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滅びるはずの小田原衆を、転生医師が救う  作者: チャプタさん


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第四十四話 行先選択

第四十四話 行先選択


 朝の光が、荷車の軋む音と人々の話し声を照らしていた。


 城を出た者たちの行列は、道の先まで続いている。荷を背負う者、誰かの肩を借りて歩く者、車に乗せられたまま身じろぎもしない者。昨日まで同じ城にいた者たちも、今日はそれぞれ違う方向を向いていた。


 道の脇には、夜のうちにまとめられた荷が積まれている。誰のものか分からぬ包みもあった。持ち主が戻るのを待つ者がいれば、先へ進まなければならず、荷を置いていこうとしている者もいた。


 景継の前には、数人の男女が立っていた。


 そのうちの一人が、ためらいがちに口を開く。


「先生方は、これからどちらへ向かわれるのですか」


 景継は、すぐには答えなかった。


 問いかけた男は、まだ若い。片足に包帯を巻き、杖代わりの棒に体重を預けている。傷そのものは落ち着きつつあるが、長い距離を歩ける状態ではなかった。


 その隣には、幼い子を抱いた女がいる。背後に立つ老人は、何度も道の先を振り返っていた。


 彼らが尋ねているのは、景継たちの行き先だけではない。


 自分たちも、そこへ行ってよいのか。


 これから誰を頼り、どこで寝起きし、何を食べて生きていけばよいのか。


 その答えを求めているのだとしても、景継には、彼らが何を望んでいるのかをまだ言い切れなかった。


「まだ、決まっていません」


 正直に答えると、男の顔に落胆が浮かんだ。


「決まっていない……のですか」


「はい」


「では、私たちは」


 男はそこで言葉を止めた。


 景継は、その先を勝手に補わなかった。


 ついてきたいのか。行き先が分からないのか。それとも、頼れる者がいなくなったことを、ようやく口にしようとしているのか。


 今の言葉だけでは分からない。


「まず、皆さんがどうしたいのか、聞かせてください」


 男は困ったように眉を寄せた。


「どうしたい、と申されましても……」


「戻りたい場所がある方もいるでしょう。誰かを探したい方もいる。しばらく身体を休めたい方もいるはずです」


「ですが、どこへ行けばよいのかも分からぬ者がおります」


「それも承知しています。分からないことは、分からないまま確かめましょう。今すぐ決められないことまで、無理に決める必要はありません」


 男は何かを言いかけたが、結局、頭を下げた。


 その背中を見送りながら、景継は自分の手を見た。


 助けるべき人がいる。


 それだけで、何とかできるわけではなかった。


 人を受け入れるには、寝る場所がいる。食べ物がいる。傷を診るための布や道具もいる。誰かを連れていくと決めれば、その人が望んでいた別の道を閉ざしてしまうこともある。


 ここにいれば安全だと約束することはできない。


 それでも、何もできないと言って背を向けることも、景継にはできなかった。


     *


「全員を、同じ場所へ連れていくわけにはいきませんね」


 千代は帳面を広げ、筆先でいくつかの記載を確かめていた。


 負傷の程度、付き添いの有無、最後に確認された家族の所在。昨日までの記録には、分かることが少しずつ積み重なっている。


 だが、記録が増えたからといって、行き先まで分かるわけではなかった。


「この方は、村へ戻りたいとおっしゃっています。ただ、今の足では、一人で歩き通すのは難しいでしょう」


 千代が一人の男を示した。


 男は壁際に腰を下ろし、包帯の巻かれた足を伸ばしていた。景継が近づくと、彼は顔を上げた。


「歩けるようになれば、戻ります」


「ご家族が、村にいらっしゃるのですか」


「妻と娘がいます。城へ出る前、村に残してきました」


「今、そこへ戻る道が安全かどうかは、まだ確かめられていません」


「それでも、戻りたいのです」


 男の声には、迷いがなかった。


 景継は、すぐに引き止めなかった。


「分かりました。まずは、道の様子と、途中で休める場所があるかを確かめましょう。歩けるようになるまで、ここで休むという選択もあります」


「ここに、いつまでいられるのでしょうか」


「それは、まだ約束できません」


