第四十六話 継承始動
第四十六話 継承始動
「先生。あの人の呼吸が、昨日より苦しそうです」
若者の声に、景継は目を開けた。
横になっていた身体を起こそうとして、脇腹に鈍い重さを感じた。頭もまだ少し重い。立ち上がるには、もうしばらく休んでいた方がよい。自分でも分かっていた。
それでも、患者の呼吸が苦しくなっていると聞けば、すぐに様子を確かめたくなる。
「どんなふうに変わりましたか」
若者は、すぐには答えなかった。
何を見たのか。どう伝えればよいのか。考えながら言葉を探しているようだった。
「昨日は、話すときに、あまり息を継いでいませんでした。でも今朝は、途中で何度も息を吸っています。それと……横になっているときより、身体を起こした方が楽そうでした」
「ほかには」
「そこまでは、分かりません」
景継はうなずいた。
「それで十分です。見たことを、きちんと伝えてくれました」
若者の顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
景継は立ち上がろうとした。だが、膝に力を入れる前に、傍らから声が飛んだ。
「待て」
綾だった。
彼女は景継の顔を見て、それから若者へ目を向けた。
「患者はどこだ」
「向こうの小屋です」
「案内しろ。景継、お前は私の歩く速さに合わせろ。急ぐな」
「分かっています」
「その返事は、まだ信用できない」
綾は若者に先を促した。
景継は苦笑しかけて、やめた。
今は、彼女の言うとおりにするしかなかった。
*
患者は、壁を背にして上半身を起こしていた。
四十を過ぎた男で、数日前から咳が続いている。昨日の時点では、受け答えもできていた。だが、今は言葉をかけても返事が遅く、息を整えるように何度も胸を上下させている。
景継は男のそばへ膝をついた。
「聞こえますか。私が分かりますか」
男はかすかにうなずいた。
「息苦しいですか」
もう一度、うなずく。
景継は呼吸の様子を見て、顔色を確かめた。咳の具合を尋ね、いつから苦しくなったのか、熱や胸の痛みがあるかを聞く。返事は途切れがちで、詳しいことを一度に尋ねるのは難しかった。
若者は、すぐ横で男の顔を見つめていた。
「昨日より、顔色も悪いです」
「そうだな。ほかに、昨日と違うところはあるか」
「……返事をするまでの間が、長くなりました」
景継は男から目を離さず、うなずいた。
「そのことも、覚えておいてください」
原因は、まだ分からない。
呼吸が苦しいという事実だけで、病を一つに決めることはできなかった。いま必要なのは、男が少しでも呼吸しやすい姿勢を保ち、変化を見逃さないことだ。
「無理に横にならせないでください。今の姿勢で息がしやすいなら、そのままで」
綾が若者に尋ねた。
「この男を見ていたのは、お前一人か」
「はい。途中で水を持ってきましたが、すぐ戻りました」
「その間は誰かに頼んだか」
「いいえ……すぐ戻るつもりだったので」
若者の顔が曇った。
景継は、責める言葉を口にしなかった。
「次からは、戻るまで見てくれる者を頼んでください。短い時間でも、誰かが代わりに見ていれば、変化があったときに気づけるかもしれません」
「はい」
「それから、息苦しさが強くなる、返事ができなくなる、急に様子が変わる。そういうときは、私が近くにいなくても知らせてください」
「先生がいなくても、ですか」
「私がいないときにも、患者は具合が悪くなりますから」
若者は男を見た。
それから、自分の手元に目を落とした。
「……分かりました」
景継は、もう少し男の様子を確かめてから、そばにいる者へ付き添いを頼んだ。状態が落ち着いたと決めつけることはできない。呼吸の変化を続けて見て、さらに悪くなるようなら、すぐに知らせてもらう必要があった。
小屋を出ると、綾が景継の歩調に合わせていた。
「どうだ」
「まだ安心はできません。もう少し様子を見る必要があります」
「そうか」
綾はそれ以上、病について尋ねなかった。
代わりに、若者へ向き直った。
「お前は、これからもあの男を見ていろ。ただし、一人で抱えるな。交代する者を決めろ。変化があったら、何を見たのかを伝えるんだ」
「はい」
「分からないことを、分かったように話すな。それだけは忘れるな」
若者は、今度は迷わずうなずいた。
景継は、そのやり取りを黙って聞いていた。
自分が伝えるつもりだったことを、綾が自分の言葉で伝えている。
彼女は景継の言葉を、そのまま繰り返したのではなかった。目の前の若者に何が必要かを見て、自分で考え、伝えていた。
それが、思っていた以上に心強かった。
*
昼前、休ませてもらっていた場所へ戻ると、小夜が帳面を広げていた。
