第四十話 開城の刻
第四十話 開城の刻
城内の声が、朝から途切れなかった。
怒鳴り声ばかりではない。誰かを呼ぶ声、荷を探す声、家族の名を尋ねる声。行き先を失った人々の声が、廊下から庭へ、庭から門の近くへと広がっていた。
景継は、横たえられた負傷兵の脇に膝をついていた。
男の腿には深い傷がある。重ねた布は血を吸い、端まで赤く染まっていた。呼びかけには答えるが、身体を起こそうとすると目を閉じる。唇の色も悪かった。
「押さえる手を離さないでください。位置はそのままです」
景継は、そばにいる若者へ告げた。
「新しい布を。使ったものとは分けてください」
「もう、あまり残っておりません」
千代が包みを抱えて近づいてきた。
包みの中には、折り畳まれた布がわずかに残っていた。洗い直して使えるものと、傷口に直接当てるにはためらわれるもの。千代はそれらを分け、残りの数を帳面につけていた。
景継は包みを見て、必要な分だけを受け取った。
「これで足ります。残りは取っておいてください」
「分かりました」
千代は包みを閉じた。
その手が離れる前に、庭の入口から声がした。
「こちらにも、布をいただけませんか」
若い兵が、腕を押さえた男を支えていた。指の間から血がにじみ、巻いた布も濡れている。
「この者も、血が止まりませぬ」
景継は弥三郎の傷から手を離さず、男の顔を見た。
「意識はありますか。息苦しさは」
「ございます。歩いてここまで来ました」
「押さえている布を外さず、その上から手を当ててください。こちらの手当てを終えたら、すぐに見ます」
兵は不満を隠さなかった。
「こちらも血が出ているのです」
「分かっています。だから、押さえる手を止めないでください。今、こちらの手を離すこともできません」
若い兵は口を結んだ。納得した様子ではなかった。それでも、男の腕に添えた手へ力を戻した。
景継は弥三郎の傷へ目を戻した。
次の負傷者が来ることを、もう誰も疑っていなかった。目の前の一人に布を使い切るわけにはいかない。だからといって、布を惜しんで必要な処置を遅らせることもできなかった。
廊下の向こうで、綾の声がした。
「担ぐのは二人ずつ。歩ける者を寝台に乗せるな。自分で歩けるなら、壁に沿ってこちらへ来い」
片腕を失った綾は、空いた手で人を指し示し、通路を塞いでいた荷を退かしていた。武具や衣類だけではない。家を離れる者が、何を持っていけばよいか決められずに置いた包みもあった。
「それは後だ。先に人を通す」
荷を抱えていた男が、包みを壁際へ寄せた。
綾は通路の幅を確かめ、運び込まれた負傷者の列へ戻った。
「名を言えますか」
景継が尋ねると、男はかすれた声で答えた。
「……弥三郎」
「弥三郎殿。傷を押さえたまま、しばらく動かないでください。立てるかどうかは、こちらで確かめます」
弥三郎はうなずいた。
助かったとは言えない。傷は深く、あとから熱が出ることもある。ただ、血を失い続ける状態からは、ひとまず遠ざけられた。
景継は、腕を負傷した男のそばにいる若い兵へ声をかけた。
「待たせました。次はこちらを見ます。押さえる手はそのままで」
兵は短くうなずいた。男の腕を押さえる手は、強く握りすぎて指先が白くなっていた。
「力を入れすぎなくていい。布がずれないようにしてください」
景継は傷を確かめた。男は顔をしかめたが、意識ははっきりしていた。必要な処置を進めている間、千代は包みの口を少し開いたまま、残りの布を数えていた。
景継はそれに気づいたが、何も言わなかった。千代も、残りの数を告げなかった。
次に来る者へ渡せる分は、もう多くない。
庭では、小夜が水を運んできた者を止めていた。
「その桶の水は、どこから汲んだのですか」
「井戸だ。いつもの井戸から」
「汲んだあと、どこへ置きました」
「人が通るところへ」
小夜は桶の縁を見た。泥がつき、運んできた者の手にも土が残っていた。
「こちらへ置いてください。飲むための水は、別に分けます」
「同じ井戸の水だろう」
「同じでも、扱いが違えば、同じようには使えません」
男は眉を寄せたが、桶を指定された場所へ移した。
小夜は水を運ぶ者を一人呼び、飲み水と傷を洗う水の置き場を分けるよう頼んだ。器は足りず、人も多すぎる。すべてを清潔に保つことはできない。それでも、混ぜないことなら今からでもできる。
彼女は置き場を示す布切れを結んだ。それから、桶を運んだ者の名と、どこから水を持ってきたかを千代に伝えた。
千代は帳面の端に短く記した。
そのとき、門の方から早足の男がやってきた。
