「笑っていない」
「綾様は、今、笑いました」
「気のせいだ」
綾は顔をそらした。
短いやり取りが途切れると、灯火の芯が小さくはぜた。
綾はしばらく膳の上の器を見つめていた。
「私は、今までどおり現場にいたい」
短い言葉だった。
「人を運ぶとき、誰を先に動かすか。どこが危ないか。誰に何を任せるか。そういう仕事だ。腕を失う前と同じようにはできない。できないことは、これからもあるだろう」
綾は失った側の袖に一度だけ目を落とした。
「だが、何もできなくなったわけじゃない。私は、自分で見て、自分で決めたい。誰かに守られるためだけに、お前のそばにいるつもりはない」
「そんなつもりは――」
言いかけて、景継は口を閉じた。
綾の眉が、わずかに動いた。
「今、言いかけただろう」
「……はい」
「なら、最後まで聞け」
「分かりました」
綾は息を吐いた。
「お前が危ない場所へ行くなら、止めることもある。お前の判断に納得できなければ、反対する。私が間違えることもあるだろう。そのときは、お前に言ってほしい」
「もちろんです」
「それでも、私の代わりに私の行き先を決めるな」
景継は、うなずいた。
「はい」
「私がそばにいたいと思っていることと、何もかもお前に任せたいということは違う」
綾はそこで、ようやく景継を見た。
「私は、自分の意思で、お前のそばにいたい」
景継は、すぐには答えられなかった。
綾が何を失い、何を残し、これから何をしたいのか。それを自分の願いで塗り替えてはならない。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「それでも、聞かせてもらえてうれしいです」
綾は器へ手を伸ばした。耳の先が、少し赤くなっていた。
千代が紙を指先で整えた。
「では、景継様のお考えも聞かせてください」
景継はすぐには答えなかった。
誰を診るか。何を残すか。どの道なら人を危険にさらさずに済むか。そうしたことなら、幾度も考えてきた。
けれど、自分が何を望んでいるのかを、三人の前で言葉にしたことはほとんどなかった。
「私は……三人と生きていきたいと思っています」
千代の指が止まった。
小夜が顔を上げ、綾も器から手を離した。
「これから先、どこに住むことになるのか、何を仕事にできるのか、今はまだ分かりません。思いどおりにいかないことも、きっとあります」
「はい」
千代が小さく答えた。
「それでも、三人と一緒に、これからのことを考えていきたい。誰か一人に無理をさせるのではなく、できることを持ち寄って、できないことは相談して……そうやって暮らしていきたいです」
景継は息を吸った。
「私は、三人が好きです。大切に思っています。これからも、そばにいてほしい」
言葉にした途端、部屋が妙に静かになった。
火のはぜる音が、先ほどより大きく聞こえた。
千代はうつむき、紙の端を何度も整えていた。小夜は器の縁を指でなぞっている。綾は腕を組んだまま、景継を見つめていた。
「……今さら、何を照れている」
綾が言った。
「綾様こそ、お顔が赤いです」
小夜は景継を見られないまま返した。
「火が近いだけだ」
「火は、向こうにあります」
千代が静かに指摘した。
綾は言葉を失った。
景継は笑いそうになり、こらえきれず口元を緩めた。
「景継様まで笑うのですか」
「すみません。ただ……うれしくて」
千代はますます顔を赤くした。小夜は困ったように笑い、綾は「まったく」とつぶやいて器を持ち上げた。
しばらくして、千代が紙の空欄を見た。
「気持ちは、聞かせていただきました。でも、これからの暮らしは、まだ決めなければなりませんね」
「そうですね。住む場所も、仕事も、周囲への説明も必要です」
小夜が続けた。
「私たちだけでは決められないこともあるでしょう。頼る相手と相談しなければならないことも」
「はい。勝手に決めず、必要なことは相談します」
「私たちにも、相談してください」
「もちろんです」
「本当に?」
「……はい。今度こそ」
小夜は、ようやく景継を見て笑った。
「では、覚えておいてくださいね」
「忘れません」
