第四十二話 敵兵証言
第四十二話 敵兵証言
夜明け前の空は、まだ薄墨を流したような色をしていた。
戸口から冷たい風が入り、部屋の隅の灯火を揺らしている。火が傾くたび、壁に映る人影も伸び縮みした。
景継は、横たわる男の顔を見ていた。
昨夜、運び込まれた負傷者だった。腕に巻かれた布には赤黒い染みが残っている。出血はひとまず落ち着いていたが、顔色は悪く、唇も乾いていた。
景継は男の呼吸を確かめ、布の端を見た。新しい血が広がっている様子はない。だが、助かったと言い切れる状態ではなかった。
男の目が薄く開いた。
「……ここは」
「手当てをしている場所です。昨夜、傷を負って運ばれてきました」
男は天井を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて身体を起こそうとし、腕の痛みに顔をしかめた。
「動かないでください。傷が開くおそれがあります」
「俺は……捕らえられたのか」
「今は、あなたの傷を診ています」
景継は答えを急がなかった。
戸口には綾が立っていた。片腕を失った身体を壁に預けることなく、外の人の流れを見ている。少し離れた場所では、小夜が水と布の残りを確かめ、千代は帳面を開いていた。
男の視線が、三人の間を行き来した。
「……昨夜のことを、聞きたいのか」
「話せることがあるなら聞きます。ただし、傷の具合が悪くなれば、そこで止めます」
「尋問ではないのか」
「尋問をする役目は、私にはありません」
景継は腕の布を確かめた。
「まず、痛みが強くなっていないか教えてください」
「……動かなければ、耐えられる」
「分かりました。苦しくなったら、すぐに知らせてください」
景継は立ち上がり、千代に目を向けた。
「昨夜の記録をお願いします。運ばれてきた刻と、処置を始めた刻。それから、今の状態も」
「はい」
千代は帳面に目を落とした。
男はその手元を見ていた。
「その帳面には、俺の名も書くのか」
「名を教えていただければ」
「名を明かせば、俺がどこの者かも調べるのだろう」
「名だけで、すべてが分かるわけではありません」
千代は筆を止めずに答えた。
「確かめられたことと、まだ確かめられないことは分けて記します。分からないことを、分かったことにはできませんから」
男は、何か言い返そうとして口を閉じた。
帳面の上を筆が進んでいく。自分のことが記されている。だが、何を書かれ、どこまで伝えられるのかは分からない。
男は腕に巻かれた布へ目を落とした。
敵の手当てを受けている。
そう考えれば、何か裏があると疑うのが自然だった。身元を調べ、事情を聞き出し、使い道がなくなれば放り出す。戦場で見てきたことを思えば、そう考える方が簡単だった。
だが、目の前の者たちは、まだ何も要求していない。
それがかえって、男には不気味だった。
*
昼近くになると、手当ての場に人が増え始めた。
開城に伴う移動の話が広がり、残された者たちは、自分がいつ、どこへ向かうことになるのかを確かめようとしていた。負傷者の家族を探す者もいれば、荷をまとめる者もいる。廊下を行き来する足音は絶えなかった。
その中で、昨夜の男をめぐる話だけが、別の形で広がっていた。
敵方の者を診た。
素性も分からぬ者を、景継が手当てした。
あの男は、城内の様子を探るために入り込んだのではないか。
誰かが口にした話は、別の者の口へ渡るうちに、少しずつ形を変えていった。
景継が患者の様子を確かめていると、刀を帯びた男が近づいてきた。
「先生。昨夜の者について、話があります」
「何でしょう」
「あの者の身元が分からぬまま、ここに置いておくわけにはいきません。まず事情を聞くべきです」
「その通りです」
景継がすぐに答えたため、男はわずかに言葉を詰まらせた。
「ならば、なぜ、まだ聞いていないのです」
「傷の状態を見ながら、話せることを聞いています。身元については、確かめられることを確かめる必要があります」
「敵方の者であれば、こちらの事情を探るために送り込まれた可能性もある」
「その可能性は否定できません」
景継は相手の目を見た。
「ですが、可能性だけで、昨夜から今朝までに何があったかを決めることもできません」
男の表情が険しくなった。
「先生は、ずいぶんと慎重でいらっしゃる」
「分からないことを、分かったとは言えませんので」
刀持ちの男は、手当てを受けている負傷者へ目を向けた。
「もし、こいつが何かを企んでいたらどうするのです」
「分かった時点で、対処を考えます」
「その時には、もう遅いかもしれません」
景継は答えなかった。