紙の上には、患者の名と時刻が並んでいる。字の大きさは揃っていなかったが、以前よりも、誰が読んでも分かるように書こうとしているのが見て取れた。
「朝の患者は、どうでしたか」
「まだ、注意して見ていなければなりません」
「では、そう書いておきます」
小夜は筆を取り、記録に書き足した。
景継は、その手元を見た。
「見たことと、考えたことは分けてありますか」
「はい。こちらが、本人の返事と呼吸の様子です。こちらは、私が考えたことです」
小夜は二つの記述を指で示した。
「ただ、どこまでを観察として書けばよいのか、まだ迷います。顔色が悪い、というのは見たことですが、悪いという言葉だけでは、後から読む人に伝わらない気もして」
「そうですね。何と比べて、どう変わったのかが分かると、次に見る者の手がかりになります」
「昨日と比べて、顔色が悪い。返事が遅い。そう書けばよいでしょうか」
「それなら、昨日を知っている人にも、知らない人にも、確かめるところが分かります」
小夜は筆を動かした。
少し考え、書き直す。
「……昨日より顔色が悪い。返事をするまでの間が長い。呼吸の様子は、引き続き確認する」
書き終えた小夜は、景継を見た。
「これで、伝わりますか」
「伝わります。次に見る人が、何を確かめればよいかも分かります」
小夜は、ほっと息を吐いた。
その顔には、かつてのように、正しい答えを出せなかったことへの恐れだけが浮かんでいるわけではなかった。
分からないことを残しておく。
その先を、別の誰かが確かめられるようにする。
小夜は、そうした仕事を自分のものにし始めていた。
「先生」
「はい」
「私がいないときにも、誰かがこの帳面を読めるようにしておきたいのです。私が見落としたことも、別の人が気づくかもしれませんから」
景継は、静かにうなずいた。
「お願いします」
小夜は、少しだけ目を見開いた。
何か助言が返ってくると思っていたのかもしれない。
だが、景継はそれ以上、口を挟まなかった。
小夜が考え、自分で決めたことだった。
ならば、その考えをまず形にしてもらえばよい。
「ただし、読んだ人が分からないところがあれば、そのままにしないでください。書いた人に確かめられるなら確かめる。確かめられないなら、分からないと残す」
「はい。そうします」
小夜は帳面の端をそろえた。
その仕草は、まだ少しぎこちなかった。
けれど、帳面を抱えて景継の答えを待つだけだった頃とは違っていた。
*
昼を過ぎた頃、物資を置いてある一角から、千代の声が聞こえた。
「そちらは、使える布です。濡れたものは、こちらへ分けてください。汚れたものと、まだ使えるものを一緒にしないで」
そのそばで、若い男が困った顔をしていた。
「ですが、これは少ししか汚れていません。洗えば使えるのでは」
「使えるかどうかを、今ここで決めるのは難しいです。傷に直接当てるものと、荷を包むものでは、必要な清潔さも違いますから」
千代は布を手に取り、汚れの具合を確かめた。
「これは、すぐに傷へ当てるものにはしません。洗える場所と水があるかを確かめてから、使い道を考えましょう。何でも捨てればよいわけでも、何でも使えばよいわけでもありません」
男は布を見つめ、やがてうなずいた。
「分かりました。では、これはどこへ置けばよいですか」
「こちらです。置き場所を変えるときは、必ず誰かに伝えてください。探すために時間を使ってしまっては、必要なときに間に合わなくなりますから」
千代は、物資の置き場所を帳面に書き込んでいた。
何がどれだけ残っているのか。
どれを先に使うのか。
何が足りなくなりそうなのか。
その一つ一つを、千代だけが知っていても意味がない。別の者が見ても分かるようにし、使った者が残りを伝えられるようにする必要があった。
景継が近づくと、千代はすぐに気づいた。
「景継様、もう歩いて大丈夫なのですか」
「少しずつなら」
「少しずつ、という言葉を都合よく使わないでくださいね。綾様からも、無理をさせないように言われています」
「分かっています」
「本当でしょうか」
千代は景継の顔をじっと見た。
景継は答えに詰まり、視線をそらした。
「……気をつけます」
「それなら、よろしいです」
千代は小さく息をついてから、帳面を差し出した。
「こちらを見てください。布の残りと、食料の残り、それから水を運ぶ器の数です。まだ足りないものもありますが、どれが不足しているのかは、ほかの方にも分かるようにしました」
景継は帳面に目を通した。
記載に抜けはある。数え直した方がよい箇所もあった。
「ここは、まだ数が確かではないのですね」