「開城の話が決まったそうだ」
庭の動きが、一瞬止まった。
誰もすぐには返事をしなかった。
「いつだ」
綾が尋ねた。
「詳しい刻限までは聞いていない。だが、これ以上の戦はしないと」
男は言い切れず、口を閉じた。
庭の隅で、誰かが泣き始めた。声を上げるのではなく、顔を伏せ、肩を震わせる泣き方だった。
景継は手を止めなかった。
目の前の男の呼吸は浅い。傷を押さえる若者の手にも、力が入りすぎていた。
「押さえ続けてください。傷の周りを乱暴に触らないこと」
「はい」
「今は、ここを離れなくていい」
若者はうなずき、視線を傷へ戻した。
城が開くとしても、負傷者の傷が閉じるわけではない。家を失う者がいる。家族と離れた者がいる。薬や布を持ち出せないまま、移動を迫られる者もいるだろう。
「千代、動かせる物資を確かめてください。布、水を入れる器、処置に使う道具。それから記録です」
「何もかも運ぶことはできませんね」
「できるだけではなく、必要なものを選びたい」
千代は帳面を開いた。
残っている布の数。水を入れられる器。持ち運べる道具。運べる者の名。どこまで運ぶかが決まらなければ、荷をまとめても置き去りになる。
千代は品目を書き出し、その横に運ぶ者の名を記していった。
「景継様。新しい布は、次の手当て一人分にも足りるかどうかです。洗い直したものなら、もう少しあります。ただ、傷口に直接当てられるものは限られます」
「傷の状態を見て使い分けてください。数だけで分けないこと。必要な処置に使う分は残しておきたい」
「はい」
「ただし、残すことが目的になってはいけません。必要な者には使う。使った分は、帳面に残してください」
千代は筆を動かした。
使えば減る。洗っても、傷口に直接当てられる状態へ戻るとは限らない。数字が増えることはなかった。
それでも、残りが分かれば、次の判断を他の者と分け合える。
綾が戻ってきた。
「歩けない者を先にまとめる。だが、運ぶ者が足りない。負傷していても、自分で歩ける者には、支えながら移動してもらう」
「無理に歩かせないでください。途中で倒れれば、運ぶ人数がさらに必要になる」
景継が言うと、綾はすぐにはうなずかなかった。
「歩けない者だけを先に運べば、残りの者がいつ動けるか分からない。家族と離れた者もいる。ここで待たせることが安全とは限らない」
景継は答えを急がなかった。
傷の重さだけで順番を決めれば、動ける者の事情を見落とす。家族を探す者を先に通せば、移動できない患者が取り残される。
門を出る順番と、手当ての順番は同じではない。
「二つに分けよう。すぐに動かさなければ危ない者と、支えがあれば移動できる者。後者は家族や付き添いを確かめながら、綾が順を決めてください」
「分かった」
「小夜には、移動させる前の様子を見てもらいたい。顔色や呼吸、立ち上がったときの変化を確かめて、無理をさせないように」
「歩けると言う人の言葉だけでは決めません」
小夜は、先ほど水を運んでいた者たちへ声をかけた。水の仕事を誰か一人に抱えさせず、桶を運ぶ者、置き場を守る者、使った器を戻す者を分けていく。
綾は庭の端を見た。
「運ぶ者が足りない。歩ける者の付き添いまで、こちらで用意するのは難しいぞ」
「家族が一緒に動けるなら、支えてもらう。ただし、付き添う者も歩けなくなりそうなら、先に知らせてもらいたい」
「家族がいない者は」
「誰が見ているか分からないままにはしたくありません。ここにいる者たちで相談してください。一人ずつ付けることはできなくても、引き受けた者が分かるようにしたい」
綾は庭にいる者たちへ顔を向けた。
「聞いたな。自分が支えられる者を決めろ。途中で別の者に渡すなら、必ず相手に伝えろ。黙って離れるな」
返事をした者も、しなかった者もいた。自分の家族を探している者も、荷を失うまいと抱え込んでいる者もいる。全員がすぐに他人を支えられるわけではなかった。
それでも、二人の兵が壁際に座る老人のそばへ移動した。
「どこまで行くつもりだ」
老人が尋ねた。
「まだ決めておりません。まず、門の近くまでお連れします」
「そのあとは」
「そこにいる者に、次を確かめます。私たちだけで勝手には離れません」
二人のうち年長の兵がそう答えた。もう一人が老人の荷を持ち上げた。
景継は二人を呼び止めなかった。
そのやり取りを、千代が帳面の端に書き留めた。老人の名、付き添う二人の名、移動先。まだ先の行き先は決まっていない。決まっていないことも、空欄のままにしておくのではなく、分からないと記しておく。
