第三十九話 残す手
第三十九話 残す手
少年の家は、城内の道から少し外れた長屋の一角にあった。
景継が戸口をくぐると、湿った土と煮炊きの煙の匂いが鼻をついた。薄暗い部屋の隅に、幼い男の子が横向きに寝かされている。そばには母親らしい女が膝をつき、少年がその肩を両手で握っていた。
「弟です。朝から、何度も吐いて……」
少年の声はかすれていた。
景継は返事を急がず、まず子供の顔を見た。唇が乾いている。呼びかけると目を開けたが、すぐにまぶたが落ちた。
「いつからだ」
「夜明け前です。腹が痛いと言って、それから」
「最後に吐いたのは」
「つい先ほどです」
景継は子供の腹にそっと手を当てた。触れた場所を確かめるように、顔色と呼吸を見ながら尋ねていく。子供は身をよじったが、痛みの場所をうまく伝えられなかった。
水を飲んだ時刻。口にした食べ物。便の様子。熱があるか。ほかに同じ症状の者はいないか。
答えは途切れ途切れだった。
「水が悪かったのでしょうか」
母親が、戸口に置かれた桶を振り返った。
「まだ分からない」
景継は言った。
「水を飲んだ後に具合が悪くなったことと、水が原因であることは同じではない。食べた物も、ほかの者の具合も確かめたい」
母親の顔から血の気が引いた。景継は、それ以上原因を並べなかった。今ここで確かめられないことを口にしても、子供の苦しさは変わらない。
「いまは無理に飲ませない。吐き気が落ち着いて、意識がはっきりしているかを見ながら、少しずつ試す。飲んでもまた吐くなら、すぐ知らせてくれ」
少年が、景継の袖をつかんだ。
「弟は、助かりますか」
答えるまでに、ほんのわずかな間があった。
「助けるために、できることをする。だが、今はまだ約束できない」
少年は唇をかみ、うなずいた。
景継が部屋を出ると、綾が戸口の外で待っていた。片腕で持てる範囲の荷を脇に寄せ、通路を空けている。避難に備えてまとめた荷物が、壁沿いに並んでいた。
「この家の者は、移動できるか」
「母親は歩ける。兄も歩ける。ただ、弟を連れていくなら、誰かが抱える必要がある」
「門は」
「まだ開かない。通す者も、運び出す物も決まっていないからだそうです」
綾の視線は通路の先へ向いていた。人が集まり始めている。荷を背負った者、幼子を抱く者、足を引きずる老人。誰もが門の方を気にしていた。
開かない門を前に、待つことしかできない者が増えていく。
「門が開いてから決めるのでは遅いな」
景継が言うと、綾はうなずいた。
「だから先に分けています。自分で歩ける者。支えがあれば歩ける者。運ばなければならない者。それと、付き添いが要る者です」
綾の足元には、短い木札が数枚置かれていた。名前と、歩けるかどうか。誰が付き添うか。持ち出す荷は何か。書き込む場所を分け、あとから見ても分かるようにしてある。
景継が教えたこともあった。だが、分類を考え、木札に落とし込み、ほかの者が使える形にしたのは綾だった。
「弟を運ぶ者は、まだ決められない」
「容態を見てからでいい。無理に動かせば、途中で悪くなることもある」
「分かっています。だから、あの子の家だけは、門が開いてから考えることにしません」
綾は木札を一枚、別の場所へ置いた。運ぶ者の欄は空いていた。
その時、廊下の向こうから小夜が歩いてきた。手には帳面と、使い古した筆がある。
「同じ桶を使った家を調べています」
彼女は帳面を開いた。
「水を汲んだ場所、汲んだ時刻、飲んだ人。分かる範囲で書きました。ただ、腹痛や吐き気を訴えたのは、今のところあの子だけです」
「同じ水を飲んだ者は、具合が悪くないのか」
「はい。ただ、全員に聞けたわけではありません。まだ確かめられていない家もあります」
景継は記録に目を落とした。水を汲んだ時刻は揃っていない。桶を置いた場所も違う。食べた物については、聞き取りそのものが済んでいない家が多かった。
原因を一つに絞るには足りない。
「このまま調べてくれ。症状が出た者と、出ていない者を分けて記す。水だけでなく、食べた物もだ。分からないところは空けておいていい」
「はい」
小夜は帳面の端に書き足そうとしていた文字を消した。何かを断定する代わりに、まだ分からないことを書き残す。その手つきには、以前より迷いが少なかった。
遠くで、桶が地面に置かれる音がした。