男の言葉は、間違いとは言い切れなかった。疑いを捨てたために手遅れになることもある。反対に、疑いだけを根拠に人を扱い、取り返しのつかないことになる場合もある。
どちらの危険も、ここから消すことはできなかった。
「少なくとも、あの者から目を離さぬようにしてください」
「分かりました」
刀持ちの男が去ると、綾が近づいてきた。
「今の話、聞いていたぞ」
「聞こえていたのですか」
「この場所で、あれだけの声を出されればな」
綾は男が去った方を一瞥した。
「疑う理由があるのも分かる。だからといって、傷を放っておけばいいわけでもない。面倒な話だな」
「そうですね」
「それより、人手を確かめておけ。今いる者だけで、いつまでも回せるとは限らない」
「お願いします」
「分かっている」
綾は戸口へ戻った。
景継は、彼女が自分の判断を否定しなかったことに安堵するより先に、その負担を考えた。人の流れを整え、負傷者を運ばせ、通路を空ける。綾が動ける範囲にも限りがある。
誰かを救う判断は、ほかの誰かに仕事を渡す判断でもあった。
*
夕刻、男が景継を呼んだ。
「先生」
呼びかける声は、朝よりもはっきりしていた。
「どうしました」
「俺の名を、帳面に書いてくれ」
「よろしいのですか」
「隠したところで、いつかは分かる。それに……あんたたちに疑いがかかっているのは、俺のせいでもあるのだろう」
景継は、すぐには答えなかった。
「誰かに何かを言われたのですか」
「聞こえてきただけだ」
男は唇を湿らせた。
「俺は、あんたたちに運ばれた。傷を診てもらった。名を言わなくても、話せないことがあっても、手当てを止められなかった。それは、俺が実際に受けたことだ」
「そのことを、話しておきたいのですか」
「ああ。あんたたちが敵と通じているという話が出ているのなら、俺が見たことだけは伝えておきたい」
男は息を整えた。
「俺は、運び込まれたとき、まともに話せる状態じゃなかった。傷を押さえられ、横に寝かされ、痛みを確かめられた。誰も、何かを約束させようとはしなかった」
「それは、私たちが行ったことです」
「そうだ。だから、俺が証言する」
景継は、男の言葉を遮らなかった。
ただし、それをもって男の身元や所属まで明らかになったと考えることはできない。治療を受けた者が、治療した者をかばう。そこに感謝があるとしても、それだけで他の疑いが消えるわけではなかった。
「話してくださることは、記録します。ただ、あなたが直接見たことと、誰かから聞いたことは分けておきたい」
「構わん」
「それから、話すことであなた自身が不利益を受ける可能性もあります。無理に話す必要はありません」
男は、かすかに笑った。
「傷を負って寝かされている俺に、何ができるというんだ」
「それを決めるのは、私ではありません」
男は笑みを消した。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりとうなずいた。
「……そうか。なら、俺が決める」
景継は千代を呼んだ。
千代は帳面を持ってきたが、すぐに筆を走らせることはしなかった。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「宗助だ」
千代は、その名を記した。
「宗助殿。運ばれてきた場所について、覚えていることはありますか」
「城下へ入る道の脇だ。倒れていたところを見つけられた。運んだ者たちの顔は、はっきり覚えていない」
「では、その部分は、まだ確認できないと記します」
千代は筆を止め、宗助の返事を待った。
「……ああ。それでいい」
小夜もそばに来た。宗助の顔色と呼吸を見てから、静かに尋ねた。
「話せる範囲で構いません。宗助殿は、どちらの兵として行動していたのですか」
宗助は、すぐには答えなかった。
近くには北条方の兵もいる。綾は人の出入りを見ており、千代は帳面を開いたまま待っていた。
「俺が誰の兵だったか。先に話しておきたい」
宗助は景継を見た。
「だが、何もかもを話せるわけじゃない。俺が見たことと、聞いただけのことは、分けてくれ」
「そのつもりです」
景継はうなずいた。
「あなたが直接見たことから聞きます。いつ、どこで、誰と一緒にいたのか。覚えていないことは、覚えていないと答えてください」
宗助は、しばらく目を閉じていた。
「俺は、あの場にいた者たちと一緒に動いていた。だが、開城の話が広がってからは、誰がどこへ行ったのか、分からなくなった」
「その場にいた者たちとは、どのような人々ですか」
「兵もいた。荷を運ぶ者もいた。負傷した者を支える者もいた。全員が同じ組の者だったわけじゃない」
千代の筆が動いた。
「一緒に行動していた者の名は、分かりますか」
