第三十六話 水場の異変
第三十六話 水場の異変
水桶を運んできた少年が、戸口で足を止めた。
「これ、使ってもよいのでしょうか」
桶の中には、半分ほど水が残っていた。表面には細かな藁屑が浮き、底の方は濁っている。運んできた少年の頬には汗が流れ、息が荒かった。
景継は桶に近づき、水面を覗き込んだ。
「どこから汲んだ」
「城下の井戸です。いつものところで」
「いつもと違ったことはなかったか」
少年は首を傾げた。
「人が多くて……順番を待ちました。それから、桶を落とした者がいて、少し騒ぎになりました」
「この水は、誰かが口をつけたか」
「いえ。運んでいる途中で、こぼさぬようにしておりました」
景継は、すぐには答えなかった。
水が濁っているからといって、それだけで病の原因とは限らない。反対に、澄んでいるから安全だとも言い切れなかった。今は水源の異変、運搬中の汚れ、患者に出た症状を、別々に確かめる必要がある。
「この桶の水は、飲み水には回さない。傷を洗うのにも使わず、いったん分けておいてくれ」
「捨てるのですか」
「まだ捨てるとは決めていない。だが、確かめるまでは使わない」
少年は困ったように桶を見た。水を汲むにも、運ぶにも、人手がいる。簡単に捨ててよいものではないのだろう。
「千代を呼んでくれるか。それから、この水を汲んだ場所と時刻を覚えている者がいたら、話を聞きたい」
「分かりました」
少年が走り去ると、景継は桶のそばにしゃがみ込んだ。
水の確保は、これまでにも頭を悩ませてきた問題だった。だが、人が増えれば、必要な水の量も増える。負傷者が増えれば、飲むためだけでなく、手や道具を清め、汚れた布を扱うためにも水が要る。
足りないからといって、何にでも同じ水を使えば、かえって危険を広げかねない。
景継が桶から顔を上げたとき、奥の部屋から綾の声が響いた。
「こちらへ運んでください。寝かせる場所を空けて」
続いて、複数の足音が近づいてきた。
担架代わりの戸板に、一人の男が横たえられていた。額から頬にかけて血が流れ、着物の脇腹も赤く染まっている。男の後ろには、腕を押さえた若者が続いていた。さらに、足を引きずる老人が一人。
「道中で襲われたのか」
景継が問うと、運んできた男が首を振った。
「襲われたというより、荷を運ぶ列が崩れまして。前の者が転び、後ろから押されて……」
「どこでだ」
「城下へ入る手前です。人も荷も増えて、道が詰まっておりました」
景継は戸板の男のそばに膝をついた。
「名前は」
「……源七」
「源七殿、聞こえますか」
男は目を開いた。返事はあったが、声に力がない。景継は呼吸を見て、胸の動きに左右差がないか確かめた。額の傷からはまだ血が滲んでいる。脇腹の布も濡れていた。
「綾、こちらの男を先に診る。若い方は腕を押さえたまま、座らせておいてくれ。老人は歩けるか、意識ははっきりしているかを確かめてほしい」
「分かった」
綾は迷わず動いた。
片腕で人を支えるとき、力任せに持ち上げることはできない。彼女は運び手の一人に戸板の端を持ち直させ、もう一人には男の頭が揺れないように支えさせた。老人には壁際の空いた場所を示し、若者には腕を押さえたまま、無理に動かさぬよう伝えた。
景継は源七の脇腹に当てられた布を確かめた。血は出ている。しかし、どこからどれほど出ているのか、布を一度に取り除かなければ見えない。
「この布は、いつから当てている」
「倒れたときからです」
「押さえていた手を離さずにいてくれたのは、よかった。少しずつ確かめる」
景継は布を慎重にずらし、傷の位置と出血の様子を見た。深さをすぐに見極めることはできない。男の顔色は悪く、脈は速かった。
「源七殿、息苦しさはありますか」
「……少し」
「胸は痛みますか。腹の痛みは」
男は脇腹を押さえようとしたが、景継はその手をそっと止めた。
「無理に動かさなくてよい。痛む場所だけ教えてください」
