↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
滅びるはずの小田原衆を、転生医師が救う  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/50

第三十九話 残す手

第三十九話 残す手


 少年の家は、城内の道から少し外れた長屋の一角にあった。


 景継が戸口をくぐると、湿った土と煮炊きの煙の匂いが鼻をついた。薄暗い部屋の隅に、幼い男の子が横向きに寝かされている。そばには母親らしい女が膝をつき、少年がその肩を両手で握っていた。


「弟です。朝から、何度も吐いて……」


 少年の声はかすれていた。


 景継は返事を急がず、まず子供の顔を見た。唇が乾いている。呼びかけると目を開けたが、すぐにまぶたが落ちた。


「いつからだ」


「夜明け前です。腹が痛いと言って、それから」


「最後に吐いたのは」


「つい先ほどです」


 景継は子供の腹にそっと手を当てた。触れた場所を確かめるように、顔色と呼吸を見ながら尋ねていく。子供は身をよじったが、痛みの場所をうまく伝えられなかった。


 水を飲んだ時刻。口にした食べ物。便の様子。熱があるか。ほかに同じ症状の者はいないか。


 答えは途切れ途切れだった。


「水が悪かったのでしょうか」


 母親が、戸口に置かれた桶を振り返った。


「まだ分からない」


 景継は言った。


「水を飲んだ後に具合が悪くなったことと、水が原因であることは同じではない。食べた物も、ほかの者の具合も確かめたい」


 母親の顔から血の気が引いた。景継は、それ以上原因を並べなかった。今ここで確かめられないことを口にしても、子供の苦しさは変わらない。


「いまは無理に飲ませない。吐き気が落ち着いて、意識がはっきりしているかを見ながら、少しずつ試す。飲んでもまた吐くなら、すぐ知らせてくれ」


 少年が、景継の袖をつかんだ。


「弟は、助かりますか」


 答えるまでに、ほんのわずかな間があった。


「助けるために、できることをする。だが、今はまだ約束できない」


 少年は唇をかみ、うなずいた。


 景継が部屋を出ると、綾が戸口の外で待っていた。片腕で持てる範囲の荷を脇に寄せ、通路を空けている。避難に備えてまとめた荷物が、壁沿いに並んでいた。


「この家の者は、移動できるか」


「母親は歩ける。兄も歩ける。ただ、弟を連れていくなら、誰かが抱える必要がある」


「門は」


「まだ開かない。通す者も、運び出す物も決まっていないからだそうです」


 綾の視線は通路の先へ向いていた。人が集まり始めている。荷を背負った者、幼子を抱く者、足を引きずる老人。誰もが門の方を気にしていた。


 開かない門を前に、待つことしかできない者が増えていく。


「門が開いてから決めるのでは遅いな」


 景継が言うと、綾はうなずいた。


「だから先に分けています。自分で歩ける者。支えがあれば歩ける者。運ばなければならない者。それと、付き添いが要る者です」


 綾の足元には、短い木札が数枚置かれていた。名前と、歩けるかどうか。誰が付き添うか。持ち出す荷は何か。書き込む場所を分け、あとから見ても分かるようにしてある。


 景継が教えたこともあった。だが、分類を考え、木札に落とし込み、ほかの者が使える形にしたのは綾だった。


「弟を運ぶ者は、まだ決められない」


「容態を見てからでいい。無理に動かせば、途中で悪くなることもある」


「分かっています。だから、あの子の家だけは、門が開いてから考えることにしません」


 綾は木札を一枚、別の場所へ置いた。運ぶ者の欄は空いていた。


 その時、廊下の向こうから小夜が歩いてきた。手には帳面と、使い古した筆がある。


「同じ桶を使った家を調べています」


 彼女は帳面を開いた。


「水を汲んだ場所、汲んだ時刻、飲んだ人。分かる範囲で書きました。ただ、腹痛や吐き気を訴えたのは、今のところあの子だけです」


「同じ水を飲んだ者は、具合が悪くないのか」


「はい。ただ、全員に聞けたわけではありません。まだ確かめられていない家もあります」


 景継は記録に目を落とした。水を汲んだ時刻は揃っていない。桶を置いた場所も違う。食べた物については、聞き取りそのものが済んでいない家が多かった。


 原因を一つに絞るには足りない。


「このまま調べてくれ。症状が出た者と、出ていない者を分けて記す。水だけでなく、食べた物もだ。分からないところは空けておいていい」


「はい」


 小夜は帳面の端に書き足そうとしていた文字を消した。何かを断定する代わりに、まだ分からないことを書き残す。その手つきには、以前より迷いが少なかった。


 遠くで、桶が地面に置かれる音がした。


 千代が戻ってきた。背後には、荷を担いだ男が一人いる。男の肩には布の束、腰には小さな道具袋が下がっていた。


「桶は、数をそろえるだけでは足りませんでした」


 千代は息を整えながら言った。


「貸してくれる者はいましたが、返す時期と、誰が運ぶかを決めろと言われました。薪も同じです。こちらが必要だと言うだけでは、向こうも引き受けられません」


「それで?」


「すべてではありませんが、運べる分を確保しました。水を入れる桶と、汚れた布を入れる桶は混ぜない。使った後にどこへ戻すかも決めました。運ぶ者には、行き先を伝えてあります」


