第四十一話 敵傷救命
第四十一話 敵傷救命
男の腕から、血が止まらなかった。
押さえつけられた布は、すでに赤黒く染まっている。男は歯を食いしばり、何かを言おうとしては、痛みに顔を歪めた。
周囲には、開城の混乱から運び込まれた負傷者がいた。床に座り込む者。壁にもたれて目を閉じる者。誰かの名を呼びながら、返事を待ち続ける者。
その中へ、新たに男が運び込まれたのだった。
「敵方の者です」
運んできた兵が、男の身体を床へ下ろしながら言った。
景継は、返事をしなかった。
男の顔を覗き込み、呼びかける。
「聞こえますか」
男の瞼が、わずかに動いた。
「……聞こえる」
「こちらを見てください。名は、あとで構いません」
景継は男の目を確かめ、呼吸を見た。受け答えはできる。意識はある。しかし、額には汗が浮かび、唇の色もよくない。
腕の傷から血が流れ続けている。
どこまで傷が及んでいるのか。骨や腱に損傷があるのか。今の時点では、まだ分からない。
景継は傷の周囲を確かめ、男の腕を動かさないようにした。
「押さえている手は、そのまま。布を外さず、上から押さえてください」
男を運んできた兵は、動かなかった。
「先生」
綾が声をかけた。片腕で人の流れをさばきながら、景継のそばへ来ていた。
「この者を、ここに置いてよいのですか」
「今は動かせません」
「そうではありません。敵方です」
景継は顔を上げた。
綾の目は男ではなく、周囲にいる北条方の兵へ向いていた。彼らの中には、傷を押さえたまま、こちらの様子をうかがっている者もいる。味方の手当ても終わらないうちに敵方を先に診るのか。その問いが、誰の口から出てもおかしくはなかった。
「敵方であることは分かっています」
「ならば、なぜ」
「血が流れ続けています。先に止めます」
景継はそれだけ告げ、男の腕へ目を戻した。
綾はしばらく立っていたが、やがて周囲へ顔を向けた。
「そこを空けてくれ。寝かせる場所を作る。押さえる者は一人でよい。ほかの者は通路を塞ぐな」
兵たちは、すぐには動かなかった。
綾は声を荒らげなかった。ただ、空いた手で床の一角を示した。
「ここで手当てをする。異議があるなら、患者を動かさずに言え」
その言葉に、二人の兵が腰を上げた。一人は壁際に置かれていた荷を寄せ、もう一人は別の負傷者を支えて場所を空けた。
景継は傷を押さえる手を確かめた。
「もう少し、こちらです。そうです。その位置を変えないでください」
男は息を詰めていた。肩が小刻みに震え、額から汗が落ちる。
「痛みますか」
「……痛い」
「分かりました。腕を動かさないようにします」
「俺を、縛るのか」
「今は傷を診ています」
男は景継の顔を見た。疑うような目だった。
景継はその視線を避けなかったが、説明を重ねることもしなかった。男が何者で、何をしてきたのか。それを知る前に、目の前の傷を処置しなければならない。
千代が、布を抱えて近づいた。
「新しいものは、これだけです」
包みの中には、折り畳まれた布がわずかに残っていた。千代はそのうちの一枚を取り出し、景継へ渡した。
「残りは」
「傷に直接当てられるものは、もう多くありません。洗い直したものならありますが、すぐに使える状態のものは限られます」
景継は布を受け取り、傷を確かめながら処置を進めた。
「使った分を記録してください。残りは、傷の状態を見て使います」
「はい」
千代は帳面を開いた。
新しい布を何枚使ったか。どの患者に使ったか。洗い直した布がどれだけ残っているか。数字を並べても、次に何人が運び込まれるかまでは分からない。
それでも、残りを知らずに使うことはできなかった。
小夜が水を持ってきた。器を置くと、男の顔色を確かめ、景継の手元へ視線を移した。
「この方の名前は、まだ聞いていません」
「今は聞かなくていい。呼吸と顔色を見ていてください。変化があれば知らせてください」
「分かりました」
小夜は男のそばに座り、胸の上下を見た。男は時折、痛みに顔をしかめる。小夜はそのたびに声をかけたが、無理に返事をさせようとはしなかった。
景継は傷の周囲を確かめ、出血の具合を見ながら布を当て直した。男の腕を支える者が、疲れからか、少しずつ手をずらしていた。
「手を替わりますか」
小夜が尋ねた。
「もう少し、このままお願いします。替わるときは、押さえる位置を確かめてからです」
小夜はうなずき、男の腕を支える兵に声をかけた。