 男は唇を結んだ。


 景継の答えは、望んでいたものではなかったのだろう。それでも男はしばらく考えた後、小さくうなずいた。


「ならば、戻れるようになるまで、足を治すことを考えます」


「はい。そのために、今できることを一緒に考えましょう」


 景継は足の腫れと痛みを確かめた。傷の具合を見て、どれほど歩けるかを今日の様子だけで決めつけない。無理をして歩けば、かえって戻る日が遠くなる可能性もある。


 診察を終え、千代が帳面に記す。


「村へ戻ることを希望。移動の可否は、足の状態と道の確認を待つ」


「それでよいと思います」


 千代は筆を止めた。


「先生は、皆さんの希望を聞いても、すぐには答えを出されませんね」


「答えを出せるだけのことが、まだ分かっていませんから」


「では、分かっていないことも、きちんと残しておきます」


 千代は帳面を閉じず、次の欄へ目を移した。


 行き先が決まらない者にも、行き先を決めるために必要なことはある。


 歩けるかどうか。


 途中に休める場所があるか。


 誰かに同行を頼めるか。


 道が通れなければ、別の道を探す必要がある。


 千代は、まだ答えのない欄に小さく印をつけた。


     *


 少し離れた場所では、小夜が老人と話していた。


「最後に、お身内を見たのは、どのあたりでしょうか」


「城を出る前だ。人が押し合っていてな。振り返ったときには、もう見えなかった」


「お身内のお名前は」


 老人は答えた。


 小夜はその名を繰り返し、間違いがないか確かめてから、最後に見た場所を尋ねた。


 老人の話は、ところどころ曖昧だった。門を出た順番も、誰と一緒に歩いていたかも、はっきりとは思い出せない。


 小夜は、無理に話を一つにつなげようとはしなかった。


「分かるところだけで構いません。思い出したら、後で教えてください」


「それで、見つかるものだろうか」


「今の話だけでは、まだ分かりません。でも、分からないからといって、探す手掛かりがないわけではありません」


 老人は小夜の顔を見つめた。


「お前さんは、見つかると思うか」


 小夜は、すぐにうなずかなかった。


 見つかると答えれば、老人は少し安心するかもしれない。


 だが、その言葉が本当になる保証はない。


「見つけるために、できることをします」


 小夜はそう答えた。


 老人はしばらく彼女を見ていたが、やがて深く息を吐いた。


「……それでよい。何も分からぬまま待つよりは、ずっとよい」


 小夜は老人の言葉を記録に加えた。


「最後に見た場所は、もう一度、道を知っている方に確かめてもらいます。お身内が見つかったという知らせがあれば、誰から聞いた話なのかも確かめます」


「そこまでせねばならぬのか」


「人違いだったら、また探し直すことになりますから」


 老人は口を閉じた。


 小夜は、老人の名と、探している者の名を別々に記した。最後に見た場所は、老人自身の記憶によるものだと分かるようにしておく。


 そこへ綾がやってきた。


「探す者を出すのなら、戻って報告する者も決めておけ。探しに出たまま、こちらが行き先を知らなくなっては困る」


「はい。まず、最後に見た場所を確かめます。遠くまで探しに行くのは、その後にします」


「なら、二人に頼もう。道を知っている者を一人、ここへ戻って報告できる者を一人だ」


 小夜はうなずいた。


 人を探すことにも、人を待たせることにも、手が必要だった。


 どちらか一方だけを考えていては、別の場所で困る者が出る。


 小夜は老人に、捜索へ出る者の名を伝えた。いつ頃までに戻るかは、道の様子を見なければ決められない。戻れない場合には、途中で知らせを託すことも頼んでおく。


 老人は、何度もその名を口の中で繰り返した。


 忘れないためなのか、誰かが動き出したことを確かめるためなのか、小夜には分からなかった。


     *


 綾は、人々が集まる場所を歩いていた。


 荷が置かれ、通路が狭くなっている。歩ける者が急いで通り抜けようとする一方、足元のおぼつかない者は、立ち止まるたびに後ろから押されていた。


「ここに人を集めすぎるな。荷を置く場所と、休む場所を分ける」


「しかし、荷をどこへ置けばよいのです」


「道の端ではなく、あちらの空いている場所だ。通り道を塞がず、荷を見張れるところを探せ」


「そちらへ運ぶとなると、手が足りません」