「はい。数えた者によって違いがありました。もう一度、二人で確かめてもらっています」
「分かりました」
景継は帳面を返した。
以前なら、抜けを見つければその場で数を確かめ、書き直し、次に何をすべきかまで自分で決めようとしただろう。
今は、千代がすでに確かめ直す手順を始めていた。
「ありがとうございます。これなら、千代さんが別の場所にいても、必要なものを確かめられます」
「はい。そうしなければ、私が動けなくなったときに困りますから」
千代は何でもないことのように答えた。
景継は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
自分が倒れたとき、彼女たちがどれほど困ったか。
自分の目が届かない場所で、どれだけの仕事を引き受けてくれたか。
そのことを、改めて考えさせられた。
「千代さん」
「はい」
「数を確かめてくれた人の名も、残しておいてもらえますか」
「名も、ですか」
「誰が確かめたのか分かれば、数が合わないときに、どこから確かめ直せばよいか分かります。それに、次に数える人も、前の記録を見て仕事を引き継げます」
千代は帳面を見下ろした。
「分かりました。数だけでなく、確かめた人も書いておきます」
彼女はすぐに筆を取った。
景継は、その手元を見ながら、これまで自分が当然のように引き受けていた仕事を思った。
物資を知っている者が一人しかいなければ、その者が動けなくなったとき、残りの者は何があるかさえ分からなくなる。
患者の様子を知る者が一人しかいなければ、交代した途端に、昨日との違いが見えなくなる。
人の目と手は、限られている。
だからこそ、知っていることを渡す必要がある。
*
午後、物資置き場の端で、小さな騒ぎが起きた。
「火だ!」
声が上がった。
見れば、火の粉が布の端に移り、細い煙が立ち始めていた。近くには、乾いた布や荷が積まれている。
一人の男が、燃えかけた布を持ち上げようと手を伸ばした。
「持ち上げるな!」
綾の声が響いた。
「まず、周りを離せ! 燃えていない荷も、火のそばから遠ざけろ!」
男は手を止めた。
綾は周囲を見回し、動ける者を指さした。
「そこの二人、火から離れた荷を運べ。お前は、周りに人が寄らないようにしろ。燃えているものへ、むやみに手を出すな!」
小夜は、燃えかけた布の近くに積まれていた荷を確認した。
「こちらは、まだ火が移っていません。先に運び出せます!」
「分かった。人をつけて運べ!」
千代は、水を運べる者を呼び、器を集めた。
「水はこちらへお願いします。使った器は、戻す場所を決めておきます!」
景継も、周囲にいた負傷者を安全な場所へ移した。だが、身体はまだ本調子ではない。急いで動こうとすると、足元がわずかに揺れた。
綾がそれに気づき、声を飛ばす。
「景継、そこから先は任せろ! お前は、そちらの人たちを安全な場所へ移すことだけ考えろ!」
「分かりました!」
景継は、今度は逆らわなかった。
燃えかけた布は、周囲から人と荷が離された後、水を使って消し止められた。
大きな火にはならなかった。
しかし、布の一部は焦げ、使えなくなった。荷を運ぶ途中で器を落とし、一つが割れた。水も使った分だけ減っている。
何も失わずに済んだわけではない。
騒ぎが収まると、千代は焦げた布と使える布を分け、割れた器の数を記録した。小夜は、誰がどこにいたか、どの荷を先に運び出したかを確かめた。綾は、次に同じことが起きたとき、誰がどこへ動くかを話し合った。
火のそばにいた男が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私が、布を持ち上げようとしたばかりに……」
「反射的に動いたんだろう。次は、先に周りを見ろ」
綾は男を責め立てなかった。
「間違えたことを隠すな。何をしようとしたのか分からなければ、次に直すこともできない」
「……はい」
「それから、火のそばに布を置いたままにしたのは誰だ。そこも確かめる。お前一人のせいにして終わりにはしない」
男は顔を上げた。
綾は、燃えた布の残りを見つめた。
失ったものは戻らない。
だが、何が起きたのかを確かめれば、次の被害を減らせる。
景継が繰り返し伝えてきたことを、綾は自分のやり方で、現場に残そうとしていた。
千代が帳面を閉じた。
「焦げた布は、使えるものと分けてあります。器も一つ減りました。水の残りは、改めて数えます」
「火のそばに荷を置いた理由も確かめておきましょう」
小夜が言った。
「誰かが勝手に置いたのか、置き場所が分からなかったのかで、次に変えることが違うと思います」