千代が戻ってきた。背後には、荷を担いだ男が一人いる。男の肩には布の束、腰には小さな道具袋が下がっていた。
「桶は、数をそろえるだけでは足りませんでした」
千代は息を整えながら言った。
「貸してくれる者はいましたが、返す時期と、誰が運ぶかを決めろと言われました。薪も同じです。こちらが必要だと言うだけでは、向こうも引き受けられません」
「それで?」
「すべてではありませんが、運べる分を確保しました。水を入れる桶と、汚れた布を入れる桶は混ぜない。使った後にどこへ戻すかも決めました。運ぶ者には、行き先を伝えてあります」
千代が男に目を向けると、男は短く頭を下げた。
「俺は桶を運ぶ。だが、道が塞がれたら戻る。通れぬ場所を無理に進む約束まではできん」
「それで構いません」
千代は答えた。
「戻った時に、どこまで運べたか教えてください。次に頼む量を変えます」
男は意外そうに千代を見たが、やがてうなずいた。
景継は、四人の間に置かれた帳面と木札を見た。
患者の容態は、まだ分からない。水が原因かどうかも分からない。門がいつ開くのか、開いたところで誰が通れるのかも決まっていない。
それでも、分かっていることは少しずつ形になっていた。
どこから水を運んだのか。誰が具合を悪くしたのか。誰が歩けて、誰に手が要るのか。誰が何を運び、どこへ戻すのか。
ひとつひとつは、戦の行方を変えるようなことではない。
だが、混乱の中で互いを見失わないためには、必要なことだった。
昼を過ぎても、門は開かなかった。
待ちきれなくなった男が、荷を背負ったまま門番の詰所へ向かおうとした。綾が声をかけるより早く、近くにいた年配の女が、その男の前に立った。
「行くなら、誰を連れていくのか決めてからにしなさい」
「俺は自分の家族を連れていくんだ」
「その荷では、子供を抱えられないでしょう」
女は男の荷を見た。男は言い返しかけ、背負い紐を握り直した。
「……なら、荷を一つ減らす」
「減らす前に、何を残すか決めなさい。捨ててから困っても戻れない」
綾が近づくと、女は気まずそうに目を伏せた。
「勝手なことを言いました」
「いいえ」
綾は木札を一枚、女に差し出した。
「その家の者が歩けるか、誰が付き添うか、ここに書いてください。決めたことが変わったら、書き直せばいい」
女は木札を受け取り、筆を手にした。
男は背負っていた荷を下ろし、中を確かめた。布包みを一つ取り出し、残す荷と持っていく荷を分け始める。先ほどまで門の方へ向かっていた足が、家族のいる場所へ戻っていった。
少し離れたところで、小夜が別の家の者に水のことを尋ねている。千代は運び手の男と桶の戻し先を確認していた。誰かが景継の指示を待っているわけではなかった。
景継は、少年の弟のいる家へ戻った。
子供はまだ横になっていた。額に触れると、熱があるようにも思えたが、手の感触だけで決めることはできない。呼びかけると目を開けた。先ほどより意識ははっきりしている。吐き気は続いていたが、直前に吐いた時刻を母親が覚えていた。
「少し、間が空きました」
母親が言った。
「水は、まだ飲ませていません。言われた通りにしています」
景継はうなずいた。
「よく見ていてくれた。これからも、吐いた時刻と様子を覚えておいてほしい」
少年は弟の手を握ったまま、景継を見上げた。
「門が開いたら、俺が弟を運びます」
「お前一人でか」
「俺は歩けます。母さんも歩ける。でも、弟は歩けないから」
景継は少年の肩と腕を見た。まだ幼い。弟を抱えて長い距離を歩けるとは限らない。
「運ぶ役は、ほかの者にも頼む。お前は弟のそばにいて、様子が変わったら知らせてくれ」
少年はすぐには答えなかった。自分が弟を運べなければ、守れないと思っているのだろう。
景継はその手を無理にほどかなかった。
「そばにいることも、守るために必要だ」
少年は弟の手を握り直した。
外から、短い呼び声が届いた。
「門前の者は、札を持って集まれ!」
綾の声だった。
景継が戸口から顔を出すと、通路の人々が少しずつ動き始めていた。木札を持つ者が、歩ける者と運ばれる者に分かれている。荷を減らした男が、今度は隣家の老人の杖を持っていた。千代の手配した桶は、使う場所ごとに分けて並べられている。
小夜は帳面を抱え、確認の終わった家に印をつけていた。