「なら、今動ける者を確かめろ。全員に同じ仕事をさせる必要はない」


 綾は片腕で荷を持ち上げようとはしなかった。


 代わりに、荷の重さと人の数を見て、誰がどこを持てばよいかを決める。無理に力を出す者がいれば止め、歩くのが難しい者には別の役割を頼んだ。


「そこの者、荷を運べるか」


 声をかけられた男は、すぐには答えなかった。


「足は動きます。ただ、長く歩くのは難しい」


「なら、あちらの荷を二つずつ運べ。運び終えたら、ここへ戻って数を知らせろ。無理になったら途中でやめてよい」


「それだけでよいのですか」


「何を持っていったか分からなくなる方が困る。運び終えたら知らせろ」


 男はうなずき、荷へ向かった。


 別の者には、荷の持ち主を確かめる仕事を頼んだ。誰のものか分からない包みは、勝手に開けず、置かれていた場所と見た者の名を記す。


 その様子を見ていた小夜が、老人に一言断り、綾のもとへ向かった。


「こちらの方のご家族を探したいのですが、今すぐ動ける人はいますか」


「何人かなら出せる。ただし、探す者が増えれば、ここで待つ者の手が減る」


「分かっています。まず、最後に見た場所を確かめます。遠くまで探しに行くのは、その後にします」


「それなら二人に頼もう。道を知っている者を一人、ここへ戻って報告できる者を一人だ」


 小夜はうなずいた。


 綾は、すぐに人を送り出そうとはしなかった。誰がどの荷を運んでいるか、どこに負傷者が休んでいるかを確かめてから、動ける者を二人選んだ。


 送り出す者の名を、千代に伝える。


 千代は帳面に名を書き、出発した刻と、確かめに行く場所を記した。


「戻ったら、まず誰に知らせればよいですか」


 若い男が尋ねた。


「私に知らせてください。私がいなければ、小夜に。二人ともいないときは、ここで荷を数えている者に伝えてください」


 千代は帳面の端を示した。


「ここに、あなたたちの名を書いておきます。戻ったときに、誰が帰ってきたのか分かるように」


「分かりました」


 二人は道へ出ていった。


 その背中が人波に紛れるまで、綾は見送っていた。


 人を送り出すだけでは、捜索は終わらない。


 送り出した者が戻れること。戻れなければ、そのことを誰かが知ること。得た情報を、次に探す者へ渡せること。


 それらが揃わなければ、探すために動いた者まで見失うことになる。


     *


 昼近くになり、荷車の列が動き始めた。


 その途中で、一台の車が狭い道の真ん中に止まっていた。


 積んでいた荷が片側へ寄り、車体がわずかに傾いている。車輪のそばでは、荷を運んでいた男たちが、どうにか元へ戻そうと押していた。


「押すな!」


 綾の声が飛んだ。


 男たちが手を止める。


「このまま押せば、荷が落ちる。まず、どちらへ傾いているか確かめろ」


「ですが、後ろがつかえています」


 振り返れば、荷車が何台も続いていた。さらに後ろから来る人々も、道の途中で足を止めている。


 急がなければ、移動全体が滞る。


 しかし、急いで荷を押し戻せば、車体が倒れる危険があった。


 綾は車輪のそばにしゃがみ、地面の傾きと荷の位置を確かめた。


「先に、こちら側の荷を下ろす。重い物からではない。動かしたときに、反対側へ荷重が移らないようにだ」


 荷を積んだ男が、ためらいながら言った。


「その順で、よいのでしょうか」


「分からないなら、一度に動かすな。一つずつ下ろして、傾きが変わるか確かめる」


 綾は男に手順を説明した。


 小夜は車の周囲にいた人々を誘導する。子どもと老人を先に離し、歩ける者には道の脇で待つよう伝えた。


 千代は、下ろした荷を見て回る。


「こちらの袋は布です。濡らさないよう、地面へ直接置かないでください。食べ物は別の場所へ分けます」


「そんなことをしていたら、日が暮れますぞ」


 荷を運ぶ男が不満げに言った。


 千代は男の顔を見た。


「急ぐ必要があることは分かっています。ですが、荷を壊してしまえば、運べるものが減ります。今、どれを守るか決めておかなければ、後で困ることになります」


 男はすぐには返事をしなかった。


 それでも、次に荷を下ろすときには、千代の指示を聞いてから動いた。


 景継は荷車から少し離れたところで、周囲にけが人がいないか確かめていた。


 そのとき、道の端にいた老人が、ふらりと身体を傾けた。


 小夜がすぐに気づいた。


