第三十七話 水桶の行方
第三十七話 水桶の行方
水桶を運んできた少年の手は、赤く腫れていた。
桶の縁を握る指が白くなるほど力を込めている。肩で息をしながら、少年は井戸端に桶を置いた。
「これで全部です」
その声に、綾が振り返った。
「全部って、何桶だい」
「三つ。向こうの井戸から、これだけ」
綾は桶の中を覗いた。水面には細かな枯れ葉が浮いていた。底の方には、砂が沈んでいる。
「この水、どこから汲んだ」
「言ったでしょう。向こうの井戸です」
「誰が先に使った」
少年は答えなかった。
綾は少年の顔を見た。叱られると思ったのか、唇を固く結んでいる。
「怒ってるんじゃない。知りたいんだよ」
「……朝から、いろんな人が来てました。兵の人も、城下の人も。桶を落とした人もいました」
「桶を落とした?」
「井戸の中にじゃありません。汲んだ水を、運ぶ途中で」
綾は水桶から目を離さなかった。
その井戸が、いつもと同じ状態なのか。誰が使い、どんな桶で汲み、どこを通って運んできたのか。いまの話だけでは分からない。
だが、分からないまま、三つの桶を使わせるわけにはいかなかった。
「景継を呼んできておくれ。それから、この桶には誰も触らせないで」
「水を使わないんですか」
「まだ決めてないよ」
少年は不満そうに桶を見た。
「水がなければ、手も洗えないし、傷も洗えません」
「だから、調べるんだ」
綾の声は強かった。少年は一度だけ彼女を見返し、それから走っていった。
綾は片腕で桶を動かそうとしたが、縁をつかんだところで手を止めた。満たされた桶は重い。無理に持ち上げれば、せっかくの水をこぼすだけだ。
近くにいた男を呼び、桶の周りに人が寄らないよう頼んだ。
男は頷いたものの、すぐには動かなかった。
「しかし、ほかの水も足りておりません。これまで止めたら、どうなります」
「止めるのは、これがどこから来たか分かるまでだよ。ほかの水まで使うなとは言ってない」
「どこから来たかなら、少年が言ったでしょう」
「井戸の場所は分かった。でも、井戸の中がどうなっているかは分からない。運んできた途中で何があったかもね。誰が汲み、どの桶へ移し、どの道を通り、途中で置いたか。その順をたどりたい」
男は桶を見た。
綾は、その目に浮かんだ苛立ちを見逃さなかった。水を止める判断は、誰にとっても楽ではない。清潔な水が必要なのは、傷を負った者だけではなかった。炊事にも、手洗いにも、衣の汚れを落とすにも要る。
何かを止めれば、別の場所で困る者が出る。
それでも、何も確かめずに使うことはできなかった。
*
景継が来たとき、井戸端には人が集まり始めていた。
「水を止めたと聞いたが」
「この三桶だけだよ。どの井戸から、どう運んだかを確かめてる」
綾の説明を聞き、景継は桶の中を覗いた。浮いた葉と、底に沈む砂。見た目だけで水の安全を判断することはできない。
「水の色や匂いが普段と同じでも、安全とは限らない。逆に、砂が入っているからといって、それだけで病の原因だとも言えない」
「じゃあ、どうするんです」
そばで聞いていた男が尋ねた。
「まず、どの井戸の水なのかを確かめる。井戸の周りに汚れが入り込んでいないか、汲む道具や桶はどうだったか。それから、飲み水にする分と、掃除や洗い物に使う分を分ける」
「煮ればよいのでは?」
「飲み水を煮沸するのは一つの方法です。ただ、薪も要る。すべての水を煮ることはできない。煮る前に汚れが入り込むのを防ぐことも必要です」
景継は桶を指した。
「この水は、まだ使い道を決めない。別の井戸から運んだ水は、汲んだ場所と時刻を確かめてから、使い道を分けよう」
男は眉を寄せた。
「いちいち記すのですか」
「どこの水か分からなくなれば、何かあったときに確かめようがない」
景継はそばの板に置かれた紙を取った。小夜が、すでに墨と筆を用意していた。
「井戸の場所、汲んだ時刻、運んだ者。それだけでいい。まずは今日の分から始める」
小夜は紙に書きつけた。
「運んだ者が覚えていない場合は?」
「覚えていない、と記せばいい。分からないことを、分かったことにしない」
小夜の筆が一瞬止まった。それから、彼女は余白に「不明」と書いた。
その短い文字を見て、景継は頷いた。
記録を整えることが目的ではない。次に同じ水を使うとき、何を確かめればよいか分かるようにするためだ。
