第三十八話 水を分ける
第三十八話 水を分ける
水桶の底が見えていた。
景継は桶の縁に手を置き、残った水を確かめた。底には砂が沈み、表面には運び込まれた藁の屑が浮いている。飲み水として使うには、もう一度、確かめなければならなかった。
「次の桶は、いつ届く」
戸口にいた男が首を振った。
「分かりませぬ。運ぶ者が足りず、井戸からこちらへ回すのも滞っております」
外では、負傷者を呼ぶ声が途切れなかった。
夜のうちに運び込まれた者たちに加え、朝になってからも城内のあちこちで手当てを求める者が出ている。傷を負った者だけではない。眠れず、食べられず、立ち上がることもできなくなった者もいた。
景継は桶から手を離した。
「この水は、いったん飲み水から外す。別の器に移して、使い道を確かめる。新しい水が来たら、運んだ場所と時刻を記してくれ」
「水を捨てるのでございますか」
「捨てるとは言っていない。何に使えるかを確かめるんだ」
男は桶を見たまま、すぐには動かなかった。
限られた水を使わずに済ませる方法はない。だからといって、何に使うかを決めずに配れば、後で必要なものが足りなくなる。
景継は男と一緒に桶を持ち上げた。重さは、思ったよりも軽かった。
「綾。水を運ぶ者と、使った量を見てくれ。運ぶ道も、患者を通す道とは分けたい」
「分かった。運び手を増やせば済む話じゃないね」
綾は片腕で持てる荷の量を見定めながら、戸口の外へ目を向けた。
「人を増やしても、通り道が塞がれば水は届かない。負傷者を運ぶ者と、水を運ぶ者がぶつからないようにする」
そう言うと、彼女は近くにいた男たちを呼び、桶を置く場所と通る順を指示し始めた。
景継は診療所の奥へ戻った。
寝かされた男の一人が、乾いた唇を動かしていた。脛に深い傷がある。布は巻かれているが、端に赤い染みが広がっていた。
「水を……」
男は景継を見上げた。
「喉が渇いた」
「分かっている。少し待ってくれ」
景継は傷の周囲を確かめた。布を外すと、傷口の一部から血がにじんでいる。傷そのものを見極めるより先に、まず出血を抑えなければならなかった。
「小夜、清潔な布を」
「こちらです」
小夜は用意していた布を差し出した。布の山を前に、彼女の手は迷わなかった。汚れたものと、まだ使っていないもの。洗って乾かしたものと、これから処理するもの。それぞれの置き場を分けてある。
景継は布を傷に当て、圧をかけた。
「このまま押さえていてくれ。手を離さないで」
そばにいた手伝いの男がうなずき、両手で布を押さえた。景継は傷の周囲を見ながら、男の顔色と呼吸を確かめる。
すぐに血が止まるとは限らない。傷が塞がったように見えても、再び出血することはある。
「小夜、時刻を記してくれ。布を替えた時刻もだ」
「はい。出血の様子も書いておきます」
小夜は筆を取った。しばらく男の傷を見つめ、それから景継に尋ねた。
「水は、傷を洗う分も足りなくなりますか」
「足りなくなる可能性はある。だから、使う前に必要な量を見極める。傷を洗う水と、飲む水は同じ扱いにしない」
「では、先に使った分も記しておけば、次に必要な量を考えられますね」
「そうだ」
小夜は帳面に目を落とした。
景継がすべてを覚えている必要はない。何を使い、どれだけ残り、どこで足りなくなったのか。後から確かめられるようにしておけば、次の判断を少しでも確かなものにできる。
戸口で足音がした。
「景継様」
千代だった。手には、小さな木札と帳面を持っている。
「城内の水を運ぶ者に聞いてきました。いま運べる量は、朝のうちに届くと見込んでいた分より少ないそうです。人手を回しても、すぐには増やせません」
「どこから、どれだけ運べる?」
「それぞれの井戸と、運ぶ者の数を確かめています。まだ確かな数とは申せません。ただ、どこも同じように人を求めています。こちらへ回せば、別の場所で足りなくなる」
千代は木札を置いた。
「だから、必要な量と、運ぶのにかかる手間を分けて聞いています。こちらが求めるだけでは、向こうも引き受けられません」
景継はうなずいた。
「助かる。必要な量はこちらでまとめる。分からない分は、分からないと残しておいてくれ」
「はい」
千代はすぐに帳面を開き、書き始めた。
そのとき、外から声が上がった。
「こちらへ運んでよいのか!」
続いて、複数の足音が近づいてくる。
戸口に現れたのは、二人の男に支えられた若い兵だった。額に汗が浮かび、足を引きずっている。腕には布が巻かれていたが、布の端から血が落ちていた。