綾はうなずいた。
「そうだな。誰が悪かったかだけでは、次に何を変えるべきか分からない」
それぞれが自分の帳面と記憶を確かめていた。
火は消えた。
けれど、片づけはまだ終わっていなかった。
*
夕刻、火の騒ぎを片づけ終えた頃、朝に患者の変化を報告した若者が、景継のもとへやって来た。
「先生。私にも、できることを教えてください」
景継は若者を見た。
「今日、教えたことでは足りませんか」
「足りないというより……先生がいないときにも、見落とさないようにしたいのです。私が気づけることがあるなら、気づきたい。分からないことがあれば、誰かに知らせられるようになりたいのです」
若者は言葉を選びながら続けた。
「今朝の患者も、昨日と違うことには気づきました。でも、何が起きているのかは分かりませんでした。これからも、同じようなことがあると思います」
「あるでしょうね」
「そのとき、どうすればよいのか……」
景継は、すぐには答えなかった。
目の前の若者は、何でもできるようになりたいと言っているわけではない。
自分にできることと、できないことがある。そのことを知ったうえで、できる範囲を広げたいと考えている。
「まずは、見たことを正確に伝えることです」
景継は、ゆっくりと言った。
「いつもと違うことがあれば、何が違うのかを考えてください。呼吸が変わったのか、返事が遅くなったのか、顔色が変わったのか。自分が見たことを、できるだけ具体的に伝える」
「はい」
「それから、分からないことは、分からないと言ってください。原因を知らないのに、これが原因だと決めつけてはいけません。自分だけで判断できないときは、助けを求めてください」
「分かりました」
「それができれば、誰かが次の判断をするための手がかりになります」
若者は、深く頭を下げた。
「やってみます」
「ええ。最初から、うまくできなくても構いません。ただ、見たことを隠さず、間違えたら知らせてください」
若者は顔を上げた。
その表情には、まだ不安が残っていた。
それでも、何かを任された者の顔になっていた。
「それから、患者を見ている間に別の仕事が必要になったら、一人で何とかしようとしないでください。交代を頼む。交代した者には、何を見たのかを伝える」
「はい」
「自分が見ていない間のことは、分からないのですから」
若者は、今度ははっきりとうなずいた。
若者が去った後、景継は、少し離れた場所で荷を運んでいる男たちを見た。
一人が荷の重さを確かめ、もう一人が置き場所を指示している。別の者は、負傷者を運ぶために通路を空けていた。
誰も、景継の指示を待ってはいなかった。
それぞれが、目の前の仕事を考え、動いている。
もちろん、間違いもある。迷うこともある。判断に困れば、誰かの助けが必要になる。
それでも、景継が一つ一つ命じなければ何も動かない、という状態からは変わり始めていた。
景継は、荷を運ぶ男の一人に声をかけた。
「その荷は、どこへ運ぶのですか」
「こちらの通路を空けるため、向こうへ移します。先ほど、綾様から置き場所を聞きました」
「何を運んだかは、誰かに伝えていますか」
「まだです。終わってから、数を確かめて伝えるつもりでした」
「運んだ数と、残った数を分けておくと、次に動く者が迷わずに済みます」
「分かりました。今のうちに、置き場所も伝えておきます」
男は荷の方へ戻っていった。
景継はその背を見送った。
彼らが今しているのは、まだ大きなことではない。
目の前の荷を動かし、患者の様子を見て、物資の数を確かめる。それだけだ。
だが、誰が何をしたのかが次の者へ伝われば、仕事は一度きりで終わらなくなる。
その積み重ねがなければ、どれほど人手があっても、同じ失敗を繰り返すことになる。
*
日が暮れる頃、綾は搬送を手伝っていた男を呼び止めた。
「明日の朝、負傷者を移す順番を考えておけ」
男は驚いたように目を見開いた。
「私が、ですか」
「そうだ。誰が歩けるか、誰に付き添いが要るか、どの荷を先に運ぶか。分かる範囲で整理しろ」
「ですが、私には、どの人を先に運べばよいのか……」
「分からないことは、勝手に決めるな。私に聞け。患者の状態については、景継にも確かめろ。ただし、誰がどこにいて、どこを通ればよいかは、お前も見ているだろう」
男は、しばらく考えていた。
「もし、間違えたら」
「間違えたと分かったら、すぐに知らせろ。隠す方が困る」
「綾様が、見ていてくださるのでは」
綾は、男の顔をまっすぐ見た。
「私が全部見ていたら、私の目が届かないところで何か起きる。お前の目が要るんだ」
男は、ゆっくりとうなずいた。