景継は少年を呼んだ。
「井戸まで案内できるか」
「はい」
「急がなくていい。道を覚えているなら、それで十分だ」
少年は、今度はすぐに頷いた。
*
井戸へ向かう道は、人の往来で踏み固められていた。
城内へ物を運ぶ者、負傷者を支える者、空の桶を抱えた者が、それぞれの行き先へ急いでいる。誰もが自分の用を抱えていた。水を運ぶ者に道を譲れと命じても、別の場所で荷が滞る。
千代は道の脇で、運搬に使う桶を確かめていた。
「この桶は、飲み水を運ぶものですか」
千代が荷を運ぶ男に尋ねた。
「そうだと聞いています」
「誰から?」
「前に運んだ者から」
「その前は?」
男は口をつぐんだ。
千代は責めなかった。ただ、桶の内側を見てから、男の荷車を指した。
「ほかの荷と一緒に積んでいたのですね」
「空の桶ですから」
「空でも、何を運んだ荷車かは関係します。泥のついた道具や汚れた布と一緒なら、飲み水を運ぶ前に確かめなければなりません」
「では、これからは別の荷車を用意しろと?」
「すぐには用意できません。だから、まず飲み水を運ぶ桶を分けます。洗って乾かす場所も決めたいのです。ただし、私一人で決めても、運ぶ者がいなければ続きません」
千代は荷車の持ち主を見た。
「どのくらいなら、今日から分けられますか」
男は考え込んだ。
「二つ。いや、桶なら三つあります。ただ、運び手は同じです。ほかの荷もありますから、何度も往復はできません」
「一度に運べる量を教えてください。必要な水の量と、運べる量を合わせます。足りない分は、別の方法を考えます」
「必ず足りるとは言えませんよ」
「ええ。私も、足りるとは約束できません」
千代はそう答えて、持っていた紙に条件を書き留めた。
新しい桶も、新しい荷車も、すぐには増えない。運ぶ者の時間にも限りがある。頼み込めば何とかなるという話ではなかった。
それでも、何をどこまでできるのかが分かれば、次の判断はできる。
千代は男に礼を言い、景継たちの後を追った。
*
井戸の周囲には、汲み上げた水がこぼれた跡が残っていた。
井戸の縁に大きな破損はない。周囲の土は踏み固められ、桶を置いた跡が幾重にも重なっていた。水を汲む縄も、桶の内側も、使われ続けている様子だった。
景継は少年に、朝からのことをもう一度尋ねた。
「水をこぼしたのは、どの辺りだ。桶を倒したあと、誰が拾い、どこへ置き、井戸へ戻したのかも覚えている範囲で話してくれ」
「そこの曲がり角です。桶を持った人がぶつかって、半分くらいこぼしました」
「その後、その桶はどうした」
「また井戸へ戻していました。水を汲み直すために」
景継は井戸の縁を見た。
「その桶は、どれだか分かるか」
「……分かりません」
少年は俯いた。
「すみません」
「謝らなくていい。見ていなかったことまで、覚えているふりをされる方が困る」
景継は綾に目を向けた。
「井戸そのものに問題があるとは、まだ言えない。ただ、汲み直すときに桶の外側や縁についた汚れが入った可能性はある。今は、この井戸の水を飲み水として運ぶのを一旦止めよう」
「ほかの井戸は?」
「同じだと決めつけない。使っている道具と周囲を確かめて、問題がなければ使い道を決める」
綾は周囲の人々を見回した。
「聞いたね。ここで水を汲むのは一旦止める。ほかの井戸へ向かう者は、行き先を確かめてからだ。勝手に桶を替えたり、別の水と混ぜたりしないこと」
人々の間から、不満の声が上がった。
「これ以上、どこへ行けというんだ」
「水がなければ、飯も炊けないぞ」
「傷を洗う水はどうする」
どれも、もっともな声だった。
景継はすぐに答えなかった。水を止める判断の正しさを説明するだけでは、喉の渇きは収まらない。
彼は千代が持ってきた紙を見た。
「今、別の井戸から運べる量は?」
「桶三つ分を、ひとまず確保できます。ただし、同じ者がほかの荷も運んでいるので、これ以上はすぐに増やせません」
「その三桶は、飲み水と、傷を洗う水に分けられるか」
「使う人数を決めていただければ、分けられます。でも、全部を満たす量ではありません」
「分かった」
景継は綾に向き直った。
「傷を洗う水は、処置に必要な分を優先する。飲み水は、煮沸できる分を決めて、誰がどこへ運ぶかを記す。炊事用は、別に量を見よう」
「飲み水を煮る薪は?」
綾の問いに、景継はすぐには答えられなかった。