「そちらの方、動かないでください」


 老人は返事をしようとしたが、膝が折れ、その場に座り込むように倒れた。


 景継が駆け寄る。


「聞こえますか」


 老人は目を開けていた。呼びかけにも反応する。しかし、すぐに立ち上がろうとすると、身体が揺れた。


「無理に立たないでください。少し、そのままで」


 景継は意識の様子と呼吸、顔色を確かめる。いつから歩いていたのか。食事や水は取れているのか。問いかけに答えられる範囲で尋ねた。


 老人は、朝から何も口にしていないという。


 それだけで倒れた理由を決めることはできない。景継はほかに痛む場所がないかを確かめ、しばらく休ませることにした。


 荷車の修理は、まだ終わっていない。


 小夜は老人のそばに残った。


「先生、こちらは私が見ています。変化があれば、すぐに知らせます」


 景継は一瞬、小夜を見た。


「お願いします。返事が遅くなる、呼吸が変わる、痛みが増すなど、気づいたことは小さなことでも伝えてください」


「はい」


 小夜は老人のそばに腰を下ろし、呼びかけへの反応と呼吸の様子を確かめた。


 景継は荷車の方へ戻った。


 目の前の老人を放っておくことはできない。だが、他の者にできることまで、自分一人で抱える必要もなかった。


     *


 ようやく荷車の傾きが収まり、荷を積み直す段取りがついた頃には、日が傾き始めていた。


 車体は倒れずに済んだものの、積み荷の一部は破損していた。使える物と、もう使えない物を分けなければならない。


 予定していたすべてを運ぶことはできなくなった。


「この布は、破れていますね」


 千代が傷んだ布を手に取った。


「小さく切れば、使えるところもあります。ただし、傷の手当に使うものと、荷を包むものは分けなければなりません」


「使えるものを、捨てるわけにはいきませんな」


「ええ。ですが、何にでも使えるわけではありません」


 千代は布を広げ、傷みの少ない部分を確かめた。


 失った物資は戻らない。


 その事実を認めたうえで、残った物をどう使うか考えるしかなかった。


 荷を運んでいた男が、破損した包みを見ていた。


「これは、どなたの荷です」


 千代は記録を確かめた。


「まだ分かりません。先ほど、こちらへ置かれていたことまでは確認しています」


「持ち主が分からぬまま、壊れてしまったのか」


「はい。ですから、残った物を分ける前に、もう一度、周りの方へ尋ねます」


 男は包みを見下ろした。


「わしらが運んだ荷だ。誰のものか分からなくとも、何か使えるものがあるかもしれん」


「そのとおりです。ただ、持ち主が分かるものは、勝手に使わずにおきたいのです」


 男は少し考えてから、うなずいた。


「なら、わしも聞いて回ろう。誰かが預けた荷かもしれん」


 千代は男の名を尋ね、帳面に書き加えた。


 荷を運んだ者としてだけではなく、持ち主を確かめる者として、次の仕事を頼むことになった。


 景継が老人の様子を確かめに戻ると、小夜が顔を上げた。


「先ほどより、返事ははっきりしています。ですが、まだ立たせてはいません」


「分かりました。もう少し休みましょう」


 老人は申し訳なさそうに景継を見た。


「わしのせいで、皆の足を止めてしまった」


「あなたのせいではありません。歩き続けるのが難しくなった。それだけです」


「だが、急いでいるのであろう」


「急いでいます。でも、倒れた方を置いていく理由にはなりません」


 老人は何かを言おうとし、やがて口を閉じた。


 景継は、老人が再び歩けるかどうかをもう一度確かめることにした。


 小夜はその様子を見ながら、先ほどの記録を読み返していた。


「朝から食事を取っていないこと、歩いている途中でふらついたこと、呼びかけには反応があること……ここまでは、見たことと聞いたことです」


「はい」


「原因は、まだ分かりません」


「それで構いません。分からないことを、分かったことにしないでください」


 小夜はうなずき、記録の末尾に、休んでからの変化を書き足した。


 その手は、もう迷いだけで止まることはなかった。


     *


 夕刻、移動を希望する者たちが、再び景継の前に集まった。


 村へ戻りたい男は、まだ長く歩ける状態ではなかった。それでも、休みながら道を進める可能性があること、道中で頼れる者を探す必要があることを聞き、翌朝まで待つことにした。