「何人かは分かる。だが、今ここで、すべてを思い出せるわけじゃない」
「最後に見た場所は」
小夜が尋ねる。
宗助は、少しずつ話し始めた。
開城の知らせが広がった後、人々が門の周辺へ集まったこと。荷車が道を塞ぎ、移動の順が定まらず、負傷者を支えていた者たちが別々の場所へ散ったこと。誰かが別の負傷者を運ぶために離れ、戻ったときには、先ほどまでいた者がいなくなっていたこと。
話は、順序よくは続かなかった。
宗助は時折、言葉を止めた。痛みが強くなると、顔をしかめて目を閉じた。景継はそのたびに話を止め、傷の具合を確かめた。
「今日は、ここまでにしましょう」
「まだ話せる」
「話せることと、今話す必要があることは別です。続きは傷の具合を見てからにしてください」
宗助は不満そうに眉を寄せたが、やがて口を閉じた。
千代は記録を読み返した。
「宗助殿が直接見たことと、他の者から聞いたことは分けておきます。人名や場所も、確かめられたものから書き足します」
「そうしてくれ」
宗助は疲れた目を閉じた。
*
話を終えた後、景継は千代の帳面を確かめた。
記録には、宗助の名と負傷の状態、運び込まれた場所、本人が話したことが並んでいる。しかし、まだ空欄が多かった。
「この人たちは、見つけられるでしょうか」
小夜が尋ねた。
「今の話だけでは、分かりません」
景継は、記された場所を指でたどった。
「ただ、誰がどこで何を見たかが残れば、後から確かめられることがあります」
「宗助殿の話が、間違っている可能性もありますね」
「あります」
景継は否定しなかった。
「本人が嘘をついているかもしれない。記憶違いかもしれない。見たものを、別のものと取り違えている可能性もある。だから、話を聞いただけで結論にはしません」
小夜は帳面を見つめた。
「では、何をすればよいのでしょう」
「別の人にも尋ねます。宗助殿が話した場所を知る者がいれば、その人の話と照らし合わせる。実際に移動した人や荷の記録があれば、それも確かめます」
「一致しなかったら」
「一致しなかったことも、記録します」
千代が筆を止めた。
「食い違いがあれば、どちらかをすぐに消すのではなく、何が違うのかを確かめるのですね」
「そうです。今は分からなくても、後で確かめられるかもしれません」
千代は、帳面の余白に小さな印をつけた。
宗助の証言だけでは、人々の行き先は分からない。名前が分かっても、その人が今どこにいるのかは分からない。目撃した場所が分かっても、そこからどちらへ向かったかまでは確かめられない。
それでも、何も記さなければ、誰に尋ねればよいのかさえ分からなくなる。
綾が戸口から顔を出した。
「明日の移動について、話があるそうだ。人が集まり始めている」
景継は顔を上げた。
「誰からですか」
「今日、手当てを受けた者たちだ。これから、どこへ行けばよいのか聞きたいらしい」
景継は、すぐには答えなかった。
探していた者が見つかっても、その先の暮らしが決まるわけではない。負傷者を助けても、家族の所在が分かるとは限らない。
宗助の証言は、そのどちらも解決してはいなかった。
だが、彼が見たことを記したことで、探すための手掛かりは一つ増えた。
「まず、宗助殿の話に出た場所を、知っている者に確かめましょう。行き先を知っている者がいるかもしれません」
綾はうなずいた。
「誰を行かせる」
「道を知っている者と、戻って報告できる者を分けてください。出た者がどこへ行ったか分からなくならないよう、名前と行き先を記しておきたい」
「分かった。人数は限られる。全員を探しに出すわけにはいかないぞ」
「承知しています。手当ての場に残る人手も必要です」
綾は、誰を残し、誰を出すかを考え始めた。
小夜は、宗助の証言から場所と人名を抜き出し、まだ確かめられていない箇所に印をつけた。千代は、その記録を別の頁へ写し、聞き取りに行く者が持てるように整えた。
景継は、宗助の様子をもう一度確かめた。
男は目を閉じていたが、呼吸は続いている。傷の布も、先ほどから大きくは変わっていなかった。
救命と証言は、別の仕事だった。
助けたからといって、すべてを信じる必要はない。疑っているからといって、聞いたことを捨ててよいわけでもない。
景継は、千代が記した名を見た。
宗助。
その名の横には、まだ空欄が残っている。
所属について。同行者について。最後に見た場所から、どちらへ向かったのか。
確かめなければならないことは多かった。
翌朝、景継たちは、宗助の証言に出た場所を知る者を探すことにした。
開城の混乱で離れた者たちを、一人ずつ見つけるために。
帳面は閉じられなかった。
まだ、次に尋ねるべき名が残っていた。