男の返答を聞き、景継は傷の周囲を確かめた。出血を抑えるため、清潔な布を重ねて圧迫する。呼吸と意識、脈の変化を続けて見なければならなかった。
「綾、ここを押さえていてくれ。力を緩めず、男の顔色と息も見てほしい。変化があれば、すぐに呼んでくれ」
「分かった。源七、苦しくなったら遠慮せず言いなさい」
綾は片手で布を押さえながら、空いた手で男の肩が不自然に動かないよう支えた。
景継は若者の腕を診た。腫れはあるが、指は動く。手先の色と温かさを確かめ、指先に感覚があるか尋ねる。骨折の可能性は残る。動かさずに支え、腫れが強くなるか、痛みが増すかを観察する必要があった。
老人は打ち身があるものの、受け答えはできていた。頭を打っていないか尋ねると、転んだ拍子に肩をぶつけただけだと答えた。だが、本人の言葉だけで安心はできない。綾に、しばらく様子を見て、頭痛や吐き気、意識の変化があれば知らせるよう頼んだ。
三人を診終える前に、戸口から千代が入ってきた。
「水のことでございますね」
「ああ。今朝から、いつもの井戸で何か変わったことがなかったか、確かめたい。汲んだ場所と時刻、それから誰が運んだかを分けて聞いてくれないか」
千代は桶を見て、すぐに頷いた。
「分かりました。ただ、飲み水を止めるのであれば、代わりをどうするかも同時に考えなければなりません。すでに汲んである分まで使えなくなれば、今日の分が足りなくなります」
「その通りだ。全部を止めるとは言っていない。水源ごとに確かめたい」
「では、桶にも印をつけましょう。どこから汲んだものか分からなくなれば、確かめる意味がありません」
千代は近くにいた者を呼び、桶を別の場所へ移すよう指示した。運んだ者の名と水を汲んだ場所、時刻を書き留める。別の井戸から届いた水と混ざらないよう、置き場所も分けた。
その手際を見ながら、景継は源七の様子をもう一度確かめた。圧迫を続けている布には、まだ血が滲んでいる。呼吸は先ほどより落ち着いたように見えたが、脈は速いままだった。
安心できる状態ではない。
「小夜はいるか」
「こちらに」
戸口にいた小夜が近づいた。
「今朝から、井戸の周りで変わったことを見なかったか。水を汲む人の数、桶の扱い、何かが流れ込んでいたか。見たことと、人から聞いたことを分けて教えてほしい」
小夜は少し考えてから答えた。
「朝、城下から戻る途中に、井戸の近くで人が列を作っているのを見ました。いつもより多かったと思います。ただ、水が濁っていたかどうかまでは見ていません」
「列ができていたのは、いつ頃だ」
「日が高くなる前です。荷を背負った者も、空の桶を持った者もいました」
「分かった。見たことだけでいい。誰かが何かをしたと決めつけず、ほかに見た者がいないか尋ねてくれ」
小夜は頷いた。
「水を汲んだ人だけでなく、井戸の周りにいた人にも聞きます」
そう言って、彼女は戸口へ向かった。
景継はその背を見送った。疑うべきことがあるとしても、根拠のない疑いを広げれば、人は必要な情報まで話さなくなる。水の異変なのか、運搬の途中で汚れただけなのか、それすらまだ分からない。
しばらくして、千代が戻ってきた。
「今朝、井戸の水を汲んだ者は多かったそうです。城下へ入る荷が増え、道が詰まったため、普段より早く水を確保しようとした者もいたとか。ただ、井戸そのものに何かが落ちたという話は、今のところ聞いておりません。運ぶ途中で桶が倒れたという話はありますが、どの桶かまでは分かっていません」
「ほかの井戸はどうだ」
「二か所から水を運んでいる者に確かめました。そちらは、今のところ同じような濁りは見られないそうです。ただし、まだ実際にこちらで確かめたわけではありません」
景継は頷いた。
「なら、ほかの水を確かめてから、使い道を決めよう。濁りがないから安全だと決めつけることもできないが、全部を同じ扱いにする必要もない」
「飲み水を優先しますか」
