第四十五話 看病交代
第四十五話 看病交代
景継の手から、帳面が滑り落ちた。
床へ落ちる前に拾おうとした指が、思うように動かない。
文字が滲んだ。
目を瞬かせても、目の前の人影が二重に揺れている。立っているはずなのに、足元だけが遠ざかっていくようだった。
「景継様?」
小夜の声がした。
返事をしようとしたが、息を吸っただけで言葉が出なかった。
もう一度、足を踏み出す。
膝から力が抜けた。
「景継!」
綾が駆け寄り、倒れかけた身体を受け止めた。片腕だけでは十分に支えきれない。綾は無理に抱え込まず、景継の身体が床へ打ちつけられないように向きを変えた。
「そこの者、こちらへ来い。肩を支えろ。頭をぶつけさせるな!」
近くで荷を運んでいた若者が振り返り、駆け寄った。
二人で身体を支える。綾が声をかけ、若者が肩を受けた。景継の膝が床につく前に、どうにか身体を横へ移すことができた。
小夜はすぐに膝をついた。
「景継様、聞こえますか。私が分かりますか」
「……小夜」
「はい。ここにいます」
声が返ってきたのを確かめ、小夜は景継の顔を覗き込んだ。
「頭を打ちましたか」
「いや……たぶん」
「たぶん、では分かりません」
小夜は周囲を見た。
「千代さんを呼んでください。それから、こちらへ人が入らないよう、通り道を空けてください」
若者がうなずき、近くの者へ声をかけた。
千代は水を取りに走りかけ、景継の顔を見ると足を止めた。
「まず、横になれる場所を空けます。水は、意識がはっきりしてからです」
自分に言い聞かせるように言い、周囲の者たちへ場所を空けるよう頼んだ。
綾と若者が景継を支え、壁際に敷かれた布の上へ横たえる。
景継は目を開けていた。だが、起き上がろうとするたび、眉間に皺が寄る。
「患者が……まだ、向こうに」
「今は黙っていろ」
綾の声は厳しかった。
「お前が何を言おうとしているかくらい、分かっている。だからこそ、今は黙っていろ」
「ですが」
「その患者を誰が見ている?」
景継は答えられなかった。
小夜が代わりに答えた。
「私が先ほど様子を確かめました。今すぐ処置を変える必要があるかは、まだ分かりません。ただ、次に確認することは記録してあります」
「なら、確認してこい」
綾は小夜に告げた。
「変化があれば、すぐ知らせろ。自分だけで判断できないことは、できないと言えばいい」
「はい」
小夜は一度、景継を振り返った。
何かを言いたそうな顔をしていた。
景継も、彼女に何かを伝えようとした。だが、口を開いても言葉が続かなかった。
小夜は帳面を拾い上げた。
「では、行ってまいります」
景継の返事を待たず、立ち上がった。
自分が離れれば、景継は心配するだろう。
それでも、目の前の患者を確かめなければならない。
小夜は帳面を抱え、静かに歩き出した。
*
景継が倒れた原因を、誰かが一つに決めつけることはできなかった。
ここ数日の移動と処置。短い睡眠。十分に取れなかった食事。緊張が途切れない中で、次々に判断を迫られてきたこと。
どれもが重なっていた。
千代は、景継が最後に食事を取った時刻を確かめようとした。しかし、本人に尋ねても、はっきりした返事は返ってこない。
「朝に……少し」
「朝とは、いつですか」
「出立する前だったと思います」
「それでは、分かりません」
千代は言いかけて、口を閉じた。
責めても仕方がない。
景継自身、自分がどれほど食べ、どれほど眠っていないかを、正確には把握していなかったのだろう。
千代は周囲の者に尋ね、最後に食事をしているところを見た者を探した。水を飲んだ時刻も、分かる範囲で確かめた。
記憶は人によって違った。
朝だったという者もいれば、日が高くなってから見かけたという者もいる。誰も、はっきりした時刻までは覚えていなかった。
千代は帳面を開いた。
確かなことと、曖昧なことを分けて記す。分からない部分を、都合のよい時刻で埋めることはしなかった。
今まで景継が周囲に求めてきたことを、今度は千代自身が行った。
その間にも、運ばれてくる負傷者は絶えない。
「千代様、こちらの布はどこへ置けばよろしいでしょうか」
「使うものと、洗ってもう一度使えるものを分けてください。ただし、傷に直接当てたものを、汚れたまま別の患者へ回してはいけません」
「こちらの器は?」
「使ったものは、未使用のものと混ぜないでください。置き場所を分けます」
千代は答えながら、物資の残りを確かめた。
布の束を数え、水の入った器を見て、道具の欠けや汚れを確認する。
すべてを景継に尋ねていたら、現場が止まってしまう。
分からないことはある。
だが、分かることまで誰かに任せる必要はない。