昼を過ぎる頃、庭の入口で若い兵が女の袖をつかんでいた。
「母上は、まだ中にいるんだ。あの部屋から出てこない」
「私は、あなたのお母上を知りません。どの部屋なのかも分からないのです」
「さっきまで、そこにいたんだ!」
兵の声が裏返った。
綾が近づいた。
「まず手を離せ。話は聞く」
兵は女の袖を離したが、視線は庭の奥へ向いたままだった。
小夜が尋ねた。
「お母上の名は」
「おふみだ。背はこれくらいで、灰色の小袖を着ている。足が悪い」
小夜は千代を振り返った。
「移動した人の中に、その方がいないか確かめられますか」
「運び出した者の名と、付き添いの名を照らします。まだ書き漏らしがあるかもしれません」
千代は帳面を開き、記された名を追った。
兵は焦れたように一歩踏み出した。
「早くしてくれ!」
「急いでいます」
千代は顔を上げた。
「ですが、分からないことを、いたと決めるわけにはいきません。どこを誰が確かめたか、順に見ます」
兵は唇を噛んだ。
景継は手当てを続けながら、そのやり取りを聞いていた。
記録があれば、すべての人を見つけられるわけではない。名前を聞く余裕がなかった者も、名を告げられなかった者もいる。書かれていない人間は、帳面をいくらめくっても出てこない。
それでも、誰が運ばれ、誰が付き添い、どこへ向かったかを確かめる手がかりにはなる。
千代が一つの記載を指で押さえた。
「この方かもしれません。足の悪い女性を、北側の部屋から運んだとあります。ただし、名がありません」
「どこへ」
「門近くの待機場所です。運んだ者の名は、こちらに」
綾が顔を上げた。
「私が行く。小夜、場所を確かめるのを手伝ってくれ」
二人は若い兵を連れて庭を出た。
景継は手当てを続けた。腕を負傷した男の出血は先ほどより弱まっていたが、指先は冷たい。景継は男の手を確かめ、布の端を押さえ直した。
「少し待ってください。すぐに戻ります」
男は返事をしなかった。ただ景継の顔を見て、それから自分の腕へ視線を落とした。
しばらくして、綾と小夜が戻ってきた。
若い兵の肩から、先ほどまでの力みが消えていた。母親は待機場所にいた。足を痛めていたため、別の者に支えられて移されたのだという。
若者は母親のそばへ駆け寄り、膝をついた。
「母上……」
女は息子の頬に手を当てた。
「お前が、ここにいるとは思わなかった」
それ以上の言葉は続かなかった。
小夜は少し離れた場所で二人を見守った。千代は帳面に、母親が見つかった場所と、付き添いの名を書き足した。
景継は、傷を押さえる手の力が弱まっていることに気づいた。
「その手を緩めないでください」
若者は顔を上げた。
「……はい」
彼は母親のもとを離れ、再び傷のそばへ戻った。
母親が見つかったことと、目の前の傷が治ることは別だった。若者は再び血を押さえ始めた。指先にはまだ力が入りすぎていたが、今度は景継が位置を示すと、少しずつ手の力を調整した。
誰かが母親を探し、誰かが帳面を確かめ、誰かが負傷者のそばを離れずにいた。
どれか一つが欠ければ、母親を見つけるまでの間に、傷の手当てが止まっていたかもしれない。
夕刻が近づくと、門の外から使者が来た。
城内にいた者たちは、遠巻きにその姿を見つめた。誰もが言葉を待っていたが、使者が何を告げるのか、どこまで決まっているのかは分からなかった。
景継は庭の端で、負傷者の呼吸を確かめていた。
やがて、開城に向けた動きが始まった。
門の周囲に人が集まり、荷をまとめる者と、動けない者を運ぶ者が分かれていく。兵たちは武具を手にしたまま立ち尽くし、何をどこへ置くべきか、互いの顔を見ていた。
綾は通路を空けるよう指示を出した。
「荷は、運ぶ者が決まっているものから出せ。持ち主の分からない荷は、勝手に混ぜるな」
小夜は、歩けると言い張る負傷者の腕を支え、顔色を見ながら歩調を落とさせた。
「急がなくていい。苦しくなったら、すぐに言ってください」
千代は、持ち出す物資の包みを数え直し、帳面を懐へしまった。荷の数だけでなく、誰が持ち、誰に渡すかも確認する。
「この包みは、あなたが運ぶのですね」
「はい」
「門を出たら、どなたへ渡しますか」
「……まだ、決まっていません」
「では、決まっていないと記しておきます。誰かに渡したら、必ず知らせてください」
男はうなずいた。
帳面には、行き先の決まった者と、まだ決まらない者が並んでいた。空欄もあった。名前の分からない者もいた。