 千代が男に目を向けると、男は短く頭を下げた。


「俺は桶を運ぶ。だが、道が塞がれたら戻る。通れぬ場所を無理に進む約束まではできん」


「それで構いません」


 千代は答えた。


「戻った時に、どこまで運べたか教えてください。次に頼む量を変えます」


 男は意外そうに千代を見たが、やがてうなずいた。


 景継は、四人の間に置かれた帳面と木札を見た。


 患者の容態は、まだ分からない。水が原因かどうかも分からない。門がいつ開くのか、開いたところで誰が通れるのかも決まっていない。


 それでも、分かっていることは少しずつ形になっていた。


 どこから水を運んだのか。誰が具合を悪くしたのか。誰が歩けて、誰に手が要るのか。誰が何を運び、どこへ戻すのか。


 ひとつひとつは、戦の行方を変えるようなことではない。


 だが、混乱の中で互いを見失わないためには、必要なことだった。


 昼を過ぎても、門は開かなかった。


 待ちきれなくなった男が、荷を背負ったまま門番の詰所へ向かおうとした。綾が声をかけるより早く、近くにいた年配の女が、その男の前に立った。


「行くなら、誰を連れていくのか決めてからにしなさい」


「俺は自分の家族を連れていくんだ」


「その荷では、子供を抱えられないでしょう」


 女は男の荷を見た。男は言い返しかけ、背負い紐を握り直した。


「……なら、荷を一つ減らす」


「減らす前に、何を残すか決めなさい。捨ててから困っても戻れない」


 綾が近づくと、女は気まずそうに目を伏せた。


「勝手なことを言いました」


「いいえ」


 綾は木札を一枚、女に差し出した。


「その家の者が歩けるか、誰が付き添うか、ここに書いてください。決めたことが変わったら、書き直せばいい」


 女は木札を受け取り、筆を手にした。


 男は背負っていた荷を下ろし、中を確かめた。布包みを一つ取り出し、残す荷と持っていく荷を分け始める。先ほどまで門の方へ向かっていた足が、家族のいる場所へ戻っていった。


 少し離れたところで、小夜が別の家の者に水のことを尋ねている。千代は運び手の男と桶の戻し先を確認していた。誰かが景継の指示を待っているわけではなかった。


 景継は、少年の弟のいる家へ戻った。


 子供はまだ横になっていた。額に触れると、熱があるようにも思えたが、手の感触だけで決めることはできない。呼びかけると目を開けた。先ほどより意識ははっきりしている。吐き気は続いていたが、直前に吐いた時刻を母親が覚えていた。


「少し、間が空きました」


 母親が言った。


「水は、まだ飲ませていません。言われた通りにしています」


 景継はうなずいた。


「よく見ていてくれた。これからも、吐いた時刻と様子を覚えておいてほしい」


 少年は弟の手を握ったまま、景継を見上げた。


「門が開いたら、俺が弟を運びます」


「お前一人でか」


「俺は歩けます。母さんも歩ける。でも、弟は歩けないから」


 景継は少年の肩と腕を見た。まだ幼い。弟を抱えて長い距離を歩けるとは限らない。


「運ぶ役は、ほかの者にも頼む。お前は弟のそばにいて、様子が変わったら知らせてくれ」


 少年はすぐには答えなかった。自分が弟を運べなければ、守れないと思っているのだろう。


 景継はその手を無理にほどかなかった。


「そばにいることも、守るために必要だ」


 少年は弟の手を握り直した。


 外から、短い呼び声が届いた。


「門前の者は、札を持って集まれ!」


 綾の声だった。


 景継が戸口から顔を出すと、通路の人々が少しずつ動き始めていた。木札を持つ者が、歩ける者と運ばれる者に分かれている。荷を減らした男が、今度は隣家の老人の杖を持っていた。千代の手配した桶は、使う場所ごとに分けて並べられている。