「ここにある布は、どれだけ残っていますか」
千代が尋ねると、近くにいた者が束を数え直した。
「これで全部だと思います」
「思います、ではなく、もう一度数えてください。数え終えたら、私に知らせてください」
男は一度、束を見直した。
「……はい」
千代はその返事を聞いてから、別の場所へ移った。
すべてを自分で数え直す時間はない。だからといって、数が曖昧なままでは、次に何を使えるかも分からなくなる。
誰が数えたか。何を数えたか。まだ確かめていないものは何か。
その三つだけでも、残しておく必要があった。
帳面の端に、千代は小さく書き足した。
景継が起き上がれるようになるまで、どれほどかかるかは分からない。
その間も、人は運ばれてくる。
布も水も、使えば減る。
千代は帳面を閉じ、次の仕事へ向かった。
*
日が傾き始めた頃、景継はようやく上半身を起こせるようになった。
身体の重さは残っている。頭もまだすっきりしない。
それでも、横になっているだけでは落ち着かなかった。
「起き上がるのは、まだ早いと思います」
千代が言った。
「少しだけです。外の様子を――」
「外の様子なら、私が見てきました」
千代は景継の前に腰を下ろした。
「負傷者は運ばれてきています。道の先では荷をまとめている者たちがいます。布は、今の使い方を続ければ足りなくなるかもしれません。水も、余裕があるとは言えません」
「そうですか」
「はい」
「では、布を使う順番を――」
「それも、今、整理しています」
千代は一つずつ答えた。
景継は口を閉じた。
彼女は、何もできていないわけではなかった。
むしろ、自分が横になっている間にも、必要な仕事を進めてくれていた。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのは、まだ早いです」
千代は帳面に目を落とした。
「不足しているものは、不足しています。できていないこともあります。景継様が戻れば、もっと早く決められることもあるでしょう」
「それは、そうかもしれません」
「でも、景継様が戻るまで何もできない、ということではありません」
千代はそこで言葉を切った。
景継が彼女を見た。
「私は、そういうふうに働きたいのです。あなたがいるときだけ役に立つのではなく、あなたがいないときにも、できることを残しておきたい」
千代は帳面を閉じた。
「……ですから、今は休んでください」
その言葉には、仕事上の必要だけではないものが混じっていた。
景継にも、それは分かった。
「分かりました」
千代は少しだけ目を見開いた。
「本当に?」
「はい」
「……いつも、それくらい素直ならよいのですが」
そう言って立ち上がった彼女の袖を、景継の指がかすかにつまんだ。
千代は足を止めた。
景継自身、なぜそうしたのか、すぐには説明できなかった。
ただ、離れていく彼女を見て、何かを伝えておきたいと思った。
「千代さん」
「はい」
「心配をかけました」
千代は俯いた。
袖をつままれた指へ、そっと目を落とす。
「……本当に、心配したのです」
声が少し震えた。
「あなたがいなくなったら、私たちは……」
そこまで言って、千代は言葉を止めた。
続きを口にすれば、自分の胸の内をすべて見せてしまう気がした。
景継は、無理に続きを求めなかった。
「もう少し、皆さんに頼ります」
「少しでは足りません」
「では、もう少し多く」
「そういう言い方をするところが、困るのです」
千代は顔を上げた。
目の端がわずかに赤い。
「約束してください。自分のことも、私たちに知らせると」
「約束します」
「食事を取れなかったときも、眠れなかったときも?」
「……はい」
「本当ですね」
「本当です」
千代はしばらく景継を見つめていた。
やがて、彼の手をそっと布の上へ戻した。
「では、今は休んでください。私は、まだ仕事がありますから」
立ち去る直前、千代の指先が景継の手の甲に触れた。
ほんの一瞬だった。
それでも、彼女がすぐに手を引かなかったことを、景継は覚えていた。
*
夜になっても、綾は休もうとしなかった。
景継が横になっている場所の近くで、搬送の順番を確かめ、動ける者と動かせない者を分け、手の足りない場所へ人を回していた。
景継がいつも担っていた仕事のすべてを、彼女が引き受けたわけではない。
医療上の判断には、まだ景継の知識が必要な場面がある。
だからこそ、綾は自分にできることを確実に進めていた。
「次の者は、先ほどの場所で待たせろ。こちらの患者は、今は無理に動かさない。水を運ぶ者は、帰りに空の器を持って戻れ」
荷を運んでいた男が、道の脇で立ち止まった。
「こちらの荷は、どこへ置きましょう」