すべてを救えたわけではない。手当てが間に合わなかった者もいた。家族を見つけられないまま移動する者もいる。城を出た後、どこで暮らすのか、何を食べるのか、傷が治るまで誰が支えるのか。それらは、まだ何一つ決まっていなかった。
庭の隅では、先ほど布を求めた兵が、腕を負傷した男のそばに残っていた。
「先ほどは、すぐに見てもらえませんでした」
兵は景継が近づくと口を開いた。
景継は足を止めた。
「待たせました」
「こちらも、血が出ていたのです」
「分かっています」
景継は男の腕を確かめた。布の外側には血がにじんでいたが、先ほどのように広がってはいない。顔色を見て、呼吸を確かめる。
「今は、移動できるかを慎重に見ます。無理に歩かせることはしません」
兵はしばらく黙っていた。
「あの男の方が、ひどかったのですか」
「出血の量だけでなく、意識や顔色、身体を起こしたときの様子も見ました。どちらを先にするか、すべてを一度に確かめることはできません」
景継は言葉を切った。
「待たせたことが、なかったことになるわけではありません。それでも、今の状態を見て、次に何をするかを決めます」
兵は景継を見た。納得したとは言わなかった。男の腕を支える手も、まだ固かった。
「分かりました」
景継はそれ以上、言葉を重ねなかった。理由を説明しても、待たされた時間が消えるわけではない。次に同じことが起きたとき、誰もが同じ判断を受け入れるとも限らなかった。
それでも、今は男の状態を確かめなければならない。
景継は小夜を呼び、移動前の確認を頼んだ。小夜は男の顔色と呼吸を見て、立ち上がった際の様子を確かめるため、すぐには歩かせず、まず身体を起こすところから始めた。
兵はその横に残り、男の背を支えた。
北条の城は、北条の城ではなくなろうとしている。
城に従って働いてきた兵も、荷を運んできた者も、物資を数えてきた者も、これまでと同じ命令を受けるとは限らない。上からの指図が途切れれば、誰が何を担っていたのかさえ、分からなくなるかもしれなかった。
門の向こうへ出れば、それぞれが別の道を選ぶことになる。
それでも、ここで交わした声も、覚えた手順も、帳面に残した名も、門が開いたからといって消えるわけではなかった。
「先生」
小夜が呼んだ。
彼女の隣には、先ほどまで傷を押さえていた若者が立っていた。顔色は悪いままだったが、両足で立っている。母親は少し離れた場所で彼を待っていた。
「この人、母上のそばへ行きたいそうです。もう一度確かめました。ゆっくりなら移動できそうです」
景継は若者の顔を見て、呼吸を確かめた。
「急がないこと。途中で息が苦しくなったら、すぐに座ってください」
「分かりました」
若者は母親のもとへ歩き始めた。小夜は歩幅に合わせ、少し後ろからついていった。
景継は、二人が人の流れに紛れていくのを見届けた。
城を守ることはできなかった。
だが、ここで誰かが覚えたことを、誰かが次の場所へ持っていくことはできる。
そのとき、庭の入口から声が上がった。
「こちらにも、負傷者がいます!」
運ばれてきたのは、城内の者ではなかった。衣服は泥にまみれ、腕を押さえる手の隙間から血が流れていた。そばにいた兵が、ためらいながら告げた。
「敵方の者です」
綾が景継を見た。
小夜も、千代も、手を止めた。
千代は残った布の包みへ一度目を落とした。小夜は水桶の置き場を確かめた。綾は通路に立つ者たちへ、寝かせる場所を空けるよう手を振った。
景継は男の顔を見た。男は何かを言おうとしたが、声にならなかった。
「そこへ寝かせてください。傷を見ます」
景継は膝をついた。
開いた門の向こうには、これから先の暮らしも、行き先も、約束もない。それでも、血を流す人間が目の前にいることだけは変わらなかった。
綾が人を呼び、寝かせる場所を空けた。
小夜は水と布を確かめに走った。
千代は帳面を開いた。男の名も、どこから運ばれてきたかも、まだ分からない。分からないことを、分かったことにはできない。まずは本人に聞ける状態にし、そのあとで記す。
景継は傷口へ手を伸ばした。
城が失われる日にも、診療は終わらなかった。
ただし、救うために使える手も、布も、時間も限られていた。その限りがなくなったわけではない。次に誰を先に診るか、誰に手を貸してもらうか。その判断は、門を出た先でも続く。
「ここを押さえてください。私が傷を見ます」
差し出された手が、傷口のそばへ伸びた。
門の外では、荷を運ぶ者たちが、次に誰へ渡すのかを確かめていた。
まだ、行き先は一つになっていない。
それでも、互いの名を尋ねる声が、途切れずに続いていた。