 小夜は帳面を抱え、確認の終わった家に印をつけていた。


 門は、まだ閉じている。


 それでも、人々はただ門を見つめて待つだけではなくなっていた。


 景継は部屋の中へ戻り、子供の呼吸を確かめた。まだ安心できる状態ではない。これから何が起きるかも分からない。


 だが、もし門が開けば、運ぶ者がいる。付き添う者がいる。水を確かめ、荷を分け、誰がどこにいるかを伝える者がいる。


 その準備をしたのは、景継一人ではなかった。


 戸口で、少年が小さく尋ねた。


「先生。門が開いたら、弟も一緒に行けますか」


 景継は子供の顔を見た。


「一緒に行けるように、今、準備している」


 その時、門の方から重い音が響いた。


 人々の声が止まる。


 木札を握る手が、いっせいに門へ向いた。


 だが、開いたのは門扉ではなかった。


 詰所の小さな戸が開き、使いの者が一人、こちらへ駆けてくる。


「運び出す者の名を、すぐに改めて出せとのことだ!」


 綾が一歩前へ出た。


「何人まで通せるのです」


「まだ分からぬ!」


 使いの者は息を切らし、首を振った。


「通す順も、誰が決めるかも、これからだそうだ」


 綾は木札を手元に集めた。名だけを書いた札と、歩けるかどうかを記した札。付き添いの名がある札と、運ぶ者がまだ決まっていない札。並べてみれば、空いている欄がいくつも見えた。


「今の札では足りません。運ぶ者と付き添いを、もう一度確かめます」


「急げとのことだ」


「急ぎます。ですが、名だけ出しても、誰をどう運ぶか決まりません」


 使いの者は返事をせず、詰所へ戻っていった。


 綾は近くにいた者たちへ声をかけた。


「家ごとに集まってください。歩ける者、支えがあれば歩ける者、運ばれる者。付き添いが決まっていない家は、こちらへ」


 小夜は帳面を開き、木札の名と照らし始めた。千代は運び手を呼び、誰がどこまで運べるかを一人ずつ確かめていく。


 景継は、病児の家の札を手に取った。


 母親と兄は歩ける。弟は自分では歩けない。兄がそばにいる。だが、運ぶ者の欄は空いたままだった。


 その空欄を埋めるには、誰かの手が要る。誰かをその場から離すなら、その者が担っていた仕事を、別の誰かが引き受けなければならない。


 運ぶ者を決めることは、名前を一つ書き足すだけでは済まなかった。


「この子の容態は、引き続き私が見ます」


 景継は綾に言った。


「運ぶ者は、ほかの家の割り当てと合わせて考えてくれ。無理に抱えて歩かせるわけにはいかない」


「分かりました。札には、運ぶ必要があることと、容態を確認する者を書いておきます」


 綾は筆を取った。空欄の横に、短く書き足していく。


 日が傾くにつれ、門前の影が長くなった。名を改めた札は何度も並べ直された。家族が揃わない者、付き添いを頼めない者、荷を減らしても歩けるか分からない者。確かめるたびに、新しい空欄が見つかった。


 それでも、誰がどこにいるのかは、少しずつ帳面と札に残っていった。


 門は開かなかった。


 夜になっても、通す人数も順も告げられなかった。木札は綾の手元に集められ、小夜の帳面には確認できたことと、まだ確かめられないことが分けて記された。千代は桶と布、運び手の名を確かめ、翌朝に持ち出せるものを数え直した。


 景継は、病児の家を離れる前に、もう一度子供の呼吸を確かめた。吐いた時刻を母親に尋ね、変化があればすぐ呼ぶよう伝えた。兄は弟のそばを離れなかった。


「明日も、ここに来ますか」


 少年が尋ねた。


「来る。だが、私が来る前に変化があれば、すぐに知らせてくれ」


 少年はうなずいた。


 戸を閉めると、夜気が頬に触れた。廊下の向こうでは、まだ木札を確かめる声がしていた。誰かが名を読み、別の誰かが返事をする。そのたびに、筆が紙を擦る音が続いた。


 景継は、手元に残った札を見た。


 歩ける者。支えを要する者。運ばなければならない者。付き添う者。運ぶ者。


 すべてを通せる保証はない。誰の名が先に呼ばれるかも、まだ分からない。


 それでも、誰がどこにいて、何を必要としているかを、明日の朝に一から探し直すことは避けられる。


 残せるものは、荷だけではなかった。


 人の名を残す。確かめたことを残す。誰かが動けなくなった時、その手を引き継ぐ者が分かるようにしておく。


 門が開くかどうかは、景継たちには決められない。


 だが、門が開いた時に、誰かを見失わずに済むかどうか。そのための手は、今夜も動いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。