 家族を探していた老人は、捜索に出た者からの報告を待つことになった。まだ見つかったわけではない。だが、最後に目撃された場所と、そこから先の道筋が少しずつ分かってきていた。


 別の女は、知人のいる村へ向かいたいと申し出た。


「その村まで、誰か一緒に行ける者がいるでしょうか」


 千代は、帳面に目を落とした。


「今、確実にお約束できる者はいません。まず道を知っている方に尋ねます。途中で休める場所と、食べ物を得られる場所も確かめましょう」


「それまで、ここにいてもよいのでしょうか」


「今夜休める場所は確保します。ただし、その先まで必ずお引き受けできるとは言えません」


 女は、抱いていた子の背を撫でた。


「分かりました。道が分かるまで、ここで待ちます」


 千代は、その希望と、今夜休む場所を記録した。


 誰もが望んだ答えを得たわけではない。


 それでも、最初に集まったときとは違い、それぞれが何を望み、何が分かっていて、何がまだ決まっていないのかが、少しずつ言葉になっていた。


 景継は、一人ずつ話を聞いた。


 今すぐ出発できる者。


 傷が落ち着くまで待つ者。


 同行者を探す者。


 家族からの知らせを待つ者。


 行き先を決められない者。


 誰かの希望を聞くたびに、景継はその希望を叶えるために必要なものを考えた。道、人手、食糧、休息場所、負傷の程度。どれも欠かすことはできない。


 だが、それらを考えることと、本人の代わりに生き方を決めることは違う。


 景継は、希望を聞いたあとに、すぐ答えを出そうとするのをやめた。


「まず、何が必要かを確かめます。できることと、まだできないことを分けて、お伝えします」


 それだけを約束した。


     *


 人々が散っていくのを見届けた後、景継は帳面を閉じた。


「全員を連れていければ、もっと簡単だったのでしょうか」


 千代が尋ねた。


「連れていくことができても、その先で暮らせるとは限りません」


「……そうですね」


「ここに残る方にも、別の場所へ行く方にも、それぞれの事情があります。私たちの都合だけで決めるわけにはいきません」


 千代は帳面を抱え直した。


「先生は、皆さんを守ろうとしているのですね」


「できることはしたいと思っています」


「でも、守るために決めることと、本人に代わって決めてしまうことは違う」


 景継は千代を見た。


 彼女は、昼間のやり取りを思い返すように、ゆっくりと言葉を続けた。


「私たちも、これからどこへ向かうのか、まだ決めていません。物資も、人手も、十分ではない。だからこそ、誰かの希望を聞く前に、こちらで行き先を決めてしまってはいけないのだと思います」