「先ほど決めた場所だ。布と水を一緒に積むな。布を出す者が、荷を全部ひっくり返さずに済むようにしておけ」
「分かりました」
「終わったら、何をどれだけ運んだか知らせろ。次の者が、残りを見て迷わないようにな」
男は荷の置き場所を確かめ、近くの者へ指示を伝えた。
綾はその様子を見届けてから、別の場所へ向かった。
片腕でできることには限りがある。
それを知っているからこそ、綾は一人で抱え込まなかった。
動ける者に頼み、頼んだ者が迷わないように順番を伝える。危険な場所には近づかせず、判断に迷うことは自分のところへ持ってこさせる。
ただし、すべてが思いどおりに進むわけではない。
運ぶ順番を取り違えた者がいた。荷を置いた場所が塞がり、別の者が遠回りを強いられた。
綾は声を荒らげる代わりに、荷を置き直させた。
「次からは、運び出す前に置き場所を確かめろ。分からなければ、勝手に決めるな」
「申し訳ありません」
「謝るのは後でいい。今、何が残っているか確かめろ」
男はうなずき、荷の数を数え始めた。
景継が教えたこともある。
だが、今ここで人を動かしているのは、綾自身が積み重ねてきた経験だった。
仕事が一段落した頃、綾は景継のもとへ戻った。
彼は眠ってはいなかった。
「まだ起きていたのか」
「眠ろうとはしています」
「それは、眠っている者の言い方ではない」
「綾さんも、まだ働いているではありませんか」
「私は、今やるべきことをしている」
「私も、そう思っていました」
綾は眉を寄せた。
「……そう思っていたから、倒れたのだろう」
景継は返す言葉を失った。
綾はその隣に腰を下ろした。
「私が腕を失ったとき、お前は、失ったものは戻らないと言った」
景継は黙って彼女を見た。
「だが、残っているものまで、一人で使い切る必要はない」
綾の声は、いつものように落ち着いていた。
ただ、膝の上に置かれた手だけが、わずかに握られていた。
「私は、お前に助けられた。あのときだけではない。ここまで来る間にも、何度もだ」
「綾さんが、自分で立ち直ったのです」
「そうだ。私が立ち直った。だからこそ、今度は私にも助けさせろと言っている」
景継は綾の手を見た。
片腕を失った彼女は、その失われた腕を取り戻したわけではない。できなくなったこともある。人に頼らなければ難しい仕事もある。
それでも、彼女は自分の役割を見つけ、現場を支え続けてきた。
景継だけが、誰かを助ける側でいられるはずはなかった。
「……分かりました」
「本当に分かったのか」
「はい。綾さんにも、助けさせてほしいということですね」
「違う」
綾は景継を見据えた。
「私が助ける。お前は、それを受け入れろ」
景継は思わず笑いかけた。
だが、綾は笑わなかった。
「何がおかしい」
「いえ。綾さんらしいと思っただけです」
「話をそらすな」
綾は手を伸ばし、景継の手を握った。
力任せではない。
逃げられないように押さえるのでもない。
ただ、そこにいることを確かめるような手だった。
景継はその手を握り返した。
綾の目が、わずかに揺れた。
彼女はすぐに顔をそらした。
「……熱が戻っていないか、確かめただけだ」
「手で分かるのですか」
「今は黙っていろ」
景継は素直に口を閉じた。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。
外からは、荷を動かす音と、人を呼ぶ声が聞こえていた。
すべてが片づいたわけではない。
明日になれば、また判断しなければならないことが増えるだろう。
それでも、今だけは、綾の手の温かさを感じていてよいのだと思った。
*
夜半を過ぎ、小夜が帳面を持って戻ってきた。
「景継様。今日の記録を、まとめました」
「ありがとう。見せてもらえますか」
「はい。ただし、まだ確かめられていないところがあります」
小夜は帳面を開いた。
患者の名前。観察した時刻。呼吸の様子。返事の仕方。処置を行った者。次に確かめるべきこと。
文字は整っていない。
書き足された部分もあり、後から訂正した跡もあった。
しかし、どこまでが実際に見たことで、どこからが判断なのかが分かるように記されていた。
小夜は一つの箇所を指で示した。
「ここは、私だけでは判断できませんでした。先ほどより返事が遅くなったように思いましたが、別の者に確かめてもらうと、呼びかけたときの声の大きさも違っていたそうです」
「それで、どうしましたか」
「その時刻を記しました。今の状態も、もう一度確かめるよう頼んであります」
「分からないままにせず、次に確かめることを決めたのですね」
「はい」
小夜は少しだけ不安そうに景継を見た。
「これで、よかったのでしょうか」