「手が疲れたら、黙って離さず、先に知らせてください。こちらで替わります」
兵は短く返事をした。
その声には、まだ硬さが残っていた。
*
しばらくして、別の負傷者が運び込まれた。
若い兵だった。肩を支えられ、足を引きずるようにして座らされる。顔色は悪く、呼びかけへの返事も遅かった。
「こちらも、早く診てください」
付き添っていた兵が言った。
景継は、新たに運ばれた者を見た。それから、腕を負傷した男へ目を戻す。
「小夜、こちらの呼吸と顔色を見てください。返事が遅れるようなら、すぐに知らせてください」
「はい」
「綾、歩ける者を無理に立たせないでください。運ぶ人手が足りなくても、状態を確かめずに動かすことはできません」
「分かった」
景継は新たな負傷者のそばへ移った。
傷の深さだけでは順番を決められない。血の量だけでも決められない。呼吸、意識、顔色、身体を起こしたときの変化。限られた時間で、確かめられるものを確かめるしかなかった。
若い兵の状態を見て、必要な処置を指示する。手当てを進めている間も、景継は腕を負傷した男の様子を時折確かめた。
小夜が、男のそばから声を上げた。
「景継様。先ほどより、返事が遅くなっています」
景継はすぐに戻った。
男は目を開けていたが、視線が定まらない。呼びかけると、わずかに顔を向けた。
「聞こえますか」
「……聞こえる」
「今、腕の痛みは分かりますか」
男は返事をするまでに時間がかかった。
景継は男の顔色を確かめ、呼吸を見た。出血の具合をもう一度確かめる。布の外側に新しい血が広がっていた。
「押さえる位置を変えます。私が手を添えるまで、そのまま」
景継は、そばにいる兵の手に自分の手を重ねた。
「今です。少しだけ、こちらへ」
男が息を詰めた。景継は傷の状態を見ながら布を当て直し、出血が広がらないように押さえた。
「このまま、手を離さないでください」
兵はうなずいた。
その目が、景継の手元に落ちた。
「先生」
「何でしょう」
「こちらの者を先に診るのですか」
景継は手を止めずに答えた。
「今、状態を確かめる必要があるからです」
「北条方の兵にも、まだ手当てを待っている者がいます」
「分かっています」
「分かっていて、敵方を」
兵の声が途切れた。
その先を口にすれば、ここで何を問うことになるのか、本人にも分かっているようだった。
景継は布を押さえたまま、顔を上げた。
「待たせている者がいることは、忘れていません。ですが、この者の出血を放っておけば、今ここで命を失うおそれがあります。ほかの者についても、状態を見て順番を決めます」
「では、誰を先にするかは、先生が決めるのですか」
「私だけではありません。小夜が様子を見て、綾が人の流れを整え、千代が残っている道具を確かめています。皆が見たことを合わせて決めます」
兵は黙った。
景継は、男の傷へ視線を戻した。
「ただし、誰を先にしたか、その理由を忘れないようにします。間違いがあれば、次に改めなければなりません」
兵は何も答えなかった。
それでも、男の腕を支える手は離れなかった。
*
日が傾くにつれ、運び込まれる者の数は少しずつ減った。
減ったといっても、庭に残る負傷者が片づいたわけではない。移動できる者は門の近くへ移され、動けない者はその場に留められていた。家族を探しに行った者が戻らないこともあった。誰かの行き先を尋ねる声は、絶えず聞こえていた。
腕を負傷した男は、横になったまま目を開けていた。
出血は先ほどより落ち着いていた。景継は傷の具合を確かめ、腕を動かさないように整えた。まだ助かったと断じられる状態ではない。今夜の変化を見なければならなかった。
「名前を聞いてもよいですか」
景継が尋ねると、男はしばらく黙っていた。
「……宗助だ」
千代が帳面を開いた。
「宗助殿。どちらから運ばれてきたのですか」
男の目が千代へ向いた。
「何のために聞く」
「どこから来たかを記録します。あとで、誰がどこへ移ったかを確かめるためです」
「俺を捕らえるためか」
「そういう判断は、今ここではしていません」
千代は筆を止めた。
「分からないことを、分かったようには書けません。あなたがどこから来たか、誰が運んできたか。確かめられることだけを記します」
宗助は千代を見て、それから景継へ目を移した。
「俺は敵だぞ」
「聞きました」
「それでも、助けるのか」
景継は、すぐには答えなかった。
