第四十三話 離散捜索
第四十三話 離散捜索
千代の帳面には、名前の分からない者が何人も残っていた。
足の悪い女。
灰色の小袖を着た老人。
子を抱いた女。
どれも、誰かが見た姿を書き留めたものだった。名を尋ねたが答えがなかったのか、尋ねる余裕すらなかったのか。記した者の名があるものもあれば、それさえ分からないものもある。
千代は帳面の端を押さえ、記録を一つずつ追った。
「この女は、どこへ運ばれたのでしょう」
向かいに座る若い兵は、首を振った。
「私が見たときには、子を抱いておりました。その後は分かりませぬ」
「その場に、ほかの者はいましたか。女を支えた者や、荷車を動かした者です」
「荷を運ぶ男が二人。それから、負傷した者を連れていく兵が……」
「その者たちの行き先は」
「覚えておりませぬ」
千代は筆を止めた。
分からないことを、分かったように記すわけにはいかない。
女を見た者がいる。負傷者を運んだ者がいる。荷車を動かした者もいる。だが、それぞれの話が同じ時刻、同じ場所の出来事を指しているとは限らなかった。
「では、今分かっていることだけを書きます」
千代は、女を見た場所と、そのときの姿を書き足した。運んだ者の名は空けておく。行き先も空けておく。
「分からないところは、空けておいてください。あとで確かめられることもあります」
若い兵は帳面を覗き込み、やがてうなずいた。
城を出る者たちは、それぞれの事情を抱えて動いていた。負傷者を支える者。家族を探す者。荷を守る者。命じられた仕事を終えようとする者。
誰かが誰かを見失う。
見失ったことに気づくのは、たいてい、もう一緒には歩いていないと分かってからだった。
千代は次の記録を開いた。
そこには、人の名だけでなく、荷を預かった者、負傷者を引き渡した者、次の休息場所を聞いていた者の記述もあった。
人の所在を探すために書き始めた帳面だった。だが、誰が何を持ち、誰に何を渡したかも、あとから人を探す手掛かりになっていた。
千代は、その記録に印をつけた。
*
小夜は、移動した人々のもとを回っていた。
名を聞くだけでは足りない。誰と一緒にいたのか。最後に見た場所はどこか。相手は歩けたのか、誰かに支えられていたのか。身につけていた着物や持ち物に、見分ける手掛かりはなかったか。
尋ねるたび、返ってくる答えは違った。
「息子と一緒だったはずなのです」
年配の女は、膝の上で両手を握りしめていた。
「いつ、はぐれたのですか」
「人が動き始めたときです。荷をまとめて、こちらへ来るように言われて……。あの子は、私の後ろにいたはずなのに」
女はそこで言葉を止めた。
小夜は急かさなかった。
「最後に見たとき、息子さんは何をしていましたか」
「怪我をした人を支えていました。歩けない人がいたから、肩を貸していたのです」
「その人は、どちらへ向かいましたか」
「分かりません。ただ、あの子は、困っている人を放っておけない子で……」
女は息を詰めた。
「だから、きっと誰かを助けているのだと思いたいのです。でも、もし、そのせいで自分が……」
最後まで言えず、顔を伏せた。
小夜は慰めの言葉を探さなかった。
きっと無事です、と言うことはできる。すぐに見つかります、と約束することもできる。
けれど、どちらも今は分からないことだった。
「最後に見た場所を、もう少し詳しく教えてください。人の流れは、どちらへ向かっていましたか」
女は顔を上げた。
小夜は同じ問いを、少しずつ言い換えながら確かめた。女が思い出したことを一つずつ聞き、分かったことだけを記した。
「ここを知っている方がいれば、私に知らせてください。私は、ほかの人にも尋ねてみます」
近くにいた女に声をかけ、聞き取りを頼む。
自分が離れたあとも、誰かが尋ねられるように。自分の知らない場所にも、手掛かりがあるかもしれないからだ。
小夜は、女の話を帳面に書き留めた者の名も確かめた。
「あとで別の方から話を聞くことがあったら、ここで聞いたことと同じか、確かめてください。違っていたら、違っていたまま知らせてほしいのです」
頼まれた女は、帳面の記述を指で追った。
「分かりました。見たことと、人から聞いたことは分けておきます」
小夜はうなずいた。
探すためには、まず、探せるだけの手掛かりが要る。