「先にこの者を診てくれ!」
運んできた男が叫んだ。
「いや、こちらの者も立てぬ。いつまで待たせる!」
奥から別の声が返る。
景継は立ち上がった。目の前の兵の傷だけを診ていては、別の患者の変化を見落とす。かといって、全員を同時に診ることもできない。
「小夜、いま診ている者の出血を見ていてくれ。変化があれば、すぐ呼ぶんだ」
「分かりました」
「綾!」
呼ぶより早く、綾が戸口へ入ってきた。
「聞こえている。運べる者と、自分で歩ける者を分ける。歩けるからといって、すぐに仕事へ戻せるわけじゃない。こちらへ来る順を決めるよ」
綾は若い兵の顔を見てから、支えている男たちに尋ねた。
「この者は、いつから歩けなくなった」
「ここへ来る途中からです。腕の傷を押さえていたら、急に足がふらついて」
「傷だけじゃないかもしれない。無理に立たせるな。そこへ寝かせて」
男たちは指示に従い、兵を静かに横たえた。
景継は腕の布を確かめ、兵の顔色を見た。出血の量だけで、状態を決めつけることはできない。いつ負傷したのか、どのくらい血を失ったのか。意識ははっきりしているか。呼吸はどうか。
「いつ傷を負った」
「夜明け前です」
「それから、どこを通ってきた」
兵は答えようとしたが、言葉が続かなかった。
「まず傷を確かめる。話はその後でいい」
景継は布を外し、傷の深さと出血の具合を見た。小夜が記録を続け、綾はほかの患者を運ぶ者たちへ場所を空けるよう指示している。千代は水の残量を確認し、必要な分をどう回すか、運び手と話していた。
それぞれが別のことをしている。
だが、誰も景継の指示を待って立ち尽くしてはいなかった。
景継は傷を押さえながら、兵の目を見た。
「聞こえるか。名は」
「……新吉です」
「新吉、いまは動かなくていい。こちらで診る」
新吉は小さくうなずいた。
そのとき、先に手当てを受けていた男のそばから声がした。
「先生、血が止まってきました」
景継が振り向くと、男の傷を押さえていた手伝いが、まだ布を離さずにいた。布の染みは広がるのを止めている。景継はすぐに傷を確かめ、押さえる手を替えないよう伝えた。
「そのまま続けてくれ。よく見ていてくれた」
男はほっと息を吐いた。
小夜はその様子を記録し、綾は次の患者を運ぶ順を決め直した。千代が戸口から声をかける。
「水が一桶、届きました。量は多くありません。使い道を決めてください」
景継は一度、桶を見た。
足りない。今ある分だけで、これから運ばれてくる者すべてに十分な水を使うことはできない。どこかで、何かを待たせなければならない。
「まず、必要な処置に使う分を確保する。飲み水は、運んできた場所と状態を確かめてから分けよう。足りない分は、足りないと伝えてくれ」
千代はうなずき、木札に数量を書き込んだ。
その手元を見ていた若い手伝いが、おずおずと口を開いた。
「使い終えた布は、こちらへまとめればよいのでしょうか。まだ使っていない布と、洗う布を分けます」
「そうだ。ただし、まだ使えるものと、洗わなければならないものを一緒にしないでくれ。分けた場所が変わったら、小夜に知らせてくれ」
「分かりました」
若者は布を運び、置き場を確かめた。誰に言われるまでもなく、次に運ばれてきた布を、使う前のものと分けて置いた。
小夜がそれに気づき、短く声をかけた。
「その分け方でいい。置き場所が変わったら、こちらにも知らせてください」
若者はうなずいた。
景継は、再び新吉の傷に向き直った。
水は増えていない。傷を負う者も減ってはいない。戦が終わったわけでも、明日の見通しが立ったわけでもなかった。
それでも、さっきまで一つの場所に押し寄せていた人と物の流れが、少しずつ分かれ始めていた。道が空いたわけではない。水が増えたわけでもない。手伝いの若者は、布を分けたあと、空いた桶の数も数え、千代に伝えた。千代はその数を聞いて、次に必要なのが水そのものか、桶か、運び手かを帳面の余白に書き分けた。
運ぶ者は運ぶ。記す者は記す。傷を押さえる者は、景継が別の患者を診ている間も、その手を離さない。
景継一人がすべてを見ていなくても、手当ては止まらなかった。
そのことを確かめるように、景継は新吉の呼吸をもう一度見た。
「小夜、次に変化があった時刻も記してくれ」
「はい」
綾の声が、戸口の向こうから飛んだ。
「次の負傷者が来るよ。今度は、歩けない者が二人だ」
景継は顔を上げた。
まだ、終わりではなかった。