景継はすぐには答えなかった。
記録の中には、見落としがあるかもしれない。観察した者の記憶違いも、判断の誤りもありうる。
だからこそ、記録をつけたというだけで正しいとは言えない。
だが、分からないことを隠さず、次に確かめるべきことを残したのは、確かな一歩だった。
「はい。分からなかったことを、分からなかったと書いてくれた。それが大切です」
「それだけで、役に立つのでしょうか」
「それだけでは、足りないこともあります。でも、何も書かれていなければ、次に見る者は、何が分からなかったのかさえ分かりません」
小夜は帳面を見下ろした。
かつて彼女は、自分の判断が間違っていたのではないかと、何度も考えてきた。
あのとき、別のことに気づいていれば。
もっと早く判断できていれば。
違う道を選んでいれば。
後悔は、簡単には消えない。
それでも今は、自分が何を見て、何を見落とし、何が分からなかったのかを、次の人へ渡すことができる。
「次は、もう少し早く気づけるようにします」
「お願いします。ただし、一人で全部を見ようとしないでください」
小夜は顔を上げた。
「……景継様に、それを言われるのですね」
「返す言葉もありません」
小夜は小さく笑った。
その笑顔には、まだ不安が残っていた。
それでも、以前のように自分を責めるだけの表情ではなかった。
「私も、皆に頼ります。分からないことは、分からないと伝えます」
「それが一番です」
小夜は帳面を閉じた。
立ち上がろうとしたとき、景継が声をかけた。
「小夜さん」
「はい」
「今日、よく見ていてくれました。ありがとう」
小夜は目を見開いた。
褒められると思っていなかったわけではない。
ただ、自分が迷ったことや、判断できなかったことも含めて、見ていてくれたのだと気づいた。
「……はい」
返事は小さかった。
小夜は少しだけ顔を赤くして、帳面を胸に抱いた。
「では、明日のために、もう少し記録を整えてきます」
「無理はしないでください」
「それは、景継様にも申し上げたいことです」
そう言い残し、小夜は部屋を出ていった。
*
夜明け前、景継はようやく眠りについた。
目を覚ましたとき、外から聞こえてきたのは、慌ただしい叫び声ではなかった。
水を運ぶ音。
器を置く音。
患者の名を確かめる声。
そして、誰かが帳面を読み上げる声だった。
「こちらの方は、先ほどより返事がはっきりしています。ただ、まだ歩かせない方がよいと思います」
「分かった。次に確かめる時刻も書いておけ」
「はい」
別の場所では、荷を運ぶ者が数を読み上げていた。
「布は、これだけです。水は、向こうに置いた分を合わせて確かめます」
「使った分と、残っている分を分けておけ。次に運ぶ者が分かるようにな」
返事があり、荷を置く音がした。
景継は、ゆっくりと身体を起こした。
まだ、完全に回復したわけではない。
頭には重さが残り、立ち上がれば、またふらつくかもしれない。
綾に見つかれば、間違いなく横になれと言われるだろう。
それでも、帳面を手に取ることはできた。
そこには、自分の筆跡ではない文字が並んでいた。
書き方は不揃いで、訂正も多い。
だが、誰かが見て、考え、次の人へ伝えようとした跡が残っていた。
景継は一つの記録を読み、もう一つを読み返した。
分からないことは、分からないと書かれている。
判断に迷った箇所には、誰に確かめたかが記されている。
次に確認することも、残されている。
自分が教えたからといって、すべてが正しくできるわけではない。
間違いもある。
足りないこともある。
それでも、次に直すための手がかりが残っている。
景継は帳面を閉じた。
外では、誰かが新しい患者を迎えるために、通路を空けていた。
その声を聞きながら、景継は再び横になった。
今は、休むことも自分の仕事なのだ。
そう認めるまでに、ずいぶんと時間がかかった。
だが、彼の代わりに動いている者たちがいる。
看病する者。記録する者。布や水を数える者。荷を運び、道を空ける者。
彼らは同じ仕事をしているわけではない。
見ているものも、できることも違う。
それでも、一人が確かめたことを次の者へ渡せば、仕事はそこで途切れずに済む。
景継が眠っている間にも、命をつなぐための仕事は続いている。
それは、景継一人の働きがそのまま続いているということではなかった。
彼がいなくても動ける部分と、まだ彼がいなければ決められない部分。その両方が、帳面の上にも、現場の声にも表れていた。
景継は目を閉じた。
今度は、誰かに言われる前に。
そして、次に目を覚ましたときには、彼らが何を見つけ、何を考え、どんな判断をしたのかを、きちんと聞こうと思った。