「忘れたら、また聞きます」
「そのときは、何度でも答えます」
小夜は目を伏せた。
食事が終わり、千代が器を片づけ始めた。景継も手伝おうと立ち上がり、小夜と同じ器へ手を伸ばした。指先が触れ、二人とも手を止める。
「あ……」
「すみません」
「いえ、私こそ」
譲り合う二人の横から、綾が器を取った。
「いつまでそうしている。片づけが終わらないだろう」
「綾様、私が持ちます」
「いい。これは私が運ぶ」
綾は器を重ね、立ち上がった。
その背に、景継が声をかけた。
「綾」
綾が振り返る。
「今日、話してくれて、ありがとうございました」
「さっきも聞いた」
「それでも、もう一度言いたかったのです」
綾はしばらく景継を見ていた。それから、空いている方の手を差し出した。
景継は、その手を取った。
綾の手は、人を支え、荷を確かめ、危険を見つけ、誰かに任せることを覚えてきた手だった。
彼女は景継の手を一度だけ握り返した。
「まだ、何も終わっていない」
「はい」
「住む場所も、仕事も、これから決めることばかりだ」
「分かっています」
「なら、これからも勝手に決めるな」
「約束します」
綾は手を離し、器を持ち直した。
小夜が景継のそばに立った。
「私たちのことを、大切に思ってくださるのはうれしいです。でも、私たちも、景継様を大切に思っています。だから、あなたが無理をしていると思ったら、止めます」
「分かりました」
「止められたときは、きちんと聞いてくださいね」
小夜はそう言って、景継の袖をそっとつまんだ。
「……私も、あなたのそばにいたいです」
声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
景継は、彼女の手に自分の手を重ねた。
「ありがとうございます」
「また、そういうことを……」
小夜は言いかけて、口を閉じた。今度は、手を離さなかった。
少し離れたところから、千代の声がした。
「お二人とも、いつまでもそこにいらっしゃると、明日の支度ができません」
「千代様、見ていらしたのですか」
「見えたものを、見えなかったことにはできませんから」
「それは、記録の話ではありません」
「そうでしたか」
千代は澄ました顔をしていたが、頬は赤かった。
景継は三人を見た。
北条の家が失われたことで、四人の暮らしを支えていたものも少なからず失われた。誰かに頼れば、その人にも事情がある。住む場所が見つかるとは限らず、仕事がすぐに得られるとも限らない。
四人で生きていくと決めたからといって、明日から何もかもうまくいくわけではない。
景継は千代の紙を手に取った。
「この空欄は、どうしましょうか」
「まだ決まっていないことですから、そのままでよいと思います」
千代が答えた。
「決まったら書き足します。事情が変わったら、また直します」
「分かりました」
景継は紙を元の場所へ戻した。
空欄は、何も考えていない証ではない。これから話し合い、確かめ、選ぶ余地だった。
綾が片づけを終えて戻ってきた。
「明日は、まず道の様子を確かめる。動ける者と、まだ休ませる者を分ける必要がある」
「はい」
「千代は物資の残りを見てくれ。小夜は患者の様子を記録しておいてくれ。私は人を集めて、移動の段取りを考える」
「分かりました」
景継が答えると、綾は間を置かずに言った。
「お前は、まず朝飯を食べろ」
「……はい?」
「聞こえなかったのか」
「いえ、聞こえました」
「なら、返事をしろ」
「分かりました。朝食を取ってから、皆で相談します」
綾は満足したようにうなずいた。
千代が紙をたたみ、小夜が残った器を重ねた。
明日の行き先は、まだ決まっていない。暮らしを支える仕事も、住む場所も、家のことも、話し合わなければならないことが残っている。
けれど、誰か一人の考えだけで決めるのではない。
四人は、これからも互いに問い、答え、時には反対しながら進んでいく。
景継は、三人の背中を見つめた。
守りたいと思うことと、相手の人生を自分の手で決めることは違う。
その違いを忘れないことが、共に生きるための、最初の約束だった。