そして、その手掛かりを一人の記憶だけに預けてはならなかった。
*
道は、人と荷で塞がっていた。
荷車が一台、道の半ばで止まっている。積み直した荷が車体からはみ出し、後ろから来た人々が先へ進めずにいた。
「これ以上、荷を寄せる場所がないんだ。無理に動かせば崩れる」
「こちらも通れなければ困るのです」
「こっちだって、好きで止めているわけじゃない」
声が重なり、互いの言葉が聞こえなくなっていく。
綾は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
「全員、いったん手を止めろ」
通る声だった。
言い争っていた男たちが、こちらを向く。
綾は道幅を確かめ、荷車の脇へ回った。片腕では、荷を力任せに動かすことはできない。だからこそ、どこに手をかければ動くのか、どこへ寄せれば人が通れるのかを先に見る。
「全部をどかせとは言わない。人が通れる分だけ空けてくれ」
「だから、場所がないと言っている」
「荷を置く場所がないのか、荷を置く順番が決まっていないのか。どちらだ」
男は口をつぐんだ。
綾は、車の脇に積まれた荷を見た。大きな荷の陰に、小さな包みがいくつも押し込まれている。
「その包みを先に下ろせ。あちらの壁際なら、しばらく置ける。大きな荷は動かすな。車を傾けずに済む」
「壁際には、別の荷があるぞ」
「なら、その荷の持ち主に聞け。誰のものか分からぬまま動かせば、あとで揉める」
男たちは互いに顔を見合わせた。
やがて一人が、壁際に積まれた荷の持ち主を探しに走った。
すぐに道が開くわけではなかった。それでも、何をどこへ動かすかが決まると、人々の手は少しずつ動き始めた。
荷を下ろす者がいれば、包みの数を確かめる者がいた。持ち主を探しに行く者は、戻ってきたときに誰へ報告するかを決めてから走った。
綾は、そのやり取りを見届けてから、後ろに詰まっていた者たちへ声をかけた。
「急ぐな。前が動いてから進め。押せば、また止まる」
人の流れが、ようやくほどけていった。
そのとき、道の端で老人が膝をついた。
そばにいた者が支えようとしたが、老人の身体は力なく傾き、地面へ崩れ落ちた。
「誰か、手を貸してくれ!」
小夜が振り向いた。
捜索を続けるため、先へ進まなければならない。だが、老人をそのままにしておくわけにはいかなかった。
小夜は老人のそばに膝をついた。
「聞こえますか。分かりますか」
老人は、かすかに目を動かした。
小夜は呼吸の様子を確かめ、顔色を見た。返事はある。だが、自分の力だけで立ち上がるのは難しそうだった。
「無理に起こさないでください。少し、このまま支えていてください」
そばにいた男が、老人の肩を支え直す。
「この方を休ませられる場所を探してください。日陰で、人の通り道から外れたところがよいです。見つかったら、すぐに知らせてください」
男が走っていった。
小夜は、老人の反応を見ながら、景継に知らせる者を頼んだ。捜索の時間は削られる。けれど、目の前の人間を見捨てて先へ進めば、探している家族を見つける前に、別の誰かを失うことになるかもしれない。
老人が、かすれた声を出した。
「……孫が」
「お孫さんが、どうされましたか」
「先へ……行ってしまった」
「お孫さんのお名前は分かりますか」
老人は答えようとしたが、声にならなかった。
小夜は無理に聞き出さなかった。今は、老人の状態を確かめる方が先だった。
しばらくして、景継が駆けつけた。
「どうですか」
「呼びかけには反応します。ただ、立ち上がるのは難しそうです。詳しいことは、まだ分かりません」
「分かりました。まず状態を確かめます」
景継は老人のそばに膝をつき、意識や呼吸、身体の様子を一つずつ確かめた。
小夜は邪魔にならない位置へ移り、見たことを伝えた。
「倒れる前に、何かを持っていたかもしれません。今は、そばに荷物がありません」
「周囲の方に、持ち物がないか確かめてもらいましょう。本人が話せるようなら、あとで聞きます」
景継は老人を休ませる場所へ移す手配をした。すぐに元気になるとは言わなかった。原因も、回復までにかかる時間も、まだ分からない。
小夜は老人のそばに残る者へ、変化があれば知らせるよう頼んだ。
「返事がなくなったり、呼吸の様子が変わったりしたら、すぐに呼んでください。分からないときも、遠慮せずに」