門は、まだ閉じている。
それでも、人々はただ門を見つめて待つだけではなくなっていた。
景継は部屋の中へ戻り、子供の呼吸を確かめた。まだ安心できる状態ではない。これから何が起きるかも分からない。
だが、もし門が開けば、運ぶ者がいる。付き添う者がいる。水を確かめ、荷を分け、誰がどこにいるかを伝える者がいる。
その準備をしたのは、景継一人ではなかった。
戸口で、少年が小さく尋ねた。
「先生。門が開いたら、弟も一緒に行けますか」
景継は子供の顔を見た。
「一緒に行けるように、今、準備している」
その時、門の方から重い音が響いた。
人々の声が止まる。
木札を握る手が、いっせいに門へ向いた。
だが、開いたのは門扉ではなかった。
詰所の小さな戸が開き、使いの者が一人、こちらへ駆けてくる。
「運び出す者の名を、すぐに改めて出せとのことだ!」
綾が一歩前へ出た。
「何人まで通せるのです」
「まだ分からぬ!」
使いの者は息を切らし、首を振った。
「通す順も、誰が決めるかも、これからだそうだ」
綾は木札を手元に集めた。名だけを書いた札と、歩けるかどうかを記した札。付き添いの名がある札と、運ぶ者がまだ決まっていない札。並べてみれば、空いている欄がいくつも見えた。
「今の札では足りません。運ぶ者と付き添いを、もう一度確かめます」
「急げとのことだ」
「急ぎます。ですが、名だけ出しても、誰をどう運ぶか決まりません」
使いの者は返事をせず、詰所へ戻っていった。
綾は近くにいた者たちへ声をかけた。
「家ごとに集まってください。歩ける者、支えがあれば歩ける者、運ばれる者。付き添いが決まっていない家は、こちらへ」
小夜は帳面を開き、木札の名と照らし始めた。千代は運び手を呼び、誰がどこまで運べるかを一人ずつ確かめていく。
景継は、病児の家の札を手に取った。
母親と兄は歩ける。弟は自分では歩けない。兄がそばにいる。だが、運ぶ者の欄は空いたままだった。
その空欄を埋めるには、誰かの手が要る。誰かをその場から離すなら、その者が担っていた仕事を、別の誰かが引き受けなければならない。
運ぶ者を決めることは、名前を一つ書き足すだけでは済まなかった。
「この子の容態は、引き続き私が見ます」
景継は綾に言った。
「運ぶ者は、ほかの家の割り当てと合わせて考えてくれ。無理に抱えて歩かせるわけにはいかない」
「分かりました。札には、運ぶ必要があることと、容態を確認する者を書いておきます」
綾は筆を取った。空欄の横に、短く書き足していく。
日が傾くにつれ、門前の影が長くなった。名を改めた札は何度も並べ直された。家族が揃わない者、付き添いを頼めない者、荷を減らしても歩けるか分からない者。確かめるたびに、新しい空欄が見つかった。
それでも、誰がどこにいるのかは、少しずつ帳面と札に残っていった。
門は開かなかった。
夜になっても、通す人数も順も告げられなかった。木札は綾の手元に集められ、小夜の帳面には確認できたことと、まだ確かめられないことが分けて記された。千代は桶と布、運び手の名を確かめ、翌朝に持ち出せるものを数え直した。
景継は、病児の家を離れる前に、もう一度子供の呼吸を確かめた。吐いた時刻を母親に尋ね、変化があればすぐ呼ぶよう伝えた。兄は弟のそばを離れなかった。
「明日も、ここに来ますか」
少年が尋ねた。
「来る。だが、私が来る前に変化があれば、すぐに知らせてくれ」
少年はうなずいた。
戸を閉めると、夜気が頬に触れた。廊下の向こうでは、まだ木札を確かめる声がしていた。誰かが名を読み、別の誰かが返事をする。そのたびに、筆が紙を擦る音が続いた。
景継は、手元に残った札を見た。
歩ける者。支えを要する者。運ばなければならない者。付き添う者。運ぶ者。
すべてを通せる保証はない。誰の名が先に呼ばれるかも、まだ分からない。
それでも、誰がどこにいて、何を必要としているかを、明日の朝に一から探し直すことは避けられる。
残せるものは、荷だけではなかった。
人の名を残す。確かめたことを残す。誰かが動けなくなった時、その手を引き継ぐ者が分かるようにしておく。
門が開くかどうかは、景継たちには決められない。
だが、門が開いた時に、誰かを見失わずに済むかどうか。そのための手は、今夜も動いていた。