「まずは飲み水と、傷の処置に使う水だ。汚れた布を洗う水とは分けたい。ただ、使える水の量を確かめないうちに決めれば、後で足りなくなる」
千代は手元の帳面を開いた。
「では、運ばれてきた水の量も記しておきます。どこから、どれだけ届いたか。使った分も分かる範囲で残します」
「頼む」
そのとき、源七が低く呻いた。
綾がすぐに顔を覗き込む。
「景継、こちらを」
景継は源七のそばへ戻った。男の顔色は先ほどより青白く、呼びかけへの返答も弱くなっていた。布を押さえる手に、じわりと血が滲んでいる。
「源七殿、聞こえますか」
瞼がかすかに動いた。
「痛みは強くなりましたか」
「……寒い」
景継は男の額と手に触れた。身体が冷えている。出血が続いている可能性が高い。布を押さえる位置を確かめ、綾にそのまま圧迫を続けるよう頼んだ。周囲の者には、余計な移動をさせず、身体を冷やさないようにする。
「水を飲ませてもよいですか」
運び手の一人が尋ねた。
「今は飲ませないでくれ。意識や状態が変わっている。まず、呼吸と出血を確かめる」
男の脈に指を当て、呼吸を見続ける。いま必要なのは水ではなかった。水場の異変を調べることも、物資を数えることも重要だ。だが、目の前の患者の状態が変わった以上、優先するものは変わる。
景継は綾と目を合わせた。
「このまま圧迫を続けてくれ。変化を一つずつ知らせてほしい」
「分かっている」
綾の声には揺れがなかった。彼女は源七の顔を見ながら、呼吸の間隔と唇の色を確かめていた。
小夜が戻ってきたのは、その直後だった。
「景継様。井戸の近くにいた者から、一つ聞きました」
「何があった」
「水が濁っていたという話ではありません。今朝、荷車が列に押されて脇へ寄ったそうです。その車に積んでいた水桶が倒れ、地面に置いてあった桶のいくつかが、泥の跳ねる場所に転がったと」
小夜はそこで言葉を切った。
「ただ、それが、こちらへ運ばれてきた水なのかは分かりません。見た者も、桶の持ち主までは覚えていませんでした」
「そうか。誰の桶か分からないなら、まだ決められないな」
「はい。ですが、井戸そのものが濁ったのではなく、運ぶ途中で汚れた可能性はあると思います」
景継は頷いた。
「その可能性を残しておこう。運んだ者が分かれば、桶を確かめられる。ほかの水まで止める必要があるかも、それから判断する」
小夜は、今度はためらわずに頷いた。
景継は源七へ向き直った。呼吸は続いている。だが、危険な状態であることに変わりはない。水の問題に答えが出ても、この男が助かるとは限らなかった。
千代が帳面を閉じずに、傍らで待っていた。
「水は、どこまで使ったかを記しておきます。あとで足りなくなってからでは、何に使ったのかも分からなくなりますから」
「ああ。頼む」
外から、また荷を運ぶ足音が聞こえた。
人が増えれば水が要る。水を運ぶには人手が要る。人手が荷の運搬に取られれば、患者を運ぶ者も足りなくなる。
どれか一つを整えれば済む話ではなかった。
景継は源七の脈を確かめ、綾に視線を向けた。
「しばらく、ここを頼む。少しでも変わったら、すぐに知らせてくれ」
「任せて」
綾は源七のそばを離れなかった。
景継が水桶の置かれた場所へ目を向けると、千代はすでに、運ばれてきた水を一つずつ分け始めていた。小夜は井戸の近くで見たことを、誰が、いつ、どこで見たのかに分けて聞き直している。
まだ、何も解決してはいない。
それでも、誰かの記憶だけに頼らず、どの水を使い、どの水を止めたのかを確かめられる形ができ始めていた。
景継は源七のもとへ戻った。
男の手は冷たいままだった。
水を確かめる時間も、傷を診る時間も、同じ一日の中にある。どちらかを後回しにすれば、別の誰かが困る。
その日のうちに、井戸の水が安全かどうか、結論が出るとは限らなかった。
そして源七が夜を越えられるかどうかも、まだ分からなかった。