男は緊張した面持ちでうなずいた。
「分かった。ちゃんと見ておく」
「お願いします」
小夜はその場を離れた。
老人のそばには、見守る者が残った。小夜がいなくなっても、何を見て、何が起きたら知らせるのかは伝わっている。
捜索は、まだ終わっていなかった。
*
昼を過ぎても、息子の行方は分からなかった。
千代は帳面に残された記録を、もう一度たどっていた。
負傷者を運んだ者。付き添いを見た者。人の流れがどちらへ向かっていたかを覚えている者。
それぞれの話は、少しずつ違っていた。
一人は、若い男が負傷者を支えていたと話した。別の者は、似た姿の男が荷車のそばにいたと話した。だが、それが同じ人物なのかは分からない。
「こちらの記録では、若い男が一人、歩けない者を支えていたとあります」
千代は、小夜に帳面を見せた。
「ただ、名はありません。見た場所も、こちらの道とは少し離れています」
小夜は記録を見つめた。
「その人は、どちらへ向かったのでしょう」
「記した者は、先へ進むところまでしか見ていません」
「では、同じ道を通った人に、もう一度聞いてみます」
千代はうなずいた。
「私も、運んだ者の記録を確かめます。名が分からなくても、誰と一緒にいたかが分かれば、手掛かりになるかもしれません」
二人は別れて、再び人々のもとへ向かった。
帳面だけでは見つからない。
けれど、帳面がなければ、誰に何を尋ねればよいかさえ分からなかった。
千代は記録を閉じる前に、若い男についての記述を一つずつ見比べた。
歩けない者を支えた。
荷車のそばにいた。
休ませる場所を尋ねていた。
いずれも、同じ男についての話とは限らない。だが、三つの記録が同じ場所と時刻に近づいていることは確かだった。
千代は、その三つを細い線で結んだ。確定した事実としてではなく、次に確かめるべき手掛かりとして。
*
夕刻が近づいた頃、小夜は荷をまとめていた男の話に足を止めた。
「若い男なら、見たぞ。怪我をした男に肩を貸していた」
「どこで見たのですか」
「この先だ。だが、途中で別れた。俺たちは荷を運ばなければならなかったからな」
「その若い男は、どちらへ行きましたか」
「歩けない男を休ませる場所があると聞いて、そちらへ向かったはずだ」
「その話を、誰から聞いたのですか」
男は少し考えた。
「荷車を押していた者だ。そいつは、負傷者を休ませる場所まで荷を運ぶと言っていた」
「その者は、今どこにいますか」
「荷を下ろしたあと、道の先へ行った。名は聞いていない」
小夜は、男が見たことと、ほかの者から聞いたことを分けて確かめた。それから千代を呼びに行った。
千代が帳面を開く。
その日の記録の中に、歩けない負傷者を支えて運んだ若い男の記述があった。名はない。しかし、運ばれた場所と、途中で付き添いが変わった時刻が記されている。
「ここです」
千代が指で示した。
「この場所へ行けば、何か分かるかもしれません」
小夜はうなずいた。
二人は綾に人手を頼み、景継にも所在を伝えた。
見つかるという確証はない。
それでも、今度は向かう先があった。
*
息子は、休ませていた負傷者のそばにいた。
母親が名を呼ぶと、男は顔を上げた。
「母上……?」
母親は、すぐには近づけなかった。
何かを確かめるように、息子の顔を見つめている。
息子もまた、母親がそこにいることを信じられないように、しばらく動かなかった。
やがて母親は、息子のもとへ歩み寄った。
「どこへ行っていたのです」
声は震えていた。
「私は、あなたを見失ったのですよ。どれほど探したと思っているのです」
「申し訳ありません。あの人が歩けなくなって、それで、少しだけ手を貸そうと……」
「少しだけ?」
母親は息子の腕をつかんだ。
「あなたが戻らなかったら、私はどうすればよかったのです」
息子は答えられなかった。
母親の手が震えていることに気づいたのだろう。彼は何かを言おうとして、口を閉じた。
「……申し訳ありません」
今度は言い訳をしなかった。
母親は息子の肩に額を寄せた。
声を上げて泣くことはなかった。ただ、つかんだ腕を離さなかった。
息子も、母親を抱きしめるように手を回した。
再会できたからといって、失ったものが戻るわけではない。家も、暮らしも、これから向かう先も、まだ決まっていなかった。