薪を増やせば、炊事に使う分が減る。炊事を減らせば、食事を待つ者が出る。水を節約しすぎれば、別のところで困る。
「千代、薪の残りを確かめてくれ。炊事場にも、どれだけ必要か聞いてほしい」
「分かりました。ただ、すべての望みどおりにはできません」
「それでいい。できる量を教えてくれ」
千代は頷き、足早に戻っていった。
景継は小夜に紙を渡した。
「井戸ごとに分けて記録してほしい。水を汲んだ時刻、運んだ者、使い道。それから、腹痛や吐き気、下痢などを訴える者がいたら、いつから症状が出たのかも確かめる。水が原因だと決めつけず、ほかのことも聞いてくれ」
「同じ井戸を使った者が、全員同じ症状になるとは限りませんね」
「そうだ。症状が出ない者がいるからといって、安全だとも言い切れない」
小夜は紙を胸に抱えた。
「誰が、どこで、何を使ったか。分からないところは分からないままにしておきます」
「頼む」
小夜は井戸の方へ歩き出した。途中で、空の桶を抱えた女が立ち止まっているのに気づき、声をかけた。
「どこの井戸へ行くつもりですか。今、使える場所を確かめています」
景継はその背中を見送った。
小夜は、誰かに指示されるまで待ってはいなかった。
*
夕刻までに、使える水の行き先は少しずつ整理された。
井戸の水をすべて止めることはできなかった。水源を一つずつ調べ、汲み方や運び方を確かめ、飲み水として扱うものと、掃除などに回すものを分けた。
桶の置き場も決めたが、すべてを別々にすることはできない。洗う場所には人手が要り、乾かすには時間がかかる。運ぶ者が戻らなければ、次の水は届かない。
千代が確保した桶は、決めた順に運ばれた。必要な量を満たすには足りなかったが、どこへ何を回したのかは分かるようになった。
綾は、運ばれてきた水を受け取る者に、桶を置く場所と使い道を伝えた。片腕では重い桶を持ち上げられない。それでも、誰が運び、誰が受け取り、どこで使うのかを決めることはできる。
小夜は記録を続けた。運んだ者が分からない水には、そのまま不明と記した。空欄を埋めるために、誰かの記憶を都合よく書き換えることはしなかった。
景継は、傷を洗うための水を受け取り、必要な分だけを使った。
水を分けたからといって、病が防げると約束できるわけではない。すでに何かが入り込んでいた可能性もある。症状が出るまでに時間がかかることもある。
できることを一つずつ行い、その結果を確かめるしかなかった。
夕餉の支度が始まる頃、朝に水を運んだ少年が戻ってきた。
「先生」
景継は顔を上げた。
「どうした」
「弟が、腹を痛がっています」
少年の息が乱れていた。走ってきたのだろう。顔には汗が浮かび、握りしめた手が震えている。
「いつからだ」
「昼過ぎからです。何度も腹を押さえて、さっきから水のようなものを吐きました」
景継は立ち上がった。
「弟は、何を飲んだ?」
「家にあった水です。朝、俺が汲んだ水も、少し飲んだかもしれません」
景継は少年の目を見た。
「分かった。案内してくれ」
少年は走り出しかけて、足を止めた。
「……弟も、あの井戸の水を飲んだから、こうなったんでしょうか」
「まだ分からない」
景継は、少年を急かさずに続けた。
「水以外に何を食べたか、いつから具合が悪くなったか。弟の様子を見て、確かめる。お前が覚えていることも、全部教えてくれ」
少年は唇を噛んだあと、頷いた。
二人が歩き出すと、小夜が記録の紙を抱えて追いついた。
「井戸の水を飲んだ人のうち、具合が悪いと申し出た者は、今のところほかに二人です。どちらも、いつから症状が出たかはまだ確認できていません」
「水を飲んだ時刻と、症状が始まった時刻を分けて記しておいてくれ。食べたものも分かれば頼む」
「はい」
景継は歩きながら、三人の名が書かれた紙を受け取った。
井戸の水が原因なのか。食べ物なのか。それとも、別のところで同じものに触れたのか。
まだ、答えはない。
だが、朝にはただの水桶だったものが、いまは誰が使い、誰が具合を悪くしたのかを確かめる手がかりになっていた。
少年が、景継の袖をつかんだ。
「先生。弟は助かりますか」
景継は、その手を振りほどかなかった。
「まず、弟の様子を見せてくれ」
約束はできない。
それでも、見に行くことはできる。
城の奥では、次の水を待つ桶が、空のまま並んでいた。