宗助の腕には、巻かれた布がある。すぐそばでは、北条方の兵が別の負傷者の手当てを受けていた。誰もが同じように救われるわけではない。使える布も、人の手も、時間も限られていた。
「傷を診ることと、あなたの話を信じることは別です」
景継は言った。
「今は、傷を診ています」
宗助はしばらく黙っていた。
やがて、わずかに首を動かした。うなずいたのか、それとも痛みによるものか、景継には分からなかった。
千代は、宗助の名を書いた。その横には、負傷の場所と、運び込まれた時刻が記されていた。所属や、どこから来たのかという欄は、まだ埋まっていない。
分からないことを、空想で埋めるつもりはなかった。
*
夜が近づくと、綾が景継のそばへ来た。
「今夜、ここに残す者を決めなければならない。動かせる者まで、いつまでも同じ場所に置いておくことはできない」
「歩ける者でも、移動に耐えられるとは限りません。小夜の確認を受けてからにしてください」
「分かっている。だが、付き添う者が足りない」
綾は庭の向こうを見た。
兵たちは、互いの顔を見ながら立っていた。誰かの命令を待っている者もいれば、自分の家族を探している者もいる。今までなら、誰がどこへ行くかは、上からの指図で決まったのかもしれない。
その指図が、これからも同じように届くとは限らない。
「一人ずつ付き添いをつけることはできません」
景継は言った。
「それなら、誰が誰を見ているかだけでも分かるようにしたい。途中で交代するなら、相手に伝える。行き先が決まっていないなら、決まっていないと記録する」
「記録があっても、皆がその通りに動くとは限らない」
「その通りです。帳面が人を動かすわけではありません」
景継は千代の帳面を見た。
「ですが、何も残さなければ、誰が何を引き受けたかさえ分からなくなります」
綾は、しばらく考えていた。
「では、移動する者と、残る者を分ける。誰が付き添うかを決め、途中で替わるなら、必ず相手に伝える。できる範囲でな」
「お願いします」
綾はうなずき、庭の人々へ声をかけに行った。
小夜は患者の様子を確かめ、千代は移動する者の名と、付き添う者の名を記した。空欄は残った。誰がどこへ向かうのか、まだ決められない者もいた。
それでも、さきほどまで曖昧だった付き添いの役目が、少しずつ言葉になっていった。
宗助は、その様子を見ていた。
「……あんたたちは、何を守ろうとしているんだ」
景継は振り返った。
宗助は、天井を見つめたまま言った。
「城は、もう守れないんだろう」
「城を守ることは、できませんでした」
「なら、何を」
景継は答えを急がなかった。
背後では、綾が付き添いの名を確かめている。小夜は患者の呼吸を見て、千代は帳面の空欄を埋めようとしていた。誰も景継の返事を待ってはいなかった。
それでも、宗助だけは、その返事を待っていた。
「今ここにいる人を、誰が見ているのか。それを分からないままにしたくありません」
景継は言った。
「その先に何ができるかは、まだ分かりません」
宗助は目を閉じた。
納得したのかどうかは分からない。腕の傷は、まだ痛むはずだった。彼が北条方の人々をどう見ているのかも、何を知っているのかも、まだ聞いていない。
景継は、無理に尋ねなかった。
「今夜は休んでください。変化があれば、こちらで確かめます」
宗助は答えなかった。
小夜がそばに座り、呼吸の様子を見始めた。千代は帳面を閉じる前に、宗助の名の横へ短く書き加えた。
――夜間、状態確認。
その下に、次の確認をする者の名を書いた。
景継はその筆跡を見た。自分が書いた文字ではなかった。
それでも、誰が何を見て、次に誰へ伝えるのかは、記されていた。
庭の外では、まだ人を呼ぶ声がしていた。
開城によって、命令の届く先は変わる。昨日まで同じ旗の下にいた者たちが、明日も同じ場所にいるとは限らない。敵方の者を助けたからといって、互いの疑いが消えるわけでもない。
景継は、宗助の腕の布をもう一度確かめた。
血は、ひとまず広がっていなかった。
それだけで、先のことが決まったわけではない。
宗助が何を知っているのか。誰と行動していたのか。なぜ、この場所まで運ばれてきたのか。
それらを確かめるのは、傷の状態が落ち着いてからでよかった。
救うことと、信じることは、同じではない。
だが、信じられない相手であっても、目の前の命を見捨ててよい理由にはならなかった。