それでも、互いがどこにいるのか分からない恐怖だけは、ひとまず終わった。
小夜は、少し離れたところで二人を見守っていた。
千代は帳面を開き、該当する記録を探した。
「見つかった場所も、記しておきます」
小夜がうなずく。
「はい。あとで、また誰かが探すことになるかもしれませんから」
千代は息子の名を確かめた。
今度は母親と息子の双方に尋ねた。呼び名と正式な名が違っていないかも確かめる。
そして、記録の空欄に名を書き入れた。
見つかった場所。
見つかった刻。
本人の所在を確認した者。
それらを書き終えても、千代は帳面をすぐには閉じなかった。
「これで、すべて終わったわけではありませんね」
小夜が言った。
「ええ」
千代は母親と息子を見た。
「これから、どこへ向かうかを決めなければなりません」
「それでも、今は一緒にいられます」
小夜はそう答えた。
千代は静かにうなずいた。
帳面には、見つかった者の名が増えた。
だが、空欄はまだ残っていた。
*
夜、景継は捜索の結果を聞いていた。
見つかった者もいる。まだ所在の分からない者もいる。名前が分かっても、移動先が分からない者がいる。反対に、名前は分からなくても、誰かと一緒にいることが確認できた者もいた。
帳面は、すべてを明らかにしてはいなかった。
それでも、朝には分からなかったことが、いくつか確かめられていた。
「記録があっても、見つからない人はいるのですね」
小夜が言った。
「はい」
景継は帳面に目を落とした。
「記録があれば必ず見つかる、というわけではありません。でも、何も残っていなければ、探す手掛かりも残りません」
千代は帳面の端をそろえた。
「分からないことは、分からないままにしておきます。確かめられたら、そのときに書き足します」
「それでいいと思います」
景継はうなずいた。
小夜は、再会した母親と息子のことを思い出した。
互いを見つけた二人は、これからも一緒にいられるとは限らない。別々の道を選ばなければならない日が来るかもしれない。
それでも、今は互いの顔を見て、声を聞くことができる。
そのことを、無かったことにはしたくなかった。
綾が戸口から声をかけた。
「明日の移動について、話があるそうだ」
景継は顔を上げた。
「誰からですか」
「今日、手当てを受けた者たちだ。これから、どこへ行けばよいのか聞きたいらしい」
景継は、すぐには答えなかった。
探していた者が見つかっても、その先の暮らしが決まるわけではない。
助けるべき人がいることと、全員を自分のもとへ連れていけることは違う。
千代は、まだ開かれた帳面を見た。
そこには、見つかった者の名と、まだ空いたままの欄が並んでいた。その脇には、荷を預かった者、負傷者を運んだ者、次の場所を知る者の記録が残っている。
名が分からない者にも、誰かとのつながりはあった。
ただし、そのつながりが、明日も続くとは限らない。
「明日、本人たちの話を聞きましょう」
景継は言った。
「行き先も、必要なものも、動けるかどうかも、一人ずつ確かめます。誰と一緒にいたいのか、誰に頼れるのかも」
千代が帳面を閉じた。
「行き先は、私たちが決めるのではないのですね」
「本人が決めることです。私たちにできるのは、決めるための手掛かりをそろえることです」
綾は腕を組み、道の向こうを見た。
「なら、明日は荷を分ける者も要る。歩ける者と歩けない者を分けるだけじゃ足りない。誰が荷を持ち、誰が道を知っていて、誰が途中で休ませる場所を確かめられるのか。それも聞かなければならない」
千代は、もう一度帳面を開いた。
空欄の下に、短い線を引く。
名前だけではなく、行き先だけでもなく。
誰と動けるか。何を担えるか。誰に知らせればよいか。
明日、確かめることが増えた。
景継は、帳面を閉じる千代の手を見ていた。
城が失われれば、命令も、役目も、これまでの名乗りも、そのままでは通じなくなる。
それでも、人が人に仕事を渡したことまで、城と一緒に消えるわけではない。
誰かが荷を預かり、誰かが道を確かめ、誰かが負傷者を運ぶ。その一つひとつが、次の者へ伝わるなら、失われずに済むものもある。
まだ、何も決まってはいなかった。
景継は、明日の聞き取りに使う紙を千代のそばへ置いた。
帳面の空欄は、今夜のうちには埋めなかった。