「……分かりました。やってみます」
「無理に一人で抱えるな。ほかの者にも聞け。お前が見ていないことを、そいつが見ているかもしれない」
「はい」
男が去ると、綾は片腕のない自分の身体を、ほんの一瞬だけ見下ろした。
失ったものが戻ることはない。
できなくなった仕事もある。
だが、自分にできることまで失われたわけではなかった。
人を動かすこと。危険を見つけること。誰かが自分で判断できるように、任せること。
それらは、今も自分の手の中にある。
綾は、遠くで景継と話している若者へ目を向けた。
景継は何かを説明していたが、すぐに答えを与えてはいないようだった。若者が自分の言葉で話し、景継がそれを聞いている。
綾は、わずかに口元を緩めた。
教えるというのは、すべてを代わりにやることではない。
相手が自分で動けるようになるまで、必要な場所で支えることなのだろう。
*
夜、四人は久しぶりに同じ場所で食事を取った。
食卓に並んだものは、決して多くはない。今日使った物資のことを考えれば、明日も同じように用意できるとは限らなかった。
それでも、四人がそろって食事をする時間は、思いのほか静かで、穏やかだった。
景継は箸を置くと、今日の出来事を話した。
呼吸の変化に気づいた若者のこと。小夜が記録を整え始めたこと。千代が物資の置き場所を他の者にも分かるようにしたこと。そして、火事になりかけた騒ぎのこと。
「大きな火にならずに済んで、よかったです」
千代が言った。
「ただ、布と器を失いました。明日、もう一度数え直して、不足するものを確かめます」
「私も、搬送の順番を任せられる者が増えました」
綾は、湯気の立つ椀を手にした。
「まだ一人で任せられるほどではないが、誰かの指示を待つだけではなくなってきた」
「小夜さんの記録も、以前より分かりやすくなりました」
景継が言うと、小夜は少し照れたように目を伏せた。
「まだ、書き方に迷うことはあります。でも、次に読む人が分からなければ、記録を残す意味がありませんから」
「そうですね」
景継はうなずいた。
自分が教えたことが、少しずつ他の人の言葉になっている。
それは、ただ同じ言葉を繰り返しているのとは違った。綾は現場の経験から、小夜は観察と記録から、千代は物資の管理から、それぞれが自分の仕事に合わせて考え、工夫している。
そのことが、景継にはうれしかった。
だが、千代が箸を置き、三人を見回した。
「これからの暮らしについて、そろそろ決めたいことがあります」
食卓の空気が、わずかに変わった。
小夜は千代を見てから、景継へ視線を移した。
綾も椀を置いた。
「そうだな。いつまでも、先のことを曖昧にしておくわけにはいかない」
景継は三人の顔を順に見た。
明日の移動先も、暮らしの場所も、まだ確かなものではない。仕事も、家のことも、これから決めなければならないことがいくつもある。
それでも、今度は自分一人で考え、決めるわけにはいかなかった。
あの夜、綾に言われたことが胸によみがえる。
自分たちがどこへ行きたいのか、何をしたいのか。
聞く前から、自分の中で決めてしまうな。
景継は、静かにうなずいた。
「分かりました。皆さんの話を、聞かせてください」
綾は、景継を見つめた。
「今度は、逃げずに最後まで聞け」
「はい」
景継は、今度こそ迷わず答えた。
食事の後、千代は帳面を閉じ、小夜は筆を片づけた。綾は明日の搬送について、任せる者へ伝えることを考えていた。
誰もが、明日になればまた、目の前の仕事に向き合うことになる。
患者の呼吸を見守る者がいる。記録を残す者がいる。物資を確かめる者がいる。人を運び、道を空ける者がいる。
そのすべてが、まだ不完全だった。
火の騒ぎで布と器を失った。患者の容体も、まだ安心できるところまでは至っていない。誰かが見落とすことも、判断を誤ることもあるだろう。
それでも、誰か一人がいなければ何もできない場所ではなくなりつつある。
景継は、三人の姿を見つめた。
自分がいなくても、すべてがうまくいくわけではない。
自分がいれば、助けられる命もあるだろう。
だからこそ、すべてを一人で抱え込むのではなく、できることを分け、分からないことを伝え、次の誰かへ渡していく。
それは、救命の手を減らすことではなかった。
救命に加わる手を、増やしていくことだった。
明日、何が起きるかは分からない。
だが、明日を迎えるために、それぞれが自分の仕事を始めている。
景継は、もう一度、三人に向き直った。
「それで、これからのことですが――」
今度は、誰の言葉も遮らずに聞こうと思った。
四人で選ぶ未来は、まだ始まったばかりだった。