「……その通りですね」


 景継は、自分が先ほどまで考えていたことを振り返った。


 危険が少ない道を選ぶ。移動できる者と、休むべき者を分ける。物資が足りなければ、何を優先するか決める。


 どれも必要な判断だった。


 しかし、その判断をすることと、誰がどこで生きるべきかまで決めることは、同じではない。


 景継は、ようやくその違いを言葉にできた気がした。


     *


 日が沈み、野営の支度が始まった。


 景継は、明日の移動について綾と相談しようと、彼女の姿を探した。


 綾は荷車の周囲で人々に指示を出していた。荷を置く場所、夜の間に人が通る道、負傷者を休ませる場所。それぞれが混ざらないよう、何度も配置を確かめている。


「綾、明日の道について――」


「その前に、座れ」


 景継は足を止めた。


「まだ何もしていませんが」


「昼から、ほとんど休んでいないだろう」


「皆の行き先を確認していただけです」


「それを、何もしていないとは言わない」


 綾は景継の顔を見つめた。


「お前は、誰かが困っていると、すぐに自分が動こうとする。だが、動ける者は他にもいる」


「分かっています」


「本当にか」


 景継は、返事に詰まった。


 綾は、責めるような顔をしていなかった。ただ、景継がまた自分だけで抱え込もうとしていないか、確かめているようだった。


「昼間、小夜に老人を任せたでしょう」


「はい」


「千代には、物資を確かめてもらった。私には、荷車のことを任せた」


「ええ」


「それで、何も問題はなかったか」


 景継は少し考えた。


「問題がなかったわけではありません。荷の一部は壊れましたし、老人の具合も、まだ完全には分かりません」


「そうだな」


「ですが、私一人で動いていたら、もっと時間がかかっていたと思います」


 綾は、ようやく小さくうなずいた。


「なら、明日も同じようにしろ。自分でやることと、人に任せることを分けろ」


「分かりました」


「それから」


 綾は言葉を切った。


 景継が顔を向けると、彼女は視線をそらした。


「……自分の行き先も、勝手に決めるな」


「私の、ですか」


「そうだ。私たちがどこへ行きたいか、何をしたいか。聞く前から、お前の中で決めてしまうな」


 景継は、昼間に彼女たちの希望を聞こうとしながら、結局、自分が守りやすい形へと話を導きかけていたことを思い出した。


「すみません」


「謝れば済む話ではない」


 綾は景継の方へ向き直った。


「私たちは、お前に守られるためだけに、ここにいるわけではない」


 その言葉は、強かった。


 けれど、拒絶ではなかった。


 綾は自分の失った腕を隠そうともしなかった。できなくなったことを知り、それでも自分ができることを探し、人に任せることを覚えながら、今も現場に立っている。


 景継は、その姿を見ていたはずだった。


「……はい。明日、改めて三人の希望を聞かせてください」


 綾は、少しだけ目を見開いた。


「私だけではない。小夜にも千代にも、だ」


「分かっています」


「なら、忘れるな」


「忘れません」


 綾はうなずき、仕事へ戻ろうとした。


 その背に、景継が声をかける。


「綾」


「何だ」


「今日、荷車を止めたときの判断は、助かりました」


 綾は振り返らなかった。


「当然のことをしただけだ」


「それでも、あなたがいてくれてよかった」


 綾の足が止まった。


 しばらく、返事がなかった。


 やがて彼女は、顔をそらしたまま、小さく言った。


「……そういうことを、急に言うな」


「急に、でしたか」


「今は仕事中だ」


 綾は歩き出した。


 その耳が、夕闇の中でも分かるほど赤くなっていた。


 景継は、追いかけなかった。


 代わりに、彼女が整えた通路を見た。人がすれ違えるだけの幅があり、荷は通り道から外され、負傷者が休む場所には、すぐに手を貸せる者がいる。


 綾が考え、動かし、作った場所だった。


 その仕事を、景継が自分のものとして語ることはできない。


     *


 夜が深くなった頃、景継はようやく腰を下ろした。


 千代が用意した水を飲み、小夜が記した老人の様子を確かめる。綾からは、明朝の移動に必要な人手と荷車の数が伝えられていた。


 何もかもが決まったわけではない。


 誰をどこへ送るのか。誰がどこまで歩けるのか。家族を探している者たちは、いつ再会できるのか。


 明日になれば、また新しい問題が出てくるだろう。


 それでも、今日の終わりには、いくつかのことが分かっていた。


 村へ戻りたい者がいる。


 身内を探したい者がいる。


 今は休むことを選んだ者がいる。


 知人のいる場所へ向かいたい者がいる。


 そして、まだ決められない者もいる。


 そのどれもが、間違いではなかった。


 景継は帳面を開き、最後の欄に目を落とした。


 行き先――未定。


 その文字を、無理に書き換えることはしなかった。


 決まっていないのなら、決まっていないと残しておく。


 次に確かめるべきことが分かるように。


 誰かが、その続きを引き受けられるように。


 千代が書き留めた人の名の横には、荷を運ぶ者、道を確かめる者、負傷者の様子を見る者の名が並び始めていた。


 それは、行き先を決めた者の一覧ではなかった。


 まだ道が決まらない者を、明日も探し、支え、必要なことを確かめるための記録だった。


 景継は帳面を閉じた。


 外では、荷をまとめる音が続いている。


 明日の朝には、また人々が動き出す。


 その前に、まず自分たちがどこへ向かうのかを、三人と話さなければならない。


 誰かを守るために、その人の選択を奪ってはいけない。


 そのことを、景継は今日、助けを求める人々からだけでなく、共に歩いてきた仲間たちからも教えられたのだった。

